2011年8月28日日曜日

 戦時中なのか、戦後の物のない時分の事なのかよくわかりませんが、「食べるものがない時に、芋の蔓まで食べた」という話はよく聞いた。
 千里中央でよく買い物をする「野菜ソムリエ」の店で、サツマイモの蔓というのを売っていた。かなりの量のひと束で150円。
 水洗いして、そのまま、炒めるなり、煮るなりして食べれます、とあったので、うす揚げと一緒に炒め、麺つゆをかけて食べた。シャキシャキとして旨い。
 食糧難時代を象徴する食べ物のように言われてきたが、ひょっとすると、当時の人は耐え忍んでます、という顔をしながら、内心、「これ、いけるがな」と美味しく食べていたのかもしれない。
 などと思いながら、梅酒のソーダー割で私も美味しく、いただきました。


2011年8月24日水曜日

 福島の原発事故以来、気になっていた事があった。もし、手塚治虫さんが生きておられたら今回の事故をどう思われたかということだ。氏の代表作の一つが「鉄腕アトム」である。アトムは「科学の子」であり、10万馬力の原子力小型モーターを搭載した人型ロボットだった。
 そんな時、タイミング良く昨日の「毎日」夕刊に「科学の子の哀しみ」というルポ記事が載った。手塚さんのマネージャーとして最晩年までの仕事ぶりを知り、現手塚プロの社長をされている方の話である。
 「アトムについては、原子力関係の方からキャラクターとして使いたい、という話がずいぶんありましたが、手塚さんは『原発は安全性が確立されている技術ではない、まして人間が管理している。人間は過ちを犯すものだ』と云って原発関係は一切断っていました」という内容である。
 この記事を読んで、ほっとした気持ちになれた、と同時に、原発建設推進のためには、子供の夢である「鉄腕アトム」まで利用しようとした原発推進勢力の底深い凄さを見た気がした。
 その勢力は、「脱原発」を願う多くの国民の声を無視し、今も原発再稼働を虎視眈々と狙っている。

2011年8月21日日曜日

 一昨日のBS「新日本風土記SP」は-今も日本各地で目撃される妖怪を
訪ねて-という「川口浩探検隊的」な特集だったが、中味は楽しく、かつ郷愁を誘うモノだった。中でも、超現代っ子たちが自分たちの住んでいる街角に妖怪の痕跡を訪ね歩くという企画が面白かった。
 ゴミ捨て場に放置された古いテレビやいたずら書きされて捨てられた家電品が妖怪になるのではないか?と想像を膨らませていく。科学とメディアの現代に生きる子供たちが、こんなにも豊かな情感を持っているのかと感動した。
 登場する大人たちも、子供の頃に見た、(実際に見た!)河童や座敷わらしをごく身近な存在として自然に接していた事が画面を通してすんなり受け入れられる。

 

  そんな中で登場したのが「件」(くだん)の話。体が牛で顔が人間という妖怪で、国の凶事を予言し3日後に死ぬという。実はこの話、かなり昔に小松左京のSF短編「くだんの母」で知っていた。終戦間近の疎開先の名家に、重い病に伏す娘とその母がいて、娘が「近いうちに日本は負ける」と予言し3日後に死ぬ、と云う話だったと思うが、この頃、左京や星新一のSF小説にハマっていた私は、人と牛と書いて件(くだん)と読む、そして、「くだんのはは」は流行した「九段の母」のもじり、だという種明かしに大いに受けたものだった。
  左京氏も妖怪話に題材を録り、書いたものらしいが、番組では、敗戦濃厚の軍部が、この種の話、今風にいえば都市伝説にも、人心を惑わす、と神経を使っていた事が紹介されていた。UFOは信じない私ですが、この種の話は大好きで、かなり信じています。










2011年8月18日木曜日




  お盆休みで帰省中だった息子も仕事に戻り、嫁はんは友達と奈良へ、で暇な私はと、プールは夏季休業中、仕方なく図書館へ、しかし夏休み中の子供に独占されて早々に帰宅。扇風機を目いっぱい回し、溜まった新聞記事のスクラップ作りに。

 目を引いたのが「サマータイム導入に反対」天文台に働いておられる人の記事だった。これまでも国や地方自治体のお声掛かりで一部導入が図られてきたが定着しなかった。今回は原発事故後の電力不足を口実に導入の動きが再燃しているらしい。記事は、南北に長い日本列島、日の出の時刻でも2時間の時差があるのは周知の事実。人間の生活リズムに悪影響があると警告されている。日本の長時間労働に拍車をかけるのでは、という危惧ももっともだ。

そもそも、財界などが長年要望してきたというのが胡散臭い、じっくりと考えるべきだと思う。

 夕方になって「暑かった~」と嫁はんが帰ってきた。「お土産」と貰ったのが写真の「匂い袋」。興福寺で買ったとのことだが-香りでつなぐ支援の輪-とある。生地に福島県の「会津木綿」が使われており、売り上げの一部を義援金に、という京都の香木屋さんのアイデア。大がかりな節電や、なかなか進まない復興支援策、ならば誰にでも、簡単にできるちっちゃな支援も有効打ではと、汗をぬぐいながら思った。

2011年8月7日日曜日

炎天下の楽しみ

  毎年、夏の恒例行事、京都五条坂の陶器市、今年は初日の午前中を目指して出かけた。もう10年以上は通っているが、年々、五条坂を上下する回数が減ってきている。
 今年は、顔馴染み(と云ってもこちら側だけの事だが)を、2~3店のぞき、一輪ざしや、マメ皿を買って終了、汗だくの体と喉に、冷たいビールを注入するため、三条に転進!
 喉を通過するビールで、汗が引くとともに、来年もまた来ようと思ったが、この調子だと、来年は片筋だけになりそうである。
 
                                         

  さて、我が家の「ベランダ・DE・ニシミドーリ」産の葡萄が収穫された。器の寸法が不明なので立派に実ったように見えるが一房、10センチ足らず、まるで盆栽の葡萄である。
  しかし、種は立派に大人サイズで、皮と種を取り出せば、口中に残る実は、ほんの申し訳程度、舌の上に残る。
  ワイナリー経営の夢は小さな実とともに消えていきます。
      オマケです。
  
  昨夜は「淀川花火大会」 ここ、二~三年で、ベランダ南面(大阪市内を望む)は、マンションが林立し、望み薄と思っていたが奇跡的にマンションの間からベストポジションで花火が見られた。
  デジカメの花火撮影は難しい。

2011年8月4日木曜日

  河瀬監督の「はねずの月」の「はねず」にひっかかって終い、書棚の「色々な色」を引っ張り出したり、ついには、東大阪の市民美術センターで開催中の「日本の色 千年の彩展」にまで出かけた。この展覧会は京都の染匠、吉岡幸雄氏が菊池寛賞を受賞した記念に本格的な作品展を、という企画で開催されたものです。
 残念ながら期待した「朱華(はねず)色」の衣装はなかったが源氏物語に題材をとり、平安貴族の女房たちが着ていたであろう単衣や袿(うちぎ)-単衣の上に着る衣などが展示されています。
 圧巻なのはその色です。明治の半ば、化学染料が輸入され、日本古来の植物染料による染物は衰退していくのですが、吉岡氏は、化学染料を一切使わずに平安の色目を再現されているという事です。
                 
 十二単に象徴されるように、薄い絹物を重ねて着る衣装はその一枚一枚の色目の襲(かさね)でもあります。襲の色遣いは春夏秋冬季節ごとに使う色目に約束があり、多彩です。
 会場で一番目を引いたのは、光源氏が最も愛した「紫の上」の衣装です。「紫の上は、葡萄(えび)染めにやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に、御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに」と源氏物語にかかれていますが(「色々な色」から)紫がかった、控えめでありながら、着た女性を引き立てる色遣い、当時、光源氏ほどのプレイボーイともなると、毎年の正月用に付き合っている女性に布を贈るのだそうで今も昔もマメな者がモテルのでしょう。
  さて、はねず色ですが、吉岡氏制作の色見本には「紅花×支子(くちなし)」で色素を汲みだす、とありました。左の写真はニワウメで、はねず、はニワウメの古名だとあります。私の感じでは紅花系の赤よりもこの花の色に近いように思いました。
 オマケです。会場入り口には黒い布を何本も上からアーチ状に垂らしてあります。説明書きにはこの黒色は「憲法黒」と云って江戸時代の剣法家「吉岡憲法」が創った色だそうです。吉岡憲法というのは宮本武蔵との決闘で名高い、吉岡一門の当主で、吉岡家はもともと京都で染物を業としており、武蔵に敗れて後、道場を廃し、本業に戻ったという事で、吉岡氏はその五代目に当たるのだそうです。こういうオマケの話がついてくるのも楽しいものです。