2016年9月20日火曜日

がんばれ!毎日

 
  毎日新聞の夕刊に「憂楽帖」というコラムがある。5~6人の記者が交代で執筆している。
  内容は、社会一般の出来事を記者の感性で500字程度にまとめ書いている。4~5年前までは切り抜いていたが、毎日新聞のPCサイトで読めるようになってから切り抜きは止めた。
  すると次第に読む頻度も少なくなり、題字だけを見てパスすることが多くなっていた。
  でも、原発に関するものはなるべく読むようにしていたところ先日の「廃炉など原発の後始末の費用を新電力にも負担させようという政府の動き」報道の後、「原発を巡る無責任」という鋭いコラムが載った。

「~大手電力会社は事業費に利益を上乗せする*総括原価方式にあぐらをかき、廃炉費用も電気料金に上乗せして徴収してきた。漫然と原発依存を高めてきたツケの一端を転嫁し、再生可能エネルギーを邪魔することは正義に反する。」
「そもそも原発には無責任なことが多過ぎる。~福島の汚染水を『アンダーコントロール』と世界に放言した首相は、事態を認知、理解する能力を著しく欠いているか、平気でうそをついているかのいずれかだ」と手厳しい。
 久しぶりにスカッとするコラムだったがスカッとしただけで済ませてはいけない、自分なりの出来ることを成す、それが記者の心意気に応えることになり、前のブログの岸井氏の訴えに応えることになるだろうと思う。
                             
 
*総括原価方式

公共料金などの料金を決める際に、かかったコストや事業を運営していおくためのコストをすべて加味して適正な価格を算出するための手法です。電気料金もこの手法で計算されています。
 
 電気はインフラとして、安定して提供するため、発電所作成、熱電燃料調達、送電線敷設、各種メンテナンス等膨大なコストを必要とします。それも電気料金の中に含んで計算されるため、民間のサービス料金等とちがい、事業者側の赤字は発生しにくい仕組みの算出方法です。

*電気事業者の利益というのが施設の資産の量にある一定の率(事
 業報酬率)現在は3%、これを掛けて計算したものが利益になる
 というもの。
 施設を持っていれば持っているほど利益が上がるという仕組み、
 原発などのようにコストの高い施設(資産)を多く持っている
 ほど利益があがるという仕組みになっている。


2016年9月16日金曜日

気骨・反骨の人

 
 先日、阪大(刀根山学舎)で「報道の自由とは何か」というテーマで講演会があった。講師は岸井成格(きしいしげただ)氏、テレビでもお馴染みの方という事もあって会場の大学会館の講堂はミーハー的なおば様(失礼)も含めて立見も出る大盛況だった。
 岸井さんは、「安倍政権と報道の自由」と題して約1時間15分熱弁をふるった。今年の3月末、自身がアンカーとして出演していたTBSの「NEWS23」を降板させられた経緯については裏話的な興味もあったが割と具体的に語られた。
 毎日新聞の特集「この国はどこへ行こうとしているのか」や「NEWS23」での特番「変わりゆく国・安保法制」で、安保法案は憲法違反であり、メディアとしても”廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだと主張した。これら一連の報道が「偏向報道だ」として「放送法尊守を求める視聴者の会」(代表:すぎやまこういち代表・他のメンバーも安倍シンパ)という訳のわからん団体が事もあろうか、毎日新聞のライバル(?)の読売・産経の2紙にあの不気味な目玉がにらみつける意見広告を掲載し岸井氏攻撃をした。このあたりの内容はかなりマスコミでも報じられ、知るところであろうと思うが、当日改めて岸井氏の口から出た内容で我々が肝に銘ずべき点は次のことに尽きるのではないかと思う。

 一つは、安倍首相がマスコミ報道、とりわけ選挙報道に対していかに関心と脅威を抱いたか、そのキッカケが「椿事件」であったこと―【1993年に起きた、全国朝日放送(愛称および現社名:テレビ朝日)による放送法違反(政治的な偏向報道)が疑われた事件で、当時テレビ朝日の取締役報道局長であった椿貞良氏は、「『ニュースステーション』に圧力をかけ続けてきた自民党守旧派は許せない(山下徳夫厚生大臣が「同番組のスポンサーの商品はボイコットすべきである」)」と発言したとされ、そのことをもって国会に証人喚問され追求された。以降、放送局の委縮、自主規制が始まりだしたといわれる。
*当時の政治状況は、19936月の衆議院解散(嘘つき解散)後、718日に第40回衆議院議員総選挙が行われ、与党自由民主党が解散前の議席数を維持したものの過半数を割り、非自民で構成される細川連立政権が誕生。自民党は結党以来初めて野党に転落した。

 もう一つが高市総務相の「電波停止発言」問題で、日本国民と日本のマスコミ・ジャーナリズムに対し、外国のマスコミから「日本人は何故黙っているのか?」「マスコミは抗議だけで済ませるのか!」と強い調子で指摘したこと。
 外国マスコミにしてみれば、一国の一大臣が、放送局の電波を止める、などということを口にすること自体が信じられないが、それを見過ごす(てはいないが)日本のマスコミ・ジャーナリズムに対し強い危惧を抱いたこと。

 岸井氏は、「放送(法)が一国の政府や大臣によって決められるなどというものではない、憲法によって定められたものである」「高市大臣の発言は本当に驚いた、前代未聞である」と訴えた。

 そして、今夏の参院選挙に際し、争点隠しが行われると同時に、マスコミ、特にテレビ局の選挙報道が極端に減ったことは重大だと指摘された。これも安倍首相がテレビの生番組に出演した際、街頭インタビューで「アベノミクスの恩恵は我々のところには回ってこない」という声ばかりが流され、安倍首相が「これはおかしい、もっと他の声もあるはずだ」と文句を言い、これが報道の現場に伝わり、例えば戦争法について「反対」が5人登場すれば「賛成」の人を5人見つけてこなければ放送できない、そんな事やってられないよ!という現場の声になっているという事実を紹介し結局、テレビ・報道の現場で「萎縮・自主規制」が行われているという現実がある事を述べられた。

 そして私が一番強く感じさせられたのは、岸井氏の講演レジメ・「今日の国のあり方と政治のあり方をいっしょに考えましょう」の文中のこの一節である。

「私から現在の安倍政権を見ると、かなり異端であり、今や権力の暴走が始まっているのではないかととの危惧を抱くに至っております。~メディアとして反対、批判の論陣を張るのは当然であり、それをやらなかったら、ジャーナリズムの使命を放棄したことになる。~外国のメディアは安倍政権のみならず、こうした暴挙を許している日本のメディアにも厳しく、それは諸外国からの日本の国民への不信感にもつながりかねない様相です。~日本は鈍感すぎます」

「現在の状況は、テレビ局や新聞社だけに『頑張れ』と言っても無理な状況なのです。多くの国民の皆さんに今の状況を考えていただき、それぞれが出来る範囲で結構ですから日常生活の中で今日の状況について意見交換するとか、新聞社への投稿とか、SNSでの発信とか、やり方はいろいろでよいのですが、自分たちの社会における政治権力の監視に目を向けて下さると必ず変化が起きるだろうと考えております。それが第1歩だと考えているのです。」という言葉だ。
 「いくら自民党だって、そこまではやらんだろう、周りがわいわい言っているだけ、戦争なんてするわけない!」という楽観論で「誰かに任せておればいい」という姿勢が自らの首を絞める事は過去の戦争やナチスの台頭などから学べるはずだ。それでも、判っているけどそこは共産党さんが頑張ってくれるはず、などという変な安心感で他人まかせで過ごしていたら大変なことになると思う。
 岸井氏が言うように「それぞれが出来る範囲で結構ですから」という「出来ること」を自分で探し、実行していく事がとても大事だと思っている。

 当日、岸井氏の講演の前に自ら「前座です」と講演された藤原節男氏の「原発報道の虚偽と真実」という話も非常に興味深かった。
 この講演の内容はいつか書きたいと思うがあの3・11福島原発での原子炉爆発事故について1号基は水蒸気爆発だが3号機は核爆発だった、というショッキングな内容だった。
 藤原氏は阪大原子力工学部卒業後、三菱など民間原子力技術畑を歩き、2006年~2009年の間、原子力安全機構で検査業務に従事し、その間、「泊原発3号機使用検査全検査での記録改ざん命令」に反抗し、機構の隠ぺい工作に加担できないとして公益通報(内部告発)を行った気骨の人であり、自らを「原子力のドンキホーテ」と称している。


1号機に比べ3号機は黒い煙、爆発の瞬間には赤い火柱も

2016年9月10日土曜日

昭和のノスタルジー


 万博公園の民博で「特別展・見世物大博覧会」という展覧会があったので見に行ってきた。
 私たち終戦後生まれの昭和世代は「見世物」という言葉に過剰に反応するのだ。
 見世物といっても親に連れられて見に行くものであるから落語に出てくる「六尺のオオイタチ」的なまがい物ではなく、サーカスと同居した立派な芸を見せるものであった。一番感心したのが立派な体格の女性が仰向けに寝転がり、差し上げた両脚の上に大きな障子を載せ、そこに狐にふんした女性が障子の桟に足をかけ、口にくわえた筆で裏文字で「恋しくば、、、」と見事に歌を書くのである。そう有名な和泉の森の葛葉伝説の歌である。
 今回は、そんな一流の芸だけでなく、六尺のイタチ同様の「蜘蛛女」や「蛇女」、「電気人間」、子ども曲馬団や軽業師など多士済々の見世物を紹介していた。
 今日は、万博公園と民博などの各施設が無料という事もあって大勢の人が見物していた。年配者が多い中、一見して「街頭パフォーマンス」でもやりそうなスタイリッシュな若者もおり、そういえばパフォーマンスの元はこうした大道芸から始まっているのだろうと思った。
 それと見世物という言葉に潜む何か秘密めいた、猥雑な雰囲気はどこからくるのだろうか、と嫁はんと話をしていたら年配のおばさん二人連れが「子とりに盗られた子らが見世物小屋に売られて芸をやらされると親に言われた」と話していて、思わず笑った。確かに「子とり」は我々子供の日常の中によく出てくる言葉で、夕方遅くまで遊んでいると「子とりが来るで~」と脅されたものだった。
 会場の中では日本各地の「高芸」とでも云えば良いのだろうか、村人が高いハシゴの上や張り渡された綱の上で危険な芸を披露する映像が流されていた。そして極め付けが「人間ポンプ」の安田里美さんの至芸を上映していた。安田さんのこの芸は、テレビなどにも出演していたから私も見たことがあるが、水と共に飲み込んだ金魚を匹数を指定して吐き出したり、同様に飲み込んだ碁石を「黒」「白」と色を指定して吐き出したりする見事な芸だった。
 もう一つ、私には関心のあったのがこうした見世物芸と、差別の問題というのがあるのだが、長くなるのでいつかまた書きたいと思う。
幸運のおまけ
 万博に向かう大阪モノレールでラッキーなものに出会った。写真の「ピンク色したハート形の吊り革(輪と云う人もいるが)である。初めて見たので写真にとり駅員さんに「これって珍しいの?」と聞くと「私ら駅員でもまだ見た事がないんです。お客さん、ラッキーですよ!」と言ってくれた。
 駅員さんの話によると、大阪モノレール全21編成車両の内、たった1個の吊り革なんだそうだ。私は乗った瞬間すぐに気が付いたが後から乗ってきたカップルはなかなか気が付かず、よっぽど教えてあげようかと思ったが男性がやっと気づき、女性もにっこり、それまで硬かったカップルの表情が和やかになった。
 帰ってからブログで調べると駅員さんが云った通り、たった1個だそうでそれも全車両の吊り革の数は約3000個、かつ取り付ける車両や位置は車両整備の係員が時々替えるそうで駅員さんにもわからないという事だった。
 ご覧の皆さんにも、幸運がありますように!💛


2016年9月7日水曜日


 台風被害のニュース画面を見ていて気になることがあった。老人グループホームを襲った大量の流木の事である。根っこの付いた流木だけでなく大きな丸木が多数施設を取り囲んでいた。
 最近、yamashirodayoriで見た三浦しをんの「神去なあなあ日常」という小説を読み始めた。都会の若者が無理やり山奥の村に閉じ込められ、慣れない山仕事に苦労するという導入部分しかまだ読んでいないが山林の育て方、伐採の仕方などが村人との交流、というより格闘の中で事細かに描かれている。
 そんな小説を読み始めた中で今回の台風被害のニュースを見て、前々から思っていたことが胸の中で膨らみ始めた。
 最近の異常気象は確かに観測史上初とかの文字が並ぶように過去に類を見ないものだろうとは思うが、それにしてもこの被害状況は異常というか、多すぎるように思う。異常気象の所為だけだろうか?日本の国土が脆弱というか自然災害に耐えきれない事になっているのは確かだろう。
 その要因の一つが林野行政にあるのではと思っている。植林―育成―間伐―伐採―出荷という素人の私が考えるサイクルが滞っているのではないだろうか、でなければあんなに丸木(枝を払った木の事)がごろごろと積み上がる筈がないと思うのだが。