2011年3月29日火曜日

  退職者の会の会報発行に目途がついたので我が家の裏庭(何処にも登記はしてませんが)の万博公園へ。TARO~さんは今日も元気でした。
 学校の春休みも重なり、かなりな人出ですが広い園内に入るとすれ違う人もまばら、それにしても万博の跡地を、よくぞ「自然公園」にしたものだ
と今更ながら感心する。
                                                                             

 我が家の近所の府立高校は合併で廃校になり現在、大手ディベロッパーが大規模マンション群を計画中で、取り壊し作業に掛っている。
 今回の大震災の教訓(避難場所や被災者用の仮住宅への転用)は聞いてません!という様に、工事は進行中だ。



 公園内には私のお気に入りの場所と、マイ樹木があり、その成長と変化を楽しんでいる。園内の椿もまだ見頃の木がたくさんあります。絞りや深紅の花もいいが私の好きなのは濃厚な白色の椿です。下の写真は別の日に撮った椿(ではないかもしれませんが)で木陰の藪の中で白く妖しく咲いていました。
 あと箕面の里に見事な椿の木があり、間もなく見頃になるはずで近日公開!お楽しみに。
 

2011年3月14日月曜日

 なぜか懐かしい昭和の風景、偶然にも大阪のキタとミナミで人形展があった。以前から楽しみにしていたので思いきって出かけた。
 右は石井美千子人形展「昭和のこどもたち」
昭和30年代の、まさに我々と重なる何処にも
あった子供たちの日常を懐かしく蘇らせている。会場いっぱいのオバちゃんたちも、「あ、あんな子おったなー」と賑やかな中にも昔の自分を思い出しているかのようだった。

 もう一つは、有名な「与勇輝」さんのこれも「昭和」をテーマにした人形展。戦中から戦後にかけての日本の子供たちを独特の「与(あたえ)ワールド」で表現する。与さんは、「いま、制作しないといつまでも悔いが残るとおもい」と語っている。
 与さんの人形は、その表情に特徴があり、特に女の子のどこか寂しげな顔と姿は、見つめていると胸が締め付けられるような気持ちになる。
 連日の震災報道に「不安」と「焦燥」の日々だが友の言うように、少しでも元気のある者が、何か出来ることを準備しておこうと思う。 そんな勇気と元気をもてた半日だった。 

2011年3月12日土曜日

  地震国日本とはいえ、未曾有の記録的大災害に言葉もありません。もう少し事態が明らかになるまでと思っていましたが昨夜も眠れません、あの阪神大震災のトラウマが蘇るようで寝床に入っても動悸がおさまらず、群馬に住んでいる息子にメールをしました。
 昨夜の段階では「揺れてるけど大丈夫」との事でしたが夜中の緊急地震情報を聞いていると眠れず、朝一番で再びメールを、10時過ぎにやっと返ってきました。家の棚のペットボトルが倒れたぐらいで大事ない、節電の要請がくるそうなので今のうちに洗濯をしておくとの事。しっかりした対応にやっと安心した。
 それと気になっていたのが研修仲間の「けやき会」のメンバーで福島県と宮城県のお二人の安否だ。兵庫の幹事が調べてくれて、福島の彼は無事が確認できたが、宮城の彼女と連絡が取れないらしい、住所が仙台市の若林地区という事なので心配だ。
 阪神大震災を上回る、500年に一回という巨大地震、60数年の人生の中で二度も体験、経験するとは、一刻も早く収まり、行方不明者の発見を祈るのみだ。

2011年3月2日水曜日

 沖縄旅行記 ④
 昼食をはさんで、ひめゆりの塔の見学と午後からは平和記念公園と琉球王朝の遺跡巡りに向かう。ここからがバスガイド「崎原真弓」さんの独壇場となる。中山さん曰く「このガイドさんはスーパーガイドと呼ばれているのよ」という事だったが、まさにウルトラ・スーパー・ガイドだった。
 ひめゆりの塔の前では沖縄戦の悲惨な実態を切々と語り、涙なくしては聞けない。
 世界遺産になっている斎場御嶽(セーファーウタキ)、何とも不思議な場所だが巫女が祈りを捧げる場所であるらしい。
 平和記念公園は、沖縄戦で亡くなった全戦没者(米軍関係者も含む)20万人の墓名碑(平和の礎と呼ぶ。)が建ち並ぶ。その大きさは本土のこの種の施設のスケールをはるかに超えている。
 帰路の車中はスーパーガイド崎原さんの「真弓ワールド」が始まる。ガイドさんが独自に考え出した「一人何役」にも扮した超有名なガイドだった。
 この写真には写ってないが狭い車中のそのガイド席で、突く、蹴るの琉球空手の演武で度肝を抜かれた。最後は沖縄の「おばぁー」になりきり語る沖縄戦の悲惨な話だ。

 乳飲み子を抱いた母親が避難したガマの中で兵隊に、わが子の泣き声を咎められ、わが胸に強く抱きしめ、あやすつもりがいつしか力が入り過ぎ、気がつけば息絶えていたという。車中は、いつしか迫真の語りに引き込まれ声もない。
 崎原さんは唄もつくり、CDも出し、平和団体や、経営者団体からの講演依頼に全国を飛び回っておられるとか、「崎原真弓」で検索すると一発でヒットするぐらい有名人でした。なぜ、10人足らずのツアーに就いていただけたのか今もって不思議だ。
 

2011年3月1日火曜日


沖縄旅行記 ③
 戦後50年たって中山さんは「二度と悲惨な戦争を起こしてはならない」との思いで沖縄戦の事を話しだしたという。
 白梅学徒隊46名のうち22名が戦死した。中山さんは今も、彼女たちを追悼する「白梅之塔」に行き、甘い黒糖飴と時々は化粧品を持っていき、「食べなさい」「お化粧をしてあげるね」と語りかけるという。
 
 いただいた資料によって分かったことだが、73日間の野戦病院勤務中に学徒の犠牲者はいなかった。野戦病院の解散命令を受け、中山さんたちは突然、砲弾と狙撃の恐怖のただ中に放り出された結果、多数の犠牲者が出たのであった。
 この「白梅之塔」が建っている地区は、第二高女戦没者22名中、10人の犠牲者が出た地であることが戦後判明し、小さな「白梅の碑」をたて、最近になって、この立派な塔が建て替えられたのである。
 当日は小雨の中であったが、中山さんは、いつものように小さな黒糖飴をお供えしておられた。ここに祀られている彼女たちが中山さんの背中を押し、重い口を開かせたのだと思った。我々も、幹事が神戸から持ち込んだお線香を手向け、全員で祈りを捧げた。