2015年12月31日木曜日

来年もよろしく

  今年も色んな事がありました。私的にも社会的にも、やはり激動の一年だったと思う。
  全国的には、やはり安保法制をめぐる国会内外のたたかいがあった。多くの国民の願うようにはならなかったが政党の枠、団体の枠、世代の枠を超えたたたかいの輪が広がり、今も続いていることに大きな希望がある。
 大阪的に言えば、都構想をめぐって住民投票でオール大阪の力が発揮され大阪市を無くすことを阻止できた。しかしW選挙では、維新政治を大阪から追い出すことが出来なかった。
  私的には、義父が夏を迎えるころ、体調を崩し、すわ老々介護に移行するのか、と身構えた。しかし、信頼する医師に巡り会え,事なきを得た。しかし九十六歳の超高齢ゆえ、これまでの一人暮らしは諦めさせ、半同居体制で見守っている。
 私も高齢者運動関係、退職者の会関係、等現役時代にも勝る忙しさをある種楽しんでいるが来年は古希となる。さて、いつまで続けられるか試す年となりそうだ。
 で、勝負の年に備え、年末ぎりぎりに貯まっていた図書カードを使い3冊の本を買った。
「日本の大和言葉を美しく話す」
「暮らしのならわし十二か月」
「誰が『橋下徹』をつくったか」
大阪張り子 申
    このブログも今年はやっと去年並みの回数になった。
    来年もよろしくお願いします。 

2015年12月30日水曜日

書に学ぶ

 昨日、金澤翔子さんの書展を見に行った。大河ドラマ「平清盛」の題字などで有名になった書道家である。と同時に彼女はダウン症という障害を持っている。
 会場入り口に彼女のプロフィールが彼女の母親の金澤泰子さんのことばと共に紹介されており、また作品ごとに泰子さんのコメントがあり、なぜ彼女が書道家になったのかも紹介されている。
 障害を持った子を産んでしまった母親の苦悩、世間と隔離して子育てをし、それがために母娘二人で濃密な時間を過ごしたこと。泰子さんが書道家であった事から5歳の娘に筆を握らせ、来る日も来る日も書道と向き合った事、小学4年生になった時に普通学級への進級を拒否され、絶望的な気分になり、その事がまた新たな書へ向き合うことになっていった事、(この時に有名な涙の般若心経が生まれた)、父親の突然の死と、兎に角、下世話に言えば波乱万丈の道を辿ってきたことが作品と共に紹介されている。しかし、その作品と彼女自身の思いは前に向かっているように感じた。
 会場では国連が毎年3月21日を「世界ダウン症の日」に制定し、その記念会議に日本代表として参加した彼女がスピーチをする様子がビデオで映し出されているが「お母さまを愛しています。30になったら一人住まいをします」と力強く宣言されていた。
 会場には有名な「共に生きる」(東北の被災地を訪れ揮毫した)や京都建仁寺の「風神雷神図」を見て書いた「風神雷神」等大作が並んでいたが私は一枚の小さな作品「雨」に心を奪われた。空に流れる雲から雨粒が降りてくる様をやさしい筆致で書いている。
 母泰子さんの「ダウン症ゆえの魂の純度からくるのでしょうか、いまさらながら書はテクニックなどではなく魂のありようだと思い至っています」という言葉も素直に肯けた。

2015年12月13日日曜日

「オール沖縄」に学ぶ

  W選挙が終わって2週間にもなるというのに未だ、「あーでもない、こーでもない」と気持ちの整理が付かないでいた。気持ちの整理とは勿論、W選挙での反維新側の完敗のことである。W選挙に向けて拙文ながらこのブログに思いを綴ってきた手前、この結果について自分なりの総括をしなければと思いながら延々と思い悩んできた。
 そんな気持ちに追い打ちをかけるようにTVでは「勝って驕らず」顔の、その実内心では「どやどや顔」の二人の動静がひっきりなしに流され、気分の悪いことこの上なしである。
 そんな時、「オール沖縄」のたたかいの報告を聞く機会があった。「基地も戦争もない平和・繁栄をめざして『オール沖縄』から『オール日本』へ」と題した講演というより報告を聞いた。
 そもそも「オール沖縄」の源流は、1995年9月に発生した米軍兵士による少女暴行事件、そしてそれから12年後の「教科書検定」問題ー沖縄戦における集団自決強制自決死を日本軍が強制したとの記述が削除修正されたーに沖縄県民が抗議の大集会(11万6千人参加、この集会の共同代表の一人が当時那覇市長だった翁長さん)を開いたことがきっかけだったことを聞いた。沖縄の基地の現状、米軍基地の形成過程など、その歴史と反対闘争の中で「オール沖縄」が形成されていったという事だった。
 報告が終わり質問タイムの最後に私は少々ぶしつけではあったが「今度の大阪のW選挙、我々はオール沖縄のたたかいに学び、オール大阪で闘ったつもりでしたが結果は完敗でした。(共闘の先輩として)どのように見ておられますか」と聞いてみた。
 答えは「反維新の結集がどのようなものであったか良く分からないのでお答えは難しいですが、オール沖縄のことで言えば、実は一番ピッタリと繋がっていたのが自民党と共産党でした。(あらゆる場面で)自民党を隠す必要もない、(当然共産党をも)という状態でした。大阪での反維新、オール大阪がどの様なものであったか分かりませんが一つ言えることは『要求で統一する』という事だろうと思います」というお答えだった。
 私は「大阪都構想」の住民投票の結果を受けて「オール大阪」でいける、勝ち負けは別としてたたかいの基本はそこにあると思っていた。自民党候補をなぜ支援するのか、という根強い反発と感情は終始付きまとってはいたが維新政治を終わらせるんだ!というアピールでいけると思っていた。しかし結果は完敗であった。
 W選挙後のマスコミ報道の中で、維新候補の勝因や反維新候補の敗因が色々書かれている。直前の自民党大阪府連会長の更迭、公明党のあいまいな態度、後で分かった事だが自民党の選対会議の当日、幹部役員が欠席しゴルフに行っていた事など、およそ「オール大阪」とは言えない状況であった事がわかってきた。しかしこれらが敗因の全てではないだろう。私は「オール大阪」の方針が間違っていたとは思わない。しかし「反維新」が本当に「オール大阪」に結集した人々が目指した共通の目標だったのか、真剣な総括がいるのではないかと思っている。そんなことを考えながら今日やっとブログを再開することが出来た。「オール沖縄」に感謝したい気持ちでいる。