2014年3月1日土曜日

古代史のロマンに触れる

発掘された襟のついた甲冑
大阪市長の辞任に伴う大義なき「出直し」選挙に付き合う気はないが、大阪都構想の化けの皮を剥ぐべく、提起された宣伝行動を昨日までに済ませ、今日は近所の阪大待兼山キャンパスで「河内政権への道」と題する三人の考古学者のお話を聞きに行った。「古市・百舌鳥古墳群」が築かれた「倭の五王」の時代には、「河内政権」が存在したのではないか?謎に満ちた日本古代史に迫る、という趣向、なんて言ったら叱られるかも知れないが、卑弥呼や邪馬台国畿内説などとも絡んで、250名定員のキャンパスホールには立ち見も出るほどの熱気であった。「河内政権」というテーマに迫る講演内容は①「野中古墳(藤井寺市)の発掘調査と出土品」②「野中古墳の武器と古墳時代の軍隊」そして③「古市・百舌鳥古墳群と世界の王陵」という講演である。②の内容は、阪大構内の博物館で同時開催されている「野中古墳と『倭の五王』の時代」として、野中古墳から出土した大量の剣や刀、矢じり、そして鉄製甲冑 から当時、河内の国にはこれらを使う軍隊組織が存在していたのではないか、という内容であった。そして私が興味をひかれたのが③の阪大福永教授の講演であった。古墳時代なぜ、巨大な古墳が造られたのか。世界各地にみられる有力者の墳墓は、せいぜい50から70メートル規模、中国でも地下の墳墓は大きいが地上部の構築物は大きくてもせいぜい100㍍程度であった。これを覆したのが大和の巨大な古墳の出現である。これの意味するところは、「競い合いの墳墓」の構築から「統治のための墳墓」として造られたのでは、という内容だった。当時、多くの地方豪族のまとめ役として互選で選ばれたのが「卑弥呼」であり、その力は盤石ではなく、いわゆる「共立王」であった。そのため、当時の中国「魏」に使いを送り、大王から臣下の印として「印」と100枚の銅鏡を貰い、これを地方豪族に分け与るたことにより集権の道具とし力を強め、「共立王」から「親魏倭王」と成っていった。

阪大のある待兼山は「マチカネワニ」で有名
卑弥呼の死後、後継者は権力の維持のため、これまでの銅鐸や銅鏡のような物でなく、大きな墳墓をつくり、これを「権力・統治の象徴」として秩序の維持に使ったのではないか。大和政権は350年続いた古墳時代の中で、墳墓の大きさで地方豪族の抑えとしてきたが、しかし、「魏」の滅亡後、大和政権はこの危機をうまく乗り切れず、大和政権に代わる新しい力が河内に誕生し、古墳の舞台も大和から河内に移り、墳墓による統治機構の成立という事になっていく。これが「河内政権」への道、という結論になるのだが、考古学、古代史に素養のない私がまとめた教授の講演内容だから、間違いだらけかもしれない。長谷やんや、わこたんのご主人から御注釈を頂けたら幸いである。最後に、福永教授が言った「箸墓古墳のような巨大墳墓は宮内庁の管轄でおいそれとは調査も研究も出来ないが野中古墳のような中規模の古墳や「墳」を持たない墓などは比較的発掘や研究がしやすく、今回の野中古墳の甲冑などの素晴らしい発掘に出会え研究が進むことも多い」という話は興味深いものであった。