2014年12月31日水曜日

来年こそは


 段取りが悪い、と友に叱られそうだが、正月準備が年々億劫になって色々と片付け物を済ませ、退職者会の会報の正月号の編集をやっと終えた。
 そして今、パソコンの前に座り、今年最後のブログを綴っている。2014年の年初のブログは、穏やかな三が日であった事が記されているが師走直前になって「何のための解散?」があり、師走の総選挙となった。
 結果はそれぞれの受け取り方があろうが、ただ、大阪においては一点だけ気になる、というか、気に入らん結果が出た。それは橋下大阪維新の党が100万票をとり、依然として大阪での勢力を維持したことである。
 そして、その結果に対する反応はすぐに出てきた。大阪市・府の両議会で否決された「大阪都構想」の「協定案」を再提出し、住民投票にかける道筋を開いてしまった。
 この策動の裏には、公明党本部と菅官房長官サイドの働きかけがあったと報じられている。沖縄・辺野古新基地建設反対の「オール沖縄」の民意を無視したのと同じ構図である。「驕る平家は久しからず」、来春のいっせい地方選挙で目に物見せなくては思っている。
 写真は嫁はんが作り続けてきた「十二神将」で、あと一体、「招杜羅大将」が残っている。これが彫りあがる頃には結果も出ているのではないかと思っている。
  
   皆さんもどうぞ良い年を迎えてください。

2014年12月24日水曜日

民博はすごい!

 大阪万博内の民博(国立民族学博物館)で「石見大元神楽」の1日限りの公演があったので観に行った。
 神楽の盛んな島根県の邑智郡から那賀郡にかけての山間部に残されているのが「石見大元神楽」と呼ばれるそうだ。公演するのは「市山神友会(いちやまじんゆうかい)」という神楽団で、昭和54年に国の重要無形文化財に指定されている。
 一般的に知られる「石見神楽」の原型といわれるものでリアルな大蛇や花火を使い、テンポの速い八調子で舞う最近の石見神楽に比べ、いくぶんスローテンポの六調子で舞われる。私は八調子にしろ六調子にしろこの神楽のリズムが好きなのである。何か、古代から日本人の体に刻み込まれたリズムであるように感じる。大太鼓、小太鼓、手拍子(小さなシンバル)そして笛により演奏され、聞く者を陶酔させる。
 当日は、4っの演目が上演されたが二つ目の「御座」と呼ばれる演目は、舞手の演者が両手に持った「ござ」を前後に振り、これを跳びあがって何十回も飛び越えるのである。とんだ回数により、作柄の吉凶を占うという意味もあり、当日は舞手が連続して28回も跳んだ。
 続く演目「鍾馗」は素戔嗚尊(スサノオノミコト)が唐に渡って鍾馗大神と名乗り、皇帝を悩ます悪鬼を倒すがその怨念、眷属(けんぞく)が日本に攻め込み人々を悩ますため、素戔嗚が宝剣と茅の輪をもってこれを退治するという内容だ。
 この悪鬼は、伝染病や赤痢などの病気とされ、これを法力で平癒させるための道具が「茅の輪」で、今も神社で「茅の輪くぐり」という形で伝えられている。
 最後の演目が「五龍王」というもので、舞ではなく、口上が主体の演目で5人の王子が争う中へ、これを鎮めるために「文撰博士」が兄弟仲良く国を治めるよう説得する話で、この説得するための口上が大変長く、ドラマでいうところの長台詞でこれが見どころ、聞きどころとなり、実力を備えた演者が此れに当たる。
 その国の治め方(領土分配)に曰く、1年=360日の内、東西南北を領する4人の王子にそれぞれ72日を与え、中央の王子(黄龍王)には、四季の土用(五行に由来する、一年の四立-立春、立夏、立秋、立冬の直前の18日間)を合わせた72日を与える、これにより世界が四等分(90日づつ)から五等分(72日づつ)になり、世界が上手く治まることが出来たという話である。
 興味深いのは、4人の王子、青龍王(東・春)、赤龍王(南・夏)、白龍王(西・秋)、黒龍王(北・冬)、そして争いの元となる5人目の王子、黄龍王(中央・土用)と陰陽五行説に当てはめられていることである。他にも、王の12人の子供を十二支の神に任じたりと昔の暦にまつわる様々な例えが出てきて興味深かった。
 最後は出演者一同に盛んな拍手と「御座」で28回も跳んだ演者にご祝儀が出て楽しい笑いに包まれて幕となった。


 尚、この企画は「総合研究大学院大学文化研究科」の学術交流フォーラム関連事業の一環として公演されたものである。

2014年12月12日金曜日

寒風(圧力)ついて

 選挙最終盤に入って各党も必死のたたかいを展開している、と報道各社は報じている。
 自民党がそんな報道姿勢に圧力をかけている。在京テレビキー局に「街の声は公正・中立に報道せよ」と文書を送ったという。
 テレビ出演した安倍首相が、アベノミクスを批判する街頭インタビューを見せられ「偏っている、おかしいじゃないですか!」と声を荒げた事があり、その後各局に文書が送付されたという経過である。
 極端に偏向した番組内容や特定の政党を攻撃するような内容に対しては抗議したりすることは当然だと思う。しかし、今回の内容は、街の声を流したもので、放送が伝える街の人の声に謙虚に耳を傾けるべきで、それが公党の党首の姿勢ではないだろうか。
 10日夕方、京都市内で日本共産党の不破さんが久々に街頭演説に立った。聞きに行きたかったが寒さにめげてインターネット中継で見た。御年84歳、原稿も見ず、革新の先頭を走ってきた京都の歴史を語り、暴走安倍内閣にストップをかけるため「日本の夜明けは京都から」と熱烈に語られた。
 不破さんは又、安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」とは祖父にあたる岸信介元首相の東京裁判での戦犯歴を消し去ることにある、と強烈に批判された。
 自民党の圧力に委縮せず、テレビ局には頑張ってもらいたいがインターネット放送では生でこんな声を聞くことも見る事もできる。残る数日、大いに利用し、カクサンしていこう。

今年も作りました。干し柿のお菓子です。今年は、包み紙を自作しました。

2014年12月8日月曜日

人の意見は

 「昔は良かった」と言えば、また年寄りの繰言かい、と云われそうだが、昔は本当に気骨のある知事さんがいたものだ。それに比べて近頃の地方 自治体の市長や知事さんの質は本当に悪い。
 12月5日、米軍普天間飛行場の辺野古への移設計画をめぐり、仲井真知事は工法の一部を変更したいという沖縄防衛局からの申請を承認した。
 え!沖縄の知事は「翁長さん」になったんと違うんかい!と思ったら仲井真知事の任期は9日まで、最後の最後でまたもや沖縄県民を裏切った。まったく往生際の悪い人だ。
 もう一人、民意を聞かない知事がいた。九州電力・川内原発の再稼働を承認した伊藤鹿児島県知事である。これは3日の「毎日」の「記者の目」に載った鹿児島支局・津島記者の=「民意不在の知事『同意』-「否定的意見を『差し引く』愚挙」=という見出しで以下記事を写す。
 「原発に理解の薄いところで結論を出すと錯綜するだけだ。」再稼働への同意を表明した11月7日の記者会見で知事はこう言い放った。市の一部が川内原発から30キロの範囲に入る姶良市の市議会が7月、知事が「県と薩摩川内市だけで足りる」とした地元同意の対象範囲を広げるよう求める意見書と、再稼働反対や廃炉を求める意見書を可決したことに対する感想だ。」
 この知事は再稼働ありきでさまざまに策動をし、その一方で同意範囲拡大を求める住民の声は黙殺し続けた。さらに黙殺だけにとどまらず、住民説明会参加者に対するアンケートの結果を都合のよいように解釈、というより勝手に捻じ曲げ、「理解を得られた」と主張した。
 その手口は、原子力規制庁の担当者が、新規制基準に適合した理由を解説する為だけで、再稼働への賛否は問わなかったにもかかわらず、アンケートの回答内容の中で12項目すべてが理解できなかったと答えた人が2割近くいた事を挙げ、「こういう人は最初から理解するつもりがなく、もともと原発反対という意志の固まりだ。それを差し引けばもう少しいい数字になると思う」と語ったということだ。
 記者はこういった知事の強引な手法に「同意手続きに民意が介在していなかったのは明らかだ」と指摘している。
 昔、なんて言い方をしなければならないほど、過去のことではないのだが、京都の蜷川さん、大阪の黒田さん、東京の美濃部さん、と民主的な地方自治をすすめた人たちがいた。
 「革新の大義に生きん身の構え私心なければゆらぐことなし」は黒田知事の名言だ。もって肝に銘ずべし。

2014年12月7日日曜日

なめたらアカン、大阪のおばちゃん!

  先日テレビを見ていたら「全日本おばちゃん党」の谷口さんというおばちゃんが出ていた。
 番組では、この度の総選挙に大義はあるか、争点は何か?という内容で出演者がそれぞれコメントをしていたが谷口さんは、「おばちゃんらは今争点を選べって言われたら『特定秘密保護法』と『集団的自衛権』と『原子力政策』が気になるねん」と言った。
 ムム、大阪のおばちゃんらしからぬ発言(失礼!マスコミが作り出す大阪のおばちゃんのイメージが強すぎて)と思い番組終了後、ネットで調べたら、以下のような事がわかった。
 出演していた谷口さんは、大阪国際大学准教授で、講師を務める阪大では「日本国憲法」の講義を担当する法学者とある。全日本おばちゃん党結党の趣旨は、国会に代表されるような「オッサン社会」に愛とダジャレでツッコミをいれる事を目的とするらしい。
 少しふざけた趣旨のようにも感じられたが、しかし、おばちゃん党の政策というか、方針として掲げる「はっさく」(これもどうやら船中八策にかけてある)が素晴らしい!
 大阪のおばちゃんをなめたらあかんで!舐めるのはアメちゃんだけにしとき!である。
 今度の選挙、安倍ちゃんは「アベノミクス」の道しかない、進むことを止め、3年前の民主党政治に戻るのか?と国民を脅し、その他の争点を隠し続けている。おばちゃん党の言うとおり、「税金はあるところから取ってや!」「うちの子もよその子も戦争には出さん!」「核のごみはいらん!」まさしく共産党の政策と一致するのではないか、おばちゃん党からは立候補がない、ここは共産党に投票するしかないのではないだろうか。

2014年11月19日水曜日

「沖縄からの手紙」に返事を書こう

  先日、中国北京で開催されたAPECでの習近平主席のオバマ大統領への過剰とも思える歓待ぶりが日本の安倍首相との目も合わさない握手場面との対比で大きく報道された。
 米中会談は長時間に及び、その中で習主席は「太平洋には、中国とアメリカという二つの大国の発展を受け入れる十分な広さがある」と発言したと伝えられた。その発言の意味を「太平洋を二つに分け、西を中国、東をアメリカが支配する」という意味だとする論評があった。もし、そういう意味だとするなら、近頃の中国の海洋進出、尖閣問題、南沙諸島問題などの動きと併せ、何か不気味な、嫌な感じがした。
 そんな気分の時に沖縄知事選挙の結果が出た。大きな争点であった辺野古の新基地建設を巡って、「沖縄県民の新基地NO!の結論が出た」と新知事は宣言し、対して政府は、「新基地建設の認可は出ており、過去の話、粛々と工事は進める」と言っている。世界一危険な普天間基地をなくすために辺野古に新基地をつくる計画は18年前に持ち上がり、反対する住民の座り込み行動は今も続いている。
 知事選挙の結果が出た夜、友のブログは「沖縄からの手紙」というタイトルで「政府と米軍(米国)を相手に前知事が認可した辺野古の埋め立てを阻止することが相当困難なことは県民の誰もが解っていた、(にもかかわらず振興策という名の)札束攻勢にも屈せずNO!の決断をした。今回の結果は、沖縄の良心であり、沖縄の勇気の勝利だと私は思う」と言っている。
 沖縄は、大日本帝国の無謀な戦争の果てに米軍の銃剣とブルドーザーの下に土地を奪われ、長く支配された。それは本土復帰後もほとんど不変だ。さらに、米軍兵士による少女暴行事件や数多くの犯罪にも遭ってきた。私が抱いた中国の覇権主義の影に対する漠然とした不安ではなく、現実問題として多くの実害を被ってきたのである。
 翁長新知事は、「沖縄の基地負担の現実を本土の皆も真剣に考えてほしい」と訴えた。だから本土でも負担すべきだ、と考えるのか、それとも、だからこそ沖縄だけでなく日本から米軍基地を無くすべきだと考えるのか、「沖縄からの手紙」に対する返事の書き方は、ここに決定的な違いが出てくるのだと思う。
 翁長新知事は「この問題は日本の民主主義にかかわる問題だ」とも言っている。返事は12月の総選挙で出そうと思う。

2014年11月6日木曜日

国宝の後のエビフライ

 最近、かなりの思いきりがないと朝からの外出が苦手になってきたが、来週も又、いろいろと用事があるので、今日は思い切って正倉院展に出掛けた。勿論、あの人に逢うためである。        会場に着いたのが12時少し前、丁度入場制限中であったが、それでも列に並んで、15分ほどで中に入れた。
 前のブログでも触れたが、中学の教科書に載っていた「鳥毛立女」が今、目の前にある国宝「鳥毛立女屏風」そのものであったかどうかは確信が持てない。もっと彩色があったように思うのだが、紅指す頬と、くっきりした眉毛以外は殆ど線描画のようである。それと今回、四扇面の出展で立ち姿は1面のみ、他は樹の株に腰かけており、記憶に残った「樹下美人像」といささか違い拍子抜けした感じである。それでもそのふくよかな姿はやはり魅力的である。
 それと今回、その美しい色形で魅了されたのが「鳥獣花背方鏡」(海獣葡萄鏡)であった。「日曜美術館」で紹介されていたがこの鏡の復元に何処かの大学教授が30年近く挑戦しているがそのシャープな線彫が再現できないでいる、という鏡だ。この写真はネットから取ったモノだが実物は、白銅製で、いま鋳あがったように白くきれいな色をしていた。
 約1時間、見学して会場を後にし次の目的の
エビフライ探しに公園内を歩いた。長谷やんから是非探すようにと、言われていたのである。前回はなかなか見つからなかったが今日は意外と簡単に見つけることが出来た。それも、登大路のすぐそばの松の木の下であった。意外と小さいもので一番下のモノが色合いがエビフライに近く、左のモノが尻尾がそれらしい。
 最後に帰り道きれいな紅葉を見つけ、写真を撮っていると、一人の女性が下を向いて何かを探しているので「エビフライですか?」と声をかけると、「??」という顔で「紅葉の落ち葉を探してます」と言って去っていった。変なおっさんが,変な事を言って来たな、思われたのかもしれない。長谷やん、エビフライ同好会の輪はそんなに広がってまへんで。



2014年11月2日日曜日

あの人に逢いに行こう

  今年の正倉院展の目玉は「鳥毛立女屏風」であろう、少なくとも私にとっては。というのも今をさかのぼる事、50数年前、私たちの中学校に新任の先生が来た。Y先生は歳の頃なら20代後半、頬がふっくらと赤く、眉毛が色濃く太く、少しおちょぼ口の女先生だった。
 当然、あだ名がつくのだが、パターンとしては、名前からくるモノ、風貌からくるモノ、兄や先輩から引き継いだモノ、等があるのが普通である。
 授業中、竹刀を持って歩き、間違うと頭を「コッン」とやられた数学のF田先生は、その苗字の後ろをとって「ダ―」であり、年配の英語の先生は、名前が「カネ」で「カネばば」(スミマセン、先輩からの引継ぎです)、理科の先生は、苗字が「青木」で丸い眼鏡をかけた風貌が大村崑ちゃんに似ていたことと、授業で習ったサツマイモを伝えた「青木昆陽」先生とのダブルネーミングで「崑」ちゃん、そしてその新任の女先生は「鳥毛立ち」だった。
 丁度、その頃の社会か、国語の教科書に載っていた「鳥毛立女屏風」(当時私たちは『鳥毛立樹下美人像』と習っていたように記憶しているが)の写真があまりにもそっくりだったからである。
 クラス全員、誰一人異議なく「鳥毛立ち」に決定し、そのネーミングに感動すら覚えたものだった。
 今朝の「日曜美術館」で「正倉院展」が取り上げられるので私はTVの前に古い中学校の卒業アルバムを用意し、「この人が鳥毛立ちゃ!」と嫁はんに見せたところ、「雰囲気あるなー」と賛同してくれた。中学生の時のあのネーミングの確かさと感動を50数年ぶりに確かめた。勿論、会期中に逢いに行くつもりである。

2014年10月23日木曜日

旬(?)の筍

  少し前から百貨店の野菜売り場やちょっと珍しい食材を売る野菜専門店などで見かけていた筍らしきもの、名前は「四宝竹」とラベルに書いてあった。
 初め見た時は、友のブログに載っていた「まこもたけ」に似ていたので真似て買おうかと思ったが若干躊躇したのは、どうも色形が違うように思ったからだ。今日思い切って買ったのは、売り場の兄ちゃんが名前を教えてくれ「煮ても焼いても炒めても美味しいですよ」と言ったからだった。
 家に帰って、インターネットのクックパッドでメニューを調べたら高知の特産で10月のごく限られた時期が旬の食材だと出ていた。簡単な炒め物や煮炊き物があるらしいがとりあえず塩をふってグリルで焼いてみた。少し苦みがあると書いてあったがシャキッとした歯ごたえのある爽やかな味だった。
 高知の特産となれば「バラやん」に聞いてみなければと思い、残りの10本ほど残してある。高知以外ではあまり食べられなかったのは鮮度を保つのが難しいからだそうで、バラやん、急いで教えてください。
 なお、今晩は「司牡丹」ではなく、滋賀・北島酒造の「御代栄」の”ひやおろし„でいただきました。
   バラやん悪しからず。

2014年10月15日水曜日

月に棲むのは

  阪急池田の逸翁美術館で「月を愛でる」という月に因んだ美術展があったので見に行った。ここのところ「十五夜の月見」や「皆既月食」とか月に関係した出来事が続き、また友のブログでも月にまつわる話が続いていたこともあり出かけたという次第である。
 日本人にとって月は太陽に比べ特段に惹かれるものがあるようだ。太陽は作物を育て、人間の身体を育て、生きるものすべてにその恩恵を与えている。にも拘らず、その事がごく当たり前のようになり、特段の興味を示さなくなっている。(天文的な興味という意味は別にして)
 それに比べ月に対しては、古来より、日によってその姿を変えることに不思議な魔力のようなものを感じているようだ。だから四季の移ろいの美しさを「雪月花」や「花鳥風月」などという言葉で謳ってきた。「中秋の名月」を愛でることは今でも、日本人(だけではないが)の一大イベントだ。
 美術の世界でも月の冴えた美しさは水墨画のテーマであり続けているし、茶道具にも月と兎は欠かせない意匠である。当日も香合の蓋全面に兎の顔をデザインしたものがあった。
 新装なった逸翁美術館は以前の展示スペースよりは少しコンパクトになったが照明も素晴らしく気の行き届いた展示になった。小林一三さんは良いものを遺してくれた。
 「月を愛でる」ということで月を題材にした美術展であり、友のブログのように、月に棲むのは兎なのか蟹なのか、という疑問には応えられないが、いにしえの芸術家が残した美術品は大いに楽しませてくれた。
私は兎派です。

2014年10月5日日曜日

マイブーム

  昨日から万博パビリオンで「時代が求めた!1970デザイン展」という催しが始まったので見に行った。大阪モノレールの車内広告で惹かれたのが「~アイビーからスペースエイジまで」というコピーだった。
 アイビー、懐かしい言葉であると同時に、私の心と体の何処かに今も在り続けるスタイルである。1960年代後半から1970年代の高度成長期を若者として過ごした私のマイブームだったのである。
 

 会場に入ってまず私の目を引いたのは「VAN」のコーナーであった。日本にまだ若者のためのフアッションというものがなかった時代、石津謙介氏が起こした「VAN」(大阪ミナミに本社があった)は単に服飾品というジャンルだけでなく、若者の生活スタイル全般を革命するものだった。
アメリカ東海岸の名門私立大学-アイビーリーグの若者たちが身に付けた、ボタンダウンのシャツ、コットンパンツ、三つ釦のブレザースーツ、という
アイビールックを日本の若者たちに提案したのが石津だった。
ケネディーライシャワー路線の影響で、アメリカに憧れていた私は、このアイビーに飛びついた。少ない給料の中から、ボタンダウンのシャツやコットンパンツを買った。
 写真の靴「コインローファー」別名「ペニーローファー」の名の由来は、靴の甲の部分に細い切れ目があり、ここにペニー(1セント硬貨)を挟み込むのがカッコいいファッションだったが高くて買えなかった。それでも三つ釦のブレザー(これも高くて、ナンバの三信衣料という安物屋で買った)を着込み、小脇に平凡パンチを挟み、東京のアイビー小僧を真似たものである。
 会場には私と同年配の人は少なく、展示してあるパナソニックの家具調カラーテレビを見て、「何でこんなにバカでかいの?」と漏らす若者がいた。70年代から早や半世紀近く、若者にとってこの時代の隔世感は途方もなく過去のものだろう、昭和は遠くなりにけり、なんて言われ、煙たがられているのだろうか。
 友人のブログで「終活」の話からコレにまつわるブームの在り様についてコメントがあるが、儲けのために起こすブームと人々の中から沸き起こるブーム、いわば「ムーブメント(社会運動)」と云われるものがあると思うのだが、昭和という時代の中で、「アイビールック」-ファッションであり、トラディショナル-伝統を重んじる、という生き方にこだわった石津氏のスタイルに触れた事は今も私の中で生きているように思う。



2014年9月21日日曜日

親子展

隆君、いや彼もすでに40歳をこえる大人なのだから加藤隆さんと呼ぶべきだろう。
 お祖父さんが押すべビーカーに少し大きくなりすぎた体を乗せ、はにかんだ様な笑顔をみせていた頃を思い出す。
 その彼が父親である切り絵作家の加藤義明さん(2010年死去)との親子展を開いたというので見に行った。彼が絵を描いていることは知らなかった。パソコン画という手法で描く画、「OZAKI~あがき続けた少年」は、少年時代の彼の内面を見るようで鮮烈だった。
 また彼は足でギターを弾き、絵筆も握るという。(彼は上肢等に麻痺がある)油絵の「とうちゃんの唄」はタバコ好きだった義明氏がうまそうに煙を吐き出す瞬間を白黒の画面で見事に表現していた。そして母親(加藤能子さん2009年死去)、私が記憶している能子さんの面影を思い起こすような絵だった。
 当日彼には会えなかったがこの親子展を企画された前田尋さん(切り絵画家)と少しお話しすることが出来た。新聞記事にはプロの画家を目指している、と書かれていた。きっとやさしい心を伝える画家になるだろう。
 親子展は24日まで、大阪市住吉区の長居競技場の南、町中の小さなギャラリー「キットハウス」でやっている。

2014年9月14日日曜日

老いも若きも

 去年に続き今年も「日本高齢者大会」に参加してきた。第28回目を迎える今回は、富山での開催であり、参加費用の関係で退職者の会からは一人の派遣となった。 
 閉会式での主催者発表では2日間で5,200人の参加者となったが1日目の分科会など、どの会場もいっぱいの参加者で高齢者パワーに圧倒された。
 私はこの9月で68歳になったが見渡す限り、どなたも年上の方ばかりである。昨年の大会挨拶で共産党の佐々木憲昭さんが「いま日本で一番パワーがあるのが高齢者団体です」と云ったことが思い出される。
 一日目の分科会で私は経済学者の山家悠紀夫さんの「アベノミクスと庶民の暮らし」を選んだ。たった5人の女性閣僚を任命しただけで支持率が上がる安倍首相の基本政策「アベノミクス」をもう一度しっかり捉えたいと思ったからだ。最近TVではあまり見かけなくなった山家さん、あらためてアベノミクスの「三本の矢」が庶民の暮らしに射込まれた毒矢である事を明らかにされた。「良くなっているのは株価だけ、それも去年の5月まで」「下降傾向にある株価と景気を下げないためにカンフル注射(公共事業)を打ち続けなければならなくなっている」と語り口は柔らかだがその指摘は苛烈で的確だった。
 また、安倍首相が言った「岩盤規制を私のドリルで壊す」とは、これまで国民と労働者を守ってきた法律・規制を悪者扱いし「世界で一番企業が活動しやすい国に」するための言葉だったと指摘、日本経済再生のカギは「暮らしの改善」で、消費税の10%増税は以てのほか、賃金を上げるため労組の頑張りと、規制を強める(国民と労働者を守る)社会保障をよくするなど、当面の取り組みを提起された。
 二日目の全体会での記念講演は「世界が100人の村だったら」の池田香代子さん。事前の講演内容とは違った話から始まったが、解釈改憲の事に及んで「言葉の言い換えとペテンによって戦争準備が着々と進んでいる」と、また先ごろ開かれた学術会議のテーマが「日本の若者はなぜ人を殺さないのか」という内容で、世界的に見て少年犯罪の低さは特異的である事、国が戦争をすると暴力にうったえる風潮が社会に広がり、犯罪が増えるのだそうで70年近く戦争をしなかった事がこういう数字、結果に繋がっている、という見方は新鮮だった。
 大会最後は地元八尾高校の伝統芸能部の若者による「越中おわら節」の演奏と踊りで舞台から会場に降りての輪踊りは、まさに高齢者と若者の共同の場となった。真剣に踊る若者を見ていたら何故か目頭が熱くなった。今回の大会、富山大学での会場案内のボランティアの皆さんや踊ってくれた高校生のお蔭で心に残る大会になった。来年は大阪からも近い和歌山に決まり「つれもて来てよ!」とアピールがあった。

2014年9月11日木曜日

月に乗せられて

 昨日、一昨日と中秋の名月を楽しんだ。
わが家のマンションの東の小窓から月が上がり、日付が変わる頃には南天の空に輝く名月をマンションのベランダから観ることが出来た。
 八日の十五夜の月は雲一つない空をゆっくりと時間をかけて渡って行く。しかし、
「yamashirodayori」さんによれば九日の十六夜の月の方が満月であるとの事。当日は夕方から大阪市内で集会があり、参加して帰宅したのが11時過ぎであった。それでも時々雲の切れ間から顔をのぞかせる望月を深夜まで眺めた。
  これほど熱心に眺めたのは「yamashirodayori」さんのブログにあった、孫可愛さに名月を自作自演された爺、婆さんのはしゃぎぶりに少し乗せられた所為かもしれない。
 ただしわが家は嫁はんと二人のお月見、雲間に隠れようが一向に差し支えはない。少し遅い晩酌を楽しんだ。

 写真の杯は、兎の背越しに月が観えるという洒落たものだが少し欠けさせてしまい、今は使っていない。気に入った物は使用頻度が高く、おのずと傷がつきやすいものだ。


この薄、やけに色が濃く茶髪のような穂をしてた。

2014年9月3日水曜日

ご用心を

よそ事と思っていたら大阪でも感染者が出たという。東京の代々木公園やその付近で蚊に刺された人が「デング熱」に感染したというニュースが流れたが日本国内での感染者は70年ぶりという事がショッキングに流されたが致死率の低さや、感染者の少なさなどで「パニックになって大騒ぎしないように」という厚労省の指導もあってか比較的平静な対応ぶりだった。
 ところがここに来て感染者の増加と東京以外への広がりで、俄かに不安になってきた。それは代々木公園付近でデング熱ウイルスを持った蚊に刺された大阪の人が病院に入院するまでの間に、つまり大阪で日常生活をしている間に大阪の蚊に刺されて、その蚊が大阪の人を刺したらその人は「デング熱」ウイルスに感染するのではないか?という不安だ。その辺をTV等はあまり伝えていないように思うのだが。
 そんなことを考えていたら、嫁はんとの会話で「そういえば昔、日本脳炎というのがあったな~」という話になった。これも蚊が媒介するウイルス性の病気だ。気になって調べたら1960年代は年間1000人程度が発症していたが、子供を中心に「ワクチン接種」を積極的に進めた結果、劇的に減少したという事だ。日本脳炎は「デング熱」などに比べ、致死率も高く、助かっても脳炎などにより後遺症を残す怖い病気だった。そういえば当時は、蚊の産卵場所になる水たまりや用水槽などにも気を付けるようにと教え込まれていたように思う。それが昔の隙間だらけの日本家屋から団地や気密性の高いサッシ窓の普及によって、いつの間にか身の回りにいる蚊の駆除は熱心でも蚊の発生そのものを抑え込む意識が希薄になってきたように思う。この意識の変化は恐ろしい。今いちど、身の回りだけでなく、地域や都市全体の環境衛生に気を配ることが必要ではないかと思う。
 アフリカで今猛威をふるっている「エボラ出血熱」も長引く内戦の結果の衛生状態の悪化や病気に対する誤った知識や迷信で患者が増えているとの報道もある。決して遠い国の話と思わず意識の強化が必要だ。

2014年8月30日土曜日

嫁はんと私の興味が両方満たされる、という展覧会が伊丹であった。もともとは「赤旗」の美術展ご招待に嫁はんが応募して当選した「ビネッテ・シュレーダー 美しく不思議な世界」展(伊丹市立美術館)であったのだが、同じ建物の中に「柿衛文庫」があり、そこで「鬼貫の世界」展が同時開催されていたのだ。
 ビネッテ・シュレーダーは、ドイツ生まれの絵本作家で、同時代のドイツ児童文学作家ミヒャエル・エンデ(「モモ」「果てしない物語」《ネバーエンディングストーリーとして映画化》」の詩に挿絵を描いたりした女性絵本作家で70歳をこえた今も新作に取り組んでいるという。嫁はんも当日まで女性作家とは知らなかったそうで、息子が喜んで見ていた絵本「ラ・タ・タ・タム」は白い小さな機関車や小さな飛行船が出てくる物語だがその細かい描写で、てっきり男性だと思っていたらしい。
 三つの展示室には、どんな細い筆で描いたのかと感嘆する原画が多数展示されていた。さすがに男性はまばらで、一見して絵本マニア(あくまで私の個人的感覚)の女性が多かった。
 もう一つの「柿衛文庫」の「鬼貫の世界」展は、伊丹が生んだ俳諧師、上嶋鬼貫の代表作の展示展である。今回初めて見たのは鬼貫が八歳の時に詠んだと云われる「こいこいといへど蛍がとんでいく」と云う句で、東の芭蕉、西の鬼貫、と云われた鬼貫だが「によっぽりと秋の空なる冨士の山」など、大人になってもその大らかで、のびやかな句つくりの一面が見られる句だった。
 「柿衛文庫」の設立者、岡田柿衛翁は江戸時代から続く造り酒屋の22代目の当主で伊丹市長を務めた人だそうで郷土が生んだ鬼貫の俳諧を知り、多くの俳諧資料を収集し、「柿衛文庫」を建てたという事です。どこぞの市長と違って文化的遺産を残す人は後世に名を遺すものだ。
 嫁はんも私もそれぞれ堪能した後、近くの「長寿蔵」で早めの夕食をとった。此処は以前、退職者会の酒蔵めぐりの際、昼食をとった処で、清酒「白雪」で有名な小西酒造の酒蔵を利用した食事処である。
 店の中にビールの醸造釜があり、実際製造している。でも私が好きなのは、「淡にごり」という日本酒で大きめのぐい呑みに写真のように上から注ぐパフォ―マンスで楽しませてくれる。酒粕を使ったピザなどを食べ、心もお腹も満たされた半日だった。
 
 

 台風にもめげず沢山の実をくれたゴーヤもそろそろ終わり、有難うと感謝を込めて室内の花入れに。
八月も終わりますが気候の変動にご注意を。



2014年8月11日月曜日

台風に名前があった時代

昨日、四国から近畿西部をゆっくりと通過した台風11号、名前を「ハーロン」と呼ぶらしい。麻生圭子さんのブログ「京都のしずく」で知った。へーぇ、今でも名前がついているんだ、と思った。というのも、昔は被害を与えた土地の名をつけて「伊勢湾台風」とか「第二室戸台風」と呼んでいたし、もっと昔(終戦後、進駐軍が日本にいた頃)は、女性の名前を付け、「ジェーン台風」とか呼んでいたのである。それがいつのころからか、発生順に1号、2号と呼ぶようになった。だから同じ11号でも去年や、その前の11号と区別がつかず、何年前の11号と呼んで区別をつけなければならなくなった。      
 昔、家にテレビがない時代は、ラジオから逐一、流される台風の動きを家族全員が閉めきった家の中で聞いたものだった。家にテレビが来てからは定時放送が終わっても深夜まで台風情報番組が続き、ニュースとニュースの間に流れる清流の流れとか、アルプスの山々の映像が映されるのを飽きずに眺めていた。緊迫した中にものんびりした時代だった。
 現代は、行政の責任問題になりかねないと、早め、早めの避難勧告や、被災状況がこまめに流される。今回の11号でも三重県の四日市市には全住民31万人に避難勧告が出されたが実際非難したのは1%にも満たなかったらしい。とり越し苦労で済めば、という感じで勧告するのだろうが、勧告せずに、もし災害があったら責任問題になるからという行政側の気持ちが透けて見える。実際31万人が避難したらどんな混乱が出るか誰も予想できないのでは、と思ってしまった。
 ということで、我が家も昨日の昼前まではベランダの物干し竿を片付けるぐらいの準備しかしていなかったが、昼前になって、「赤穂市付近に再上陸しました」とテレビが伝えたころから雨風が激しくなって、ゴーヤのグリーンカーテンが御覧のようになってしまった。
 我が家の台風11号による被害はこれだけで済んだが、豪雨による被害が四国中心に広がっているようだが亡くなった人の数が以前の台風被害に比べ少なかったのは、事前の情報と避難警告、勧告のお蔭なのかもしれない。
 台風で思い出したことでもう一つ、大阪を直撃した「第2室戸台風」は上陸しても勢力が衰えず、台風の目もしっかりしていたと記録にある。そして私はその眼をはっきり見たのである。台風が通過中、一時、雨も風も少しおさまり、見上げる上空に丸~るく、ぽっかりと青空が見えたのである。中学生頃のことであるから、夢や幻ではない、と確信している。信じてもらえないかもしれないが確かに見たのである。どなたか、同じような経験をした人があったらお知らせ願いたい。
 で、最初の台風11号の「ハーロン」という名前について、Wikiで調べたところ、日本他14か国が加盟する政府機関の「台風委員会」で2000年以降発生する台風140個に事前に名前と命名する国が決めてあるそうで今回が56個目で名付け親はベトナム国で「ハーロン」はベトナムの湾の名前だそうである。我が家の被害が少なかったからかもしれないが、昔の台風の名前が懐かしく思い出された一日だった。

2014年7月29日火曜日

天神祭りの残り物

26日、大阪天満宮の近所で学習会があり、参加をしてきた。会場には天満宮の境内を通るのが近道なので天満天神繁盛亭の前を通り、境内へ入ったところ、昨日の「天神祭り」の後片付けの最中であった。二基の御鳳輦はまだそのままだったが境内のあちらこちらで引幕を降ろしたり、結界のしめ縄や笹をまとめて積み上げる作業を係りの人が祭りの後の余韻を残したままゆったりした動作で続けていた。
 その横を通り過ぎようとした時、きれいな花を見つけた。石組みの上に今解き外したように紐が付いたまま置いてあった。花と見えたのは造花の「天神花」だった。祭りの何を飾ったものかはわからないが、造花とはいえ、未だきれいな儘紅白の梅も、「天神花」の文字もなかなかの物で、思わず拾い上げ、社務所の巫女さんに「この花、もう要らないものでしたら貰って帰っていいでしょうか?」と尋ねると「よろしかったらどうぞ」ということで頂いたが剥き出しのままだったので帰りの電車の中では少し恥ずかしかった。
 学習会は、関電大飯原発の運転停止訴訟の「福井地裁判決」の緊急学習会であった。訴訟を担当された吉川弁護士の話をじっくり聞くことができた。わかりやすい資料も貰ったので、じっくり読んでからいずれブログに書いてみたいと思う。
訂正
福井地裁判決の学習会は27日でした。26日は「一点共闘」のシンポジュウムでした。

2014年7月12日土曜日

大阪にこだわる、

気に入った特集がある時だけ購入する「大阪春秋」という雑誌がある。季刊誌である。平成26年夏号は「没後25年回想の藤澤桓夫」だった。藤澤については詳しいことは知らないし、作品も読んだことはない、が大阪が生んだ昭和最後の文士、という呼び方に以前から惹かれていた。
 そして彼に繋がる甥の石浜恒夫にも強く惹かれるものがあった。といっても川端康成に師事した石浜恒夫の文学作品ではなく、作詞家としての石浜の作品が好きだった。
 アイ・ジョージの「硝子のジョニー」フランク永井の「こいさんのラブコール」「大阪ロマン」など大阪色の強い歌詞である。詩集「道頓堀左岸」も好きで、その舞台になった道頓堀の「コンドル」(今は無いが)という喫茶店にも通った。娘の石浜紅子は去年,橋下に廃館にされた「なにわの海の時空館」の館長だった。
 で、藤澤桓夫であるが、特集では木津川計さんが「大阪には文壇がなかった。大きな理由は、出版社が皆無に近かったからだ」と述べておられる。そして「唯一、大阪で文壇らしきものといえば藤澤桓夫邸に集まった作家たち、小野十三郎、長沖一、秋田實、織田作之助、今東光、司馬遼太郎、杉山平一など、文学界以外で画家の小出楢重、将棋の升田幸三、そして山口瞳、石浜恒夫ら、そうそうたるメンバーが集まった、いわばサロンのようなものが存在していた」と云う、ふた昔以上もっと前の話であるが今も出版業界は東京一極集中であることに変わりないようである。
 写真の古本「大阪手帳」は、四天王寺の大古本祭りの「大阪本」コーナーで見つけ買った一冊であるが、その中の「大阪日記」という随筆で、東京の出版社に原稿を送る際、夕方までに出来上がると郵便局で速達にし、夜10時以降なら、直接、梅田駅(現大阪駅)まで持って行き、東京駅止めか新橋駅止めにする、と書いている。大阪文壇の重鎮さえもそんな不便さを覚悟して大阪に住んでいたのであろう。
 今回の特集の中で藤澤の本の装丁を手掛けた美術家のことが書かれていて、この本が写真入りで紹介されていた。装丁したのは「具体美術協会」を設立した「吉原治良」の作品とある。
 また、藤沢の人となりを紹介する中で、彼が南海ホークスの熱心な支持者としても有名であった事が紹介されている。阪神タイガースではなく、南海ホークスであるところがいい。私は「虎」ではなく「鷹」ファンが真の大阪人だと思っている、勿論、身売りする前の南海ホークスである。「虎」と「鷹」ファンの違いについては又いずれ、という事にして、とにかく大阪にこだわった作家であった事は間違いないと思う。あらためて彼の作品を読みたくなった。

2014年6月24日火曜日

見逃すな!懲りない人たちを

  かっての職場のF先輩(組合活動の)が出版された「雑文集」(とご本人は仰ってるが)に「確信犯」【2008・11】という文章がある。なぜ、6年前のこの文章を引っ張り出したかというと、先日の石原環境相の「除染廃棄物の中間貯蔵施設」建設をめぐる「最後は金目でしょ」発言と、東京都議会での女性議員への「セクハラやじ」事件があったからだ。
 石原大臣の「金目」発言は当初「発言取消はしない」としていたが福島県民や多くの国民の批判の声に、自ら福島県に出向き、謝罪して廻った。地元町長も「(自ら出向き)けじめという事で深く受け止めたい」と謝罪を受け入れ、どうも一件落着のようだ。
 また、都議会の「セクハラやじ」事件は、張本人の自民党都議が名乗り出て謝罪した。こちらの方は、他の悪質なヤジの犯人探しが続いているが、被害を受けた女性議員の対応次第という事になりそうだ。
 今回のこの二人の「失言」「ヤジ発言」問題での記者会見での言い訳が本質的には全く同じ内容で「発言の趣旨は相手を傷つけるつもりはなかった」「全くの誤解、私の品を欠く発言で不快な思いをされた方にお詫びしたい」とヤジや発言の趣旨が誤解されたので謝罪したい、撤回したい、というものだった。そして、一人は会派を離脱することで「みそぎ」をし、一人は堂々と今後も「福島の被災者に寄り添い仕事を精一杯続ける」との賜わっている。
 先輩の「確信犯」の内容は、当時【2008年11月】の航空自衛隊のトップだった田母神空幕長が解任された事件の事を書いておられる。解任理由は、田母神氏が寄稿したある論文で「日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行した」「自衛隊は集団的自衛権も行使できない。武器の使用も制限され、がんじがらめで身動きできない」などと歴史を歪曲し、露骨な憲法敵視の持論を展開したことによる。当然、大きな批判を浴び、解任された(2008年当時はである)。
 田母神氏は、第一次安倍内閣の時に、空幕長に任命された経緯がある。先輩は田母神氏の論文での発言を単なる「失言」ではなく「確信犯」であり、憲法を順守すべき自衛隊のトップが憲法敵視の発言をすることは重大であるとともに、このような人物を任命した安倍内閣の憲法に対する姿勢が問われており、憲法順守の姿勢を内外に鮮明にすることが必要だ、と断じておられた。
 田母神氏はその後、東京都知事選挙に出たり、反共スピーカーとしてTVに出たりしている。まったく懲りていない「確信犯」である。問題はこのような人物がなぜ今も世間に受け入れられているのか?という事だ。
 6年たった今、第一次安倍内閣で田母神氏を任命した安倍首相が、いま正に持ち出しているのが「集団的自衛権の行使容認」である。歴代の自民党内閣の歴史認識、憲法に対する姿勢をきちんと正そうとせず、田母神氏解任で済ませてしまった「ツケ」が今、廻ってきているのではないだろうか。今回の二人の「失言・ヤジ」事件もこのまま一件落着という事で済ませてはいけないと思う。国民の監視と、責任追及が最後まで必要だ。

 
 
 写真は全然関係ないが先日書いたブログの洋食屋さんの「幻のオムジャーマン」を作ってみた。味はそこそこだったが、見た目はやっぱり本職の「彼」には到底及ばない「卵の焼き加減」だった。

2014年6月16日月曜日

「嘘も方便」では困る

ルールをよく知らないのでもう一つ興味が湧かないのがサッカーである。しかし4年に1度のワールドカップとやらがブラジルで開催され、TVや新聞は大騒ぎをしている。
 この大騒ぎが予定では7月14日まで続くらしい。らしいというのは、日本チーム、これを「侍ジャパン」と呼ぶらしいが、日本が決勝リーグまで勝ち進めば、という条件付きではある。
 侍ジャパンが1次リーグで敗退すれば過熱しているマスコミ報道も急激に冷め、にわかサッカーファンの関心もしぼんでいくだろう。
 この事を一番恐れているのが安倍内閣だという説があるという。何故なら、多くの国民が過剰なマスコミ報道、TV中継に熱中している間に「集団的自衛権の行使容認」という閣議決定をしてしまいたいからであるという説である。
 なるほど、安倍内閣の太鼓持ち新聞社や反共新聞社を除けば大方の新聞社の論調は「閣議決定には反対」 である。安倍首相の周到なマスコミ懐柔作戦(大手マスメディア各社トップとの頻繁な会食)にもかかわらずである。だから、国民の関心がワールドカップに向いている間に閣議決定に持ち込みたいというのが本音であるという話には「そうか、そうか」と頷ける。
 しかし、国民は馬鹿ではない。新聞「赤旗」は連日のように憲法改悪に反対する抗議行動や「9条の会」の大江さんらの活動を報道している。ワールドカップに熱狂している、と思われる国民の多くも、各種世論調査では、「自衛隊の海外派兵」や「憲法改定」には反対である。この熱狂が冷めれば、安倍内閣が言っている「集団的自衛権は国民を守るもの」という「ウソ」を簡単に見破るだろうと思う。
話はサッカーに戻るが、TV中継されている試合の中で見られるヘディングシュートやキーパーのファインセーブは確かに見事なものである。しかし、それ以外のというか、それに至るまでの選手たちのゴジャゴジャした(サッカーファンの皆さん、ごめん)動き、そして一番気に入らないのが相手チームのファールを誘うかのような転倒プレーや過度な演技での審判へのアピールである。およそスポーツマンらしからぬ態度である。こんなプレーもテクニックの一つだという事かも知れないが、長々とこんなシーンばかりを見せられると全くの興ざめである。
 「嘘も方便」という諺があるが真剣なスポーツと国民の命と安全にかかわる政治の世界では通用しないと断じたい。

2014年6月6日金曜日

「サラメシ」事情は?

現役時代は昼ご飯、NHK番組風に云うなら「サラメシ」が楽しみだった。職場の近所の松屋町(大阪では”まっちゃまち”と発音する)で中古の自転車を買い、ウメダあたりまでペダルを踏んでグルメ本に載った名店のランチを食べて廻った。ただし、いくら高くても1000円以下、喫茶店のランチは食べない、というのが私の「サラメシ道」であった。 そんな名店のひとつに「コタニ」という洋食屋があった。
 地下鉄堺筋本町駅の改札を出たすぐの処にあり、付近のサラリーマンやOLでいつも満員だった。入り口で並んで待っていると元気のいいママさんが先に注文を聞きに来る。店の中はカウンター席とテーブル席とで30人ぐらいの感じのいいスペースだった。
 「コタニ」の看板メニューは「オムジャーマン」だ。オムライスをグラタン皿に入れ、上からブラウンソース(店ではジャーマンソースと呼んでいた)をかけ回し、オーブンでぐつぐつと焼きあげ、アツアツを食べさせる。中身のチキンライスがシンプルな味なので濃厚なソースと絡み合ってとても旨かったが、私がいつも注文するのは「オムコロ」だった。「オムコロ」はオムライスの横に小ぶりのクリームコロッケが二つ付いて、ジャーマンソースではなくトマトソース(ケチャップソースではない)がかけられてあった。いつもこれを頼むものだからママさんは「たまには他のものを頼んだら」と笑いながら注文を取ってくれていた。キッチンの中のコックさんも若いがベテランで、私はいつもカウンター越しに彼の熟練の技をセットのスープを飲みながら眺めるのが好きだった。チキンライスを卵でくるむ段になると彼の神業が見れる。ケチャップの空き缶に入った溶き卵をフライパンに流し込み、すぐさま余った溶き卵を空き缶に戻し入れる。そして用意してあったチキンライスを使い込んだ杓文字で卵の上にのせ、フライパンをほんの2~3回あおるだけ、その間、わずか20秒足らずである。
私は思うのであるがオムライスの卵の厚さは、薄い方がいいと思う。油でベトベトした厚手の卵のオムライスは好まない。ましてやタンポポオムライス(映画『タンポポ』に登場した)のように半熟オムレツを上に乗せるオムライスは邪道だと思う。スプーンを軽く乗せると皮がはじけて破れるぐらいの薄さがいい。そんなオムコロを月に2~3回は自転車に乗って食べに行っていた。
  退職してからも何回か嫁はんと食べに行ったがランチタイムを少し外していったこともあるがマスターが店の入り口の丸椅子に腰かけ文庫本を読んでいた。腰が悪いとは聞いていたが何となく元気がなく、今度来るときは嫁はん手作りのブックカバーを進呈しようと思い、何か月か過ぎた頃、久々に行くと、店の外観はそのままだが、マスターもママさんもいない。店の名前を確かめたら変わっていた。メニューに「オムコロ」もない。仕方なく、オムジャーマンを食べ、キッチンにいたおじさんに聞くと「前のコタニさんから『店やらないか』と云われ跡を継いだ」という事だった。その後店はもう一回変わった。店の外のメニュー写真の「オムジャーマン」は最早コタニのそれではなかった。私も退職して10年、サラメシとも縁遠くなり、店の様変わりに文句を言える資格は無くなった。元の職場の後輩に聞いた「サラメシ事情」も大きく変化している。昼休憩が短縮され、外に食べに出る余裕もなく、職場の周りに売りに来る街頭スタンドの弁当屋の弁当かコンビニ弁当を買って簡単に済ませているとか。昔のように「コタニ」の数々のメニューに心ときめき、コックがあおるフライパンの中で踊るチキンライスの神業に見とれる、そんな楽しい「サラメシタイム」は望めないのか。誰が作ったか分からない弁当を職場の机の上で黙々と食べ、残った時間を昼寝に費やす、そんな職場に未来はないように思うが少し飛躍しすぎたかな、反省。

2014年5月27日火曜日

ワタシノスキナ「小さきモノ」

  以前、TVでも紹介され、心待ちにしていた「野口哲哉・武者分類(むしゃぶるい)」展を京都・大山崎山荘美術館に見に行った。
 野口哲哉さんは、私の好きな「小さきモノ」の具現者である。著作権の関係でブログ上の写真は「保存禁止」の措置が取られているのでその精緻な仕事ぶりは紹介できないが、彼の仕事の素晴らしい処は、単に「精緻」という事にとどまらず、図録の表紙のような「ヘッドフォンを聴く侍」のように、あり得ない現実を、さもあるように表現したり、「視力検査をする侍」のように あり得ない図、と思って目を凝らしてその板絵を見ると、絵の具のはげ具合や板そのものがまるでその時代の板を見つけて書いたような雰囲気を出している。「そんなことがある訳ないやろ」と思いつつ、作者が昔の文献、板絵を参考に作り上げたものではなかろうか?と思ってしまうのである。
 作者の野口さんは中学生の頃、偶然目にした一枚の写真それは幕末期に撮られた甲冑姿の武士の姿だったそうだが映画で見る色鮮やかな甲冑ではなく古ぼけた兜を付けた侍の姿に不思議な感覚を覚えたそうだ。
  SFにも熱中した少年時代であったとも述べている。そこに私が感じたのは、現実と仮想現実が入りまじった世界、まさに「星新一」ワールドではないか。
 そんな表現世界と類まれなる精緻な技巧で作られる身の丈、20センチ足らずの侍のフィギュア-は「有りそうで無い」「無いようで有る」SFの世界に迷いこませる作品群であった。
 おなじ頃、NHKの日曜美術館で放映した「明治の工芸-知られざる超絶技巧」も素晴らしい内容だった。明治時代、世界を驚かせた美術工芸品があった。幕末から明治維新の時代、需要の無くなった甲冑師や刀剣装飾師たちが持ち前の技術を駆使し、「自在物」と呼ばれる金物の置物や写真の牙彫(象牙の細工物)をつくり、世界に活路を見出した。今に伝わる「明珍火箸」の明珍一族もそうした職人集団だったといわれている。
 写真の筍の彫り物は安藤碌山という職人の作品で京都・清水三年坂美術館にあるそうだが何回か訪れているがまだ見たことはない。他にも見事な細工彫りの逸品を残しているがこの人も生没年不詳という事でいかにも職人らしい。筍の皮のうぶ毛やその彩色の見事さは、かの故宮博物館の「翠玉白菜」に勝るとも劣らない逸品だと思う。このような名品が明治維新後、数多く海外に流失したというが残念なことだ。
 
 

2014年5月2日金曜日

消えた屋上遊園地

  メーデーに参加しての帰り道、阪神百貨店の催し場に立ち寄り、ついでに「ホワイトウイング」(紙飛行機)を買おうと思い売り場を探したが無い。近くにいた店員さんに聞くと「無くなりました」と云う。以前は鉄道模型の売り場の横にあったのだが「売り場」ごと無くなっていた。うーむ、困った事になった。
 東急ハンズなどにごく少数売ってはいるのだが、大阪でも最大の品数があったこの売り場だったのに、、、本当に困った事になった。落胆して帰ろうとすると目の前が「屋上庭園」の入り口になっていた。で思い出したのが「大阪最後のデパート屋上遊園地が閉鎖」の新聞記事だった。遊園地の遊具は無くなったが、金魚やペット売り場は残っているのだろうとドアを開けて外に出たが見事に何もない。芝生を植えたサークルの周りに、サラリーマンやおばちゃんが弁当をひろげていた。その新聞記事が載ったのが今年の3月初めだったから、私の記憶の中にある「親子連れがゆっくり遊べる屋上遊園地」のイメージがつい最近まで残っていたことになるが、それも大阪ではついに無くなったのである。そう云えば、大阪に「USJ」とやらが出来た頃から大阪、いや京阪神の遊園地もどんどん寂れ、閉園や規模を縮小して行ったのだった。小さい子供を連れたお父さんは、いったい何処に行っているのだろう?

 友人の様に孫のため、庭に手作りのシーソーを置ける人は良いが、バカ高い入場料を払い、長時間待って心臓に悪いコースターのある遊園地、いやテーマパークに行くしかないのだろうか。かろうじて生き残って頑張っている「ひらぱー」でもかなりのお金はかかるだろう。ゆっくり回るメリーゴーラウンドやゆっくり歩くパンダの乗り物に子供を載せて、大人はベンチで休憩、などという風景は大昔の事になってしまったのだろう。「子供は喜び、大人は安心」という家族連れの遊びの基本は変わっていないと思うのだが、時代は、より高度な「遊び」「喜び」を追い求め、エンターテイメント性の高いモノを提供しようとするのだろう。それは良いのだが、そのために手頃な「遊び」と「場所」が無くなるのは寂しい。
 話は飛躍するが狭い日本に新幹線を走らせるたびにローカル線が間引きされ、廃止されていく。寂しいだけでは済まされない事だと思うのだが、日本という国はこういう間違いを平気でしてしまう、、、。
 
そんな屋上にしっかりとお稲荷さんは残っていた。何故か「ホッ」とした。

2014年4月28日月曜日

「のだ藤」復活

  世の中、GWに突入と騒いでいるが基本、年中サンデーの私には関係ないと無視している、いるが、1~2の行事には毎年出かけている。その一つが「老松古美術祭」である。
 春と秋の年2回開催され楽しみに出かけている。今年で38回目とか、昔は「老松骨董祭り」と云っていたと思うが古くからの古美術街がこの季だけは冷やかしの観光客も入り賑わう。大阪高等裁判所の裏手にあり、目の肥えた司法関係者や数寄者たち(これは私の独断)が通う、京都の新門前町のようなホンモノを扱う古美術街である。であるから普段は、ホンモノ、ニセモノ入り混じりの四天王寺の骨董市のような雰囲気は全くない静かな街である。
 そんな古美術街が「品」は保ちながら少し骨董市の雰囲気を出して年2回、私たちに良い品を提供してくれる。とは云え、そうそう手の届くようなモノはない。河井寛次郎や富本憲吉、そしてペルシャの古いガラスなどが通常の値段よりも安く(と思う。)並べられているが「勉強のため」「見るだけ」である。それでも楽しい。
 そんな店の1軒で「骨董市」の雰囲気で並べられていた中から見つけたのが写真の「香合」である。店の人は「志野」だと言ったが「馬の目」の模様が可愛いのと格安だったので購入した。
 老松町の狭い道の両側に並んだ店を次々覗いても1時間足らずで済んでしまい、帰る事にして、今日出かける前に事前に調べておいたもう一つの目的「野田の藤」を見に行くことにした。
 京阪電車中之島線の終点「中之島」駅からすぐの処の「下福島公園」から阪神「野田」駅前までぶらぶら歩いて見物した。ピークは過ぎたという事だったがガイドチラシを手にした見物客が結構歩いていた。「野田の藤」の歴史は古く、私の愛読書、雑誌「上方」にも当時の賑わいぶりが載っている。チラシによると昭和46年ごろに「のだ藤」復活の話が起こり、56年ごろから「区民の花」として根付き始めたらしい。今は区をあげて苗を育て、普及に努めている。
街中に設置した「地名板」はキレイな「藤色」だった。