最近は大阪の春の訪れを告げる行事になった感のある、QM2(クイーンメリー2世号)の入港。世界一周豪華客船の旅は無理でも、せめて一度は見ておきたいものと出かけた。
地下鉄大阪港駅を降りて、海遊館に向かって歩くと、何やら前方に新しいビルが出来たような風景が?QM2でした。
とにかく、デカい! 総排水148,500トンと言っても分かりません。全長345メートル、海面からの高さ60メートルを超える、というスケール。天保山岸壁の全面をほぼ占めて着岸していた。
お昼前時分には、早朝に着いて何処やらを見学してきた乗客たちが観光バスで続々帰還、波止場では和太鼓で歓迎のサービス。陽気な乗客も交じって小雨の中、太鼓がなり続いていた。
世界的な経済不況、なんてどこ吹く風、かどうかは知らないが今回のクルーズにいったいどのくらいの乗客が乗船しているのか、知りたくなったが岸壁付近は一般見学者とは接触不能、警備の人に聞いても分からない様子だった。今夜遅くには長崎に向け出港するらしい。
ボンボヤ―ジ。
巨大さをわかりやすくするために画像を追加。
観光バス、作業員の大きさと比較してください。
2012年3月18日日曜日
2012年3月15日木曜日
今日15日は二月堂のお水取りの最後を飾る「だったん帽いただかせ」の日、今年こそはと思っていたが、友の忠告に従い、いつか来る日を期して、京都の百万遍・知恩寺の「てづくり市」へ、ここに通い始めてもう10年になるだろうか。ずいぶんと客も多くなって狭い境内は人でいっぱい。
東寺の弘法市や北野天満宮の骨董市はいわゆる専門業者の市だが、ここは本当の素人、作家さんたちが実行委員会を作って、運営している。その分、個性的な作品や品物が多く、今日もイイ色目のマフラーとハンチング帽を買った。
嫁はんは、お目当ての猫の絵ハガキ屋さんが出ていない、と言いつつ、彫刻刀を買っていた。品物の店以外にも、若い娘たちが手造りのパイや、ケーキをコーヒーと一緒に売っている。
昼前には陽ざしも出てきたので、哲学の道を南下、平日のシーズン前という事で人影もまばら、ゆっくりと個性的な店を覗きながら、永観堂までたどり着いた。
私は知らなかったが、ここには「みかえり阿弥陀さん」という重文があり、せっかくの機会だからと拝観することにした。お寺の案内文には「みかえり」の由来である、不思議な出来事の年月日まで記されている。
永保2年(1082)2月15日、念佛行に励む僧、永観の前にご本尊の阿弥陀如来が立ち、行道の前を歩かれたという。あまりの事に驚き、立ち尽くす永観に阿弥陀様は左肩越しにふり返り「永観、遅し」と言われたという。
永観はその尊い姿を後世に伝えたいと願い、この仏がつくられたという事である。
佛像はふり返るお顔をよく見るために正面右側の間近まで近寄れるようにしてある。解説書には「みかえり」の姿に
「遅れる者を待つ姿勢、思いやり深く周りを見つめる姿勢、そして自分自身をかえりみ、人々とともに正しく前へ進む姿勢」それが阿弥陀様の想いであるとしている。
う~、大阪市の誰かに聞かせたい言葉ではあるようだ。
東寺の弘法市や北野天満宮の骨董市はいわゆる専門業者の市だが、ここは本当の素人、作家さんたちが実行委員会を作って、運営している。その分、個性的な作品や品物が多く、今日もイイ色目のマフラーとハンチング帽を買った。
嫁はんは、お目当ての猫の絵ハガキ屋さんが出ていない、と言いつつ、彫刻刀を買っていた。品物の店以外にも、若い娘たちが手造りのパイや、ケーキをコーヒーと一緒に売っている。
昼前には陽ざしも出てきたので、哲学の道を南下、平日のシーズン前という事で人影もまばら、ゆっくりと個性的な店を覗きながら、永観堂までたどり着いた。
私は知らなかったが、ここには「みかえり阿弥陀さん」という重文があり、せっかくの機会だからと拝観することにした。お寺の案内文には「みかえり」の由来である、不思議な出来事の年月日まで記されている。
永保2年(1082)2月15日、念佛行に励む僧、永観の前にご本尊の阿弥陀如来が立ち、行道の前を歩かれたという。あまりの事に驚き、立ち尽くす永観に阿弥陀様は左肩越しにふり返り「永観、遅し」と言われたという。
永観はその尊い姿を後世に伝えたいと願い、この仏がつくられたという事である。
佛像はふり返るお顔をよく見るために正面右側の間近まで近寄れるようにしてある。解説書には「みかえり」の姿に
「遅れる者を待つ姿勢、思いやり深く周りを見つめる姿勢、そして自分自身をかえりみ、人々とともに正しく前へ進む姿勢」それが阿弥陀様の想いであるとしている。
う~、大阪市の誰かに聞かせたい言葉ではあるようだ。
2012年3月4日日曜日
今日で結婚して30年になる。特に変わったことはせず、昨日のお雛さんのばら寿司と「呉春」の燗で、ささやかに祝った。
記念日が来ると、いつも嫁はんは式当日の事を持ち出して笑っている。というのは、職場の先輩たちが独身生活最後の記念にと、飲み会を開いてくれ、したたかに酔って、新居の宿舎に帰り、風呂釜を着けたまでは覚えているが、そのまま寝込んだのだろう。
どんどんと激しくドアをたたく音に目が覚めた。「風呂がぼこぼこ云ってますよ!」と、近所の方の声にいっぺんに酔いが覚め、明け方まで部屋の天井一面についた露の掃除に追われた。
そのまま一睡もせず、式場に駆け付けたがその間、親族一同と式場で待っていた嫁はんは「このまま一人で式を挙げるのか?」と焦ったという。長いようで、あっという間の30年、最初で、最後(ではなかった)失敗の数々、これからも「あんじょう」頼んます。
記念日が来ると、いつも嫁はんは式当日の事を持ち出して笑っている。というのは、職場の先輩たちが独身生活最後の記念にと、飲み会を開いてくれ、したたかに酔って、新居の宿舎に帰り、風呂釜を着けたまでは覚えているが、そのまま寝込んだのだろう。
どんどんと激しくドアをたたく音に目が覚めた。「風呂がぼこぼこ云ってますよ!」と、近所の方の声にいっぺんに酔いが覚め、明け方まで部屋の天井一面についた露の掃除に追われた。
そのまま一睡もせず、式場に駆け付けたがその間、親族一同と式場で待っていた嫁はんは「このまま一人で式を挙げるのか?」と焦ったという。長いようで、あっという間の30年、最初で、最後(ではなかった)失敗の数々、これからも「あんじょう」頼んます。
2012年3月1日木曜日
今日から弥生、三月です。 嫁はんの脚予報(雨の前には膝が痛くなるらしい)では「昼から雨やで」と言っていたが、曇り空の中にも「お陽~さん」が差し込んで幾分暖かさもあり、結構な日和になった。
今日1日から東大寺二月堂の「修二会」の本行が始まる。昨年は「今年こそ達陀帽戴かせ」に行くぞ、と決心していたのだが東日本大震災の報道に全ての衆目が奪われて、私も行く機会を失ってしまった。
「達陀帽戴かせ」という奇妙な行事の事を知ったのは、友の話からで、満行の朝、籠りの僧が被っていた帽子を子供の頭に載せ、無病息災を願うものであるという事を聞いた。
同時に、「だったん帽子」という言葉の響きにも、強い想いがあった。それは、中学校時代だったと思うが、音楽の先生が当時珍しかったステレオを聞かせてくれて、リカルド・サントス楽団のレコードやらを目を輝かせて(レコードを聴くのにおかしな表現だが)聴いたものだった。そんな中に「韃靼人の踊り」という曲があり、ダッタン人て、どんな人達なんだろうと、えらく興味を覚えたことがあった。
何十年もたって、「修二会」の行事の中に「だったん」の名を聞き、漢字は違うが私はきっと関連があると思っている。
今年で1261回目の不思議な行事、今年こそ「帽子」を「いただかせ」てもらいに行こう。
今日1日から東大寺二月堂の「修二会」の本行が始まる。昨年は「今年こそ達陀帽戴かせ」に行くぞ、と決心していたのだが東日本大震災の報道に全ての衆目が奪われて、私も行く機会を失ってしまった。
「達陀帽戴かせ」という奇妙な行事の事を知ったのは、友の話からで、満行の朝、籠りの僧が被っていた帽子を子供の頭に載せ、無病息災を願うものであるという事を聞いた。
同時に、「だったん帽子」という言葉の響きにも、強い想いがあった。それは、中学校時代だったと思うが、音楽の先生が当時珍しかったステレオを聞かせてくれて、リカルド・サントス楽団のレコードやらを目を輝かせて(レコードを聴くのにおかしな表現だが)聴いたものだった。そんな中に「韃靼人の踊り」という曲があり、ダッタン人て、どんな人達なんだろうと、えらく興味を覚えたことがあった。
何十年もたって、「修二会」の行事の中に「だったん」の名を聞き、漢字は違うが私はきっと関連があると思っている。
今年で1261回目の不思議な行事、今年こそ「帽子」を「いただかせ」てもらいに行こう。
2012年2月29日水曜日
退職者会のニュースを作り終え、時間があったので、大阪歴史博物館に「刀装・根付細密工芸の華」展を見に行った。
大坂の町人文化の一つでもある細工物に名人、上手と言われた職人が多く生まれた江戸中期、これも大坂町人で刀剣・刀装具を商う、稲葉通龍という人物が「装剣奇賞」という本を刊行した。
今回はこの本を展示するとともに、ここに記載された名人たちの作品も併せて展示している。短い時間だったが堪能して、帰り間際に大きなガラス窓の外を見ると、「難波宮」遺跡が見える。
写真の左奥、工事中の辺りが昭和40年、初めて勤務した職場があった場所だ。40数年前の事を思い出しながら、帰宅し、例の「大阪三六五日事典」の2月26日のページを開くと、「聖武天皇、難波を都とす(天平16年 744年)」とあった。
大坂は三度、都となっている。仁徳天皇による高津宮、孝徳天皇による難波長柄豊碕宮、そして難波宮、何度も都が置かれたのは何故か?大阪湾という外国に開かれた土地であった事が大きな理由ではなかろうか、という事らしい。
大阪の地盤沈下が言われて久しい、現代の難波の港、関空は水没寸前だ。町中の暖簾も降ろされ、大木戸も閉まったまま、今こそ、この政治、社会の閉そく状況の真の原因を明らかにし、大商人を助けることではなく、町人の懐を暖かくする政治が必要だ。それでこそ難波に春がやってくる。いや、来てほしい。
大坂の町人文化の一つでもある細工物に名人、上手と言われた職人が多く生まれた江戸中期、これも大坂町人で刀剣・刀装具を商う、稲葉通龍という人物が「装剣奇賞」という本を刊行した。
今回はこの本を展示するとともに、ここに記載された名人たちの作品も併せて展示している。短い時間だったが堪能して、帰り間際に大きなガラス窓の外を見ると、「難波宮」遺跡が見える。
写真の左奥、工事中の辺りが昭和40年、初めて勤務した職場があった場所だ。40数年前の事を思い出しながら、帰宅し、例の「大阪三六五日事典」の2月26日のページを開くと、「聖武天皇、難波を都とす(天平16年 744年)」とあった。
大坂は三度、都となっている。仁徳天皇による高津宮、孝徳天皇による難波長柄豊碕宮、そして難波宮、何度も都が置かれたのは何故か?大阪湾という外国に開かれた土地であった事が大きな理由ではなかろうか、という事らしい。
大阪の地盤沈下が言われて久しい、現代の難波の港、関空は水没寸前だ。町中の暖簾も降ろされ、大木戸も閉まったまま、今こそ、この政治、社会の閉そく状況の真の原因を明らかにし、大商人を助けることではなく、町人の懐を暖かくする政治が必要だ。それでこそ難波に春がやってくる。いや、来てほしい。
2012年2月19日日曜日
齢の所為にはしたくないがギックリ腰の痛みは、なかなか引いてくれず風邪も治りが遅い。
そういえば、ここ2~3年、冬場のパッチが手放せない、昔は粋がって冬場でも着けなかったのに。最近のユニクロのヒートテックが流行りだしてズボンのごわごわ感がなくなり、愛用するようになった。
特に今年に入ってからの寒波にはユニクロのヒートテックでは間に合わず、昔、母親が毎年のように贈ってくれたのに、着けもせずタンスに詰め込んでいた白いパイル地の股引を引っ張り出して着るようになった。
その母親も亡くなって、まもなく8年になる。パッチの温かさと一緒に母親の気遣いを想い出している。
(写真は、NHK「カーネション」でお馴染みの岸和田・だんじり祭りで着用する股引です)
そういえば、ここ2~3年、冬場のパッチが手放せない、昔は粋がって冬場でも着けなかったのに。最近のユニクロのヒートテックが流行りだしてズボンのごわごわ感がなくなり、愛用するようになった。
特に今年に入ってからの寒波にはユニクロのヒートテックでは間に合わず、昔、母親が毎年のように贈ってくれたのに、着けもせずタンスに詰め込んでいた白いパイル地の股引を引っ張り出して着るようになった。
その母親も亡くなって、まもなく8年になる。パッチの温かさと一緒に母親の気遣いを想い出している。
(写真は、NHK「カーネション」でお馴染みの岸和田・だんじり祭りで着用する股引です)
2012年2月12日日曜日
週明けに「ぎっくり腰」になり、3日間寝込んでいたが、やっとパソコンの前に座れるようになったと思ったら、風邪をひき、散々な1週間だった。
外に出かける事も出来ず、何かネタはないかと思い、例の「大阪365日事典」から、いくつか興味をひくネタを。
2月7日(1919年 大正八年)
職業紹介所 誕生
昔は労働者(当時は奉公人)を探す場合は、口入屋の世話になった。明治の末ごろには大阪市内に350軒近くもあったという。大正8年、前年に起こった「米騒動」の所為で、失業者も多く出て、大阪市が救済事業の一つとして支設の職業紹介所が誕生した。
大正10年には営利目的の紹介を規制した職業紹介法が制定され、「口入屋」は落語の中だけに残った。
2月10日(1958年 昭和33年)
浜寺公園接収解除
かって大阪の人々の夏の楽しみは色々あったが、海水浴と云えば、「浜寺」が定番、万葉の昔から海のきれいなことと浜辺の松の美しさに定評があった。よって、大阪府下で一番最初に公園に指定され、今も連綿と続く「浜寺水練学校」(通称ハマスイ)も開設され、大いに賑わったという。
ところが終戦後、進駐軍がこの地を全面接収、松林を伐採し、派手なペンキを塗った宿舎が建てられた。人々は、そんな建物を横目に見ながら、手拭いと褌とはじき豆の入った小さな袋をぶら下げ、下駄ばきで海水浴場に通った。
昭和27年、日米講和条約が結ばれ、次々と接収は解除されたが浜寺だけは一向に返還されず、戻ってきたのが昭和33年のこの日であった。しかし、返還の喜びもつかの間、36年から一帯は臨海工業地帯となって、松原も、海も遠くなってしまった。
外に出かける事も出来ず、何かネタはないかと思い、例の「大阪365日事典」から、いくつか興味をひくネタを。
2月7日(1919年 大正八年)
職業紹介所 誕生
昔は労働者(当時は奉公人)を探す場合は、口入屋の世話になった。明治の末ごろには大阪市内に350軒近くもあったという。大正8年、前年に起こった「米騒動」の所為で、失業者も多く出て、大阪市が救済事業の一つとして支設の職業紹介所が誕生した。
大正10年には営利目的の紹介を規制した職業紹介法が制定され、「口入屋」は落語の中だけに残った。
2月10日(1958年 昭和33年)
浜寺公園接収解除
かって大阪の人々の夏の楽しみは色々あったが、海水浴と云えば、「浜寺」が定番、万葉の昔から海のきれいなことと浜辺の松の美しさに定評があった。よって、大阪府下で一番最初に公園に指定され、今も連綿と続く「浜寺水練学校」(通称ハマスイ)も開設され、大いに賑わったという。
ところが終戦後、進駐軍がこの地を全面接収、松林を伐採し、派手なペンキを塗った宿舎が建てられた。人々は、そんな建物を横目に見ながら、手拭いと褌とはじき豆の入った小さな袋をぶら下げ、下駄ばきで海水浴場に通った。
昭和27年、日米講和条約が結ばれ、次々と接収は解除されたが浜寺だけは一向に返還されず、戻ってきたのが昭和33年のこの日であった。しかし、返還の喜びもつかの間、36年から一帯は臨海工業地帯となって、松原も、海も遠くなってしまった。
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