2016年4月17日日曜日

願文に

 自分が生きている世代に大地震(震度7以上)が4回も起きるなんて想像も出来なかった。阪神淡路大震災(1995年)では軽微ながらも家屋の被害に遭い、その後、新潟中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、そして今回の熊本地震である。いっこうに収まらない余震、と思っていたら本震だったという。その特異性が段々明らかになるにつれ、不安が募っていく。
 「敗残兵の子」、戦後世代として育ち、古希を迎える段になって戦後最悪の危険な為政者と向かい合うことになってはいるがこれは所詮人間のすること、対処のしようもあるが、自分の力では如何ともし難い自然災害に只々終息してくれと祈るしかない。
 ときどきみかける雑誌、「月刊大和路ならら」の2月号で東大寺二月堂の修二会の事が載っていた。その中に「忘れられない修二会の夜」という記事があった。筆者は2011年のあの揺れを東京で体験し、ようやく奈良に帰り着き二月堂の警備に向かった。(関係者のようである)-以下抜粋-
 「12日はお水取り当日であったがさすがに人出も少なかった。当時の北河原別当から特別に3っのお願いというお話があった。それは被災され亡くなられた方々のご冥福をともに祈りましょう、いま、困難な状況にある方々の思いを馳せ、ともに苦しみを感じましょう、そして社会復興のため、それぞれの立場で持っている力を出しましょう」というものだった。
 涙ながらに話された言葉に救われた。あの大震災では神も仏もあるものか、と多くの人が思い、行の最中の練行衆もやるせない思いを抱かれていたのではと思った。でもあのお話で、それでも人間は神仏や何かをよりどころとしながら踏ん張って行かなければならないのだと思った。ふと大阪大空襲の時も、西の空が真っ赤になるのを見ながら修二会が行われたことを思いました。
 こんな時に修二会をしてるなんて、ではなく、こんな時だからこそ修二会をすべきなんだと実感したんです。」というものである。
 今年も御参りには行けなかったが1200年を越え一度も途絶えることなく続く修二会、今回は間に合わなかったが来週には東大寺で写経を体験する。願文に熊本地震の犠牲者に哀悼をささげ、震災の一日も早い終息をお願いしようと思う。

2016年4月10日日曜日

杯に浮かぶ月

  去年嫁はんが京都の「平安楽市」という手作り市に行って綺麗な青磁の杯(はい)を買ってきてくれた。
 10年程前に私が京都百万遍の知恩寺の手作り市にはまり、通っていたが次第に嫁はんと従妹が取って代わり、それが最近は岡崎公園内の「平安楽市」も覗くようになった。ここは、知恩寺に比べ場所も広く歩きやすいのでお気に入りのようだ。
 毎月の第2土曜日に開催されるとの事で、写真の杯の作者にも会いたくなって私一人で出かけた。暑いくらいの陽ざしの中、京阪三条から約20分ほど歩いて会場にたどり着いた。
 事前にプリントアウトした出展店舗の地図を頼りに「yuragi]という店を探した。店はすぐ見つかったが人気があるようでお客が途切れない。やっとテントの中に入り作者と話をすることが出来た。嫁はんに聞いていた通り私の質問に対して熱く語り始めた。作者本人が話の途中で何回も「しゃべり過ぎ、と云われてます」と挟むとおりこちらが気兼ねするくらい、熱く説明してくれた。
 私の質問はひとつ、写真では解りにくいが天井のシーリングライトがまるで月のように杯の中に映るのである。それも底ではなく浮いて映るのである。最初に見た時は衝撃であった。「意図して作ったのか、どうか」説明を受けたはずの嫁はんにしつこく訊いても「どうやったかな~」と心許ない。そこで出掛けて訊いてみた訳である。
 作者曰く「最初は偶然でした」という事だが、途中から意図して作るようになったという事だ。その過程は秘密かなと思ったが、割とあっさり明かしてくれた。外も内側も削るのだそうだ。特に内側は自作した金属のカンナで削るのだそうでその角度が重要なんだそうだ。
 そんな話をしている間も客が来て、ついに私の方から「また来月来るから」と店を離れた。会場の中には「段ボールで作るジオラマ」の店や、手作りのケーキやクッキーの店も並び半日ほど遊んで会場を後にした。
 帰り道は堀川端に出て三条から阪急河原町まで高瀬川沿いの名残の桜を見ながら歩いた。 


2016年4月8日金曜日

春宵二題

  四月に入って生活に色々と変化が出てきた。7年間、群馬の工場に勤務していた息子が大阪に帰ってきた。転勤先は私の実家の目の前の工場になった。
 1日に転勤挨拶で帰阪し、2日には早くも引っ越し先を自分で決めてきて、その報告も兼ねて実家の母の仏前にお参りしてきたという。2日は母の祥月命日で何か不思議な縁を感じた。
 帰ってきたといっても離れて暮らすことに変わりはなく、これまで通りだが何となく安心した気分であることも事実である。
 
 四月に入った先日は嫁はんの誕生日、これまでも大したお祝いはしてこなかったが義父の介助で泊まりこんでいる嫁はんの慰労と義父のご機嫌伺いを兼ねて「鯛のアラ炊き」を炊いて持っていった。嫁はんよりも義父が頭を黙々と食べ「昔、知り合いの食道楽の男が鯛の目玉の部分だけを食べ、身の方は食べなかった」と懐かしそうに語ってくれた。
 帰りしな、義父の住む棟の目の前の子供用の砂場の横に立派な桜の木が満開になっているのに気づいた事を話したら「毎年きれいに咲いてくれている」と言った。義父たちがここに暮らし始めて20数年になるが私は今まで全く気付かなかった。
 桜の花の見ごろの短さと、義母が亡くなってからも元気なことに安心し、超高齢の義父を一人暮らしさせてきたんだな~と思い返しながら帰宅した。
 
 上の写真はその時の鯛の骨だが丸いコブのようなものがわかるだろうか。以前、長谷やんのブログに「鯛の鯛」の事が書かれていて、私が「観音詣りの鯛」の事をコメントしたことがあった。鳴門の鯛の中には鳴門の大渦に巻き込まれながら懸命に泳ぐあまり骨折するものがある。その骨折部位に仮骨が出来、コブのようになるという。身の引き締まった美味い鯛の証しだという話である。ウソか本当かは分からないが初めて実物を見た。
          大阪天満橋の大川沿いの夜桜です

2016年4月2日土曜日

大人の花見

  桜の花を撮るのは難しい。バックに青空が入らないとソメイヨシノのような白い花びらは冷たく写ってしまう。
 明日は雨空になるので少し雲は多いがいつも会いに行く箕面の萱野三平邸の桜を見に行った。シーズン以外は訪れる人も少ない「涓泉亭」(けんせんてい・三平の俳号から名付けられた施設)だが花見みの客が数組いた。花曇りだったが頬に触れるほどの間近の桜を堪能した。亭内には辞世の句「晴れゆくや日ごろ心の花曇り」の歌碑がある。
 長谷やんが言うように賑やかなお江戸の花見よりも大人の風情でひっそりと楽しむ花見も、に同意しつつ、以前のブログで同じような事を書いていたなーと思い手繰ってみると、2011年4月のブログで「自粛ムードの花見・・・」と書いていた。大津波と原発事故の事も3月の5年目報道が済めば待ってましたとばかりに「花見だ、花見だ」と浮かれまくる風潮はどうなのかと、自戒を込めて一人静かに花見を楽しんだ。
付録
遠出をしなくても身近に楽しめる桜もある。
近所のマンションの駐車場の桜と箕面市民病院の下の土手沿いの桜並木。