2014年11月19日水曜日

「沖縄からの手紙」に返事を書こう

  先日、中国北京で開催されたAPECでの習近平主席のオバマ大統領への過剰とも思える歓待ぶりが日本の安倍首相との目も合わさない握手場面との対比で大きく報道された。
 米中会談は長時間に及び、その中で習主席は「太平洋には、中国とアメリカという二つの大国の発展を受け入れる十分な広さがある」と発言したと伝えられた。その発言の意味を「太平洋を二つに分け、西を中国、東をアメリカが支配する」という意味だとする論評があった。もし、そういう意味だとするなら、近頃の中国の海洋進出、尖閣問題、南沙諸島問題などの動きと併せ、何か不気味な、嫌な感じがした。
 そんな気分の時に沖縄知事選挙の結果が出た。大きな争点であった辺野古の新基地建設を巡って、「沖縄県民の新基地NO!の結論が出た」と新知事は宣言し、対して政府は、「新基地建設の認可は出ており、過去の話、粛々と工事は進める」と言っている。世界一危険な普天間基地をなくすために辺野古に新基地をつくる計画は18年前に持ち上がり、反対する住民の座り込み行動は今も続いている。
 知事選挙の結果が出た夜、友のブログは「沖縄からの手紙」というタイトルで「政府と米軍(米国)を相手に前知事が認可した辺野古の埋め立てを阻止することが相当困難なことは県民の誰もが解っていた、(にもかかわらず振興策という名の)札束攻勢にも屈せずNO!の決断をした。今回の結果は、沖縄の良心であり、沖縄の勇気の勝利だと私は思う」と言っている。
 沖縄は、大日本帝国の無謀な戦争の果てに米軍の銃剣とブルドーザーの下に土地を奪われ、長く支配された。それは本土復帰後もほとんど不変だ。さらに、米軍兵士による少女暴行事件や数多くの犯罪にも遭ってきた。私が抱いた中国の覇権主義の影に対する漠然とした不安ではなく、現実問題として多くの実害を被ってきたのである。
 翁長新知事は、「沖縄の基地負担の現実を本土の皆も真剣に考えてほしい」と訴えた。だから本土でも負担すべきだ、と考えるのか、それとも、だからこそ沖縄だけでなく日本から米軍基地を無くすべきだと考えるのか、「沖縄からの手紙」に対する返事の書き方は、ここに決定的な違いが出てくるのだと思う。
 翁長新知事は「この問題は日本の民主主義にかかわる問題だ」とも言っている。返事は12月の総選挙で出そうと思う。

2014年11月6日木曜日

国宝の後のエビフライ

 最近、かなりの思いきりがないと朝からの外出が苦手になってきたが、来週も又、いろいろと用事があるので、今日は思い切って正倉院展に出掛けた。勿論、あの人に逢うためである。        会場に着いたのが12時少し前、丁度入場制限中であったが、それでも列に並んで、15分ほどで中に入れた。
 前のブログでも触れたが、中学の教科書に載っていた「鳥毛立女」が今、目の前にある国宝「鳥毛立女屏風」そのものであったかどうかは確信が持てない。もっと彩色があったように思うのだが、紅指す頬と、くっきりした眉毛以外は殆ど線描画のようである。それと今回、四扇面の出展で立ち姿は1面のみ、他は樹の株に腰かけており、記憶に残った「樹下美人像」といささか違い拍子抜けした感じである。それでもそのふくよかな姿はやはり魅力的である。
 それと今回、その美しい色形で魅了されたのが「鳥獣花背方鏡」(海獣葡萄鏡)であった。「日曜美術館」で紹介されていたがこの鏡の復元に何処かの大学教授が30年近く挑戦しているがそのシャープな線彫が再現できないでいる、という鏡だ。この写真はネットから取ったモノだが実物は、白銅製で、いま鋳あがったように白くきれいな色をしていた。
 約1時間、見学して会場を後にし次の目的の
エビフライ探しに公園内を歩いた。長谷やんから是非探すようにと、言われていたのである。前回はなかなか見つからなかったが今日は意外と簡単に見つけることが出来た。それも、登大路のすぐそばの松の木の下であった。意外と小さいもので一番下のモノが色合いがエビフライに近く、左のモノが尻尾がそれらしい。
 最後に帰り道きれいな紅葉を見つけ、写真を撮っていると、一人の女性が下を向いて何かを探しているので「エビフライですか?」と声をかけると、「??」という顔で「紅葉の落ち葉を探してます」と言って去っていった。変なおっさんが,変な事を言って来たな、思われたのかもしれない。長谷やん、エビフライ同好会の輪はそんなに広がってまへんで。



2014年11月2日日曜日

あの人に逢いに行こう

  今年の正倉院展の目玉は「鳥毛立女屏風」であろう、少なくとも私にとっては。というのも今をさかのぼる事、50数年前、私たちの中学校に新任の先生が来た。Y先生は歳の頃なら20代後半、頬がふっくらと赤く、眉毛が色濃く太く、少しおちょぼ口の女先生だった。
 当然、あだ名がつくのだが、パターンとしては、名前からくるモノ、風貌からくるモノ、兄や先輩から引き継いだモノ、等があるのが普通である。
 授業中、竹刀を持って歩き、間違うと頭を「コッン」とやられた数学のF田先生は、その苗字の後ろをとって「ダ―」であり、年配の英語の先生は、名前が「カネ」で「カネばば」(スミマセン、先輩からの引継ぎです)、理科の先生は、苗字が「青木」で丸い眼鏡をかけた風貌が大村崑ちゃんに似ていたことと、授業で習ったサツマイモを伝えた「青木昆陽」先生とのダブルネーミングで「崑」ちゃん、そしてその新任の女先生は「鳥毛立ち」だった。
 丁度、その頃の社会か、国語の教科書に載っていた「鳥毛立女屏風」(当時私たちは『鳥毛立樹下美人像』と習っていたように記憶しているが)の写真があまりにもそっくりだったからである。
 クラス全員、誰一人異議なく「鳥毛立ち」に決定し、そのネーミングに感動すら覚えたものだった。
 今朝の「日曜美術館」で「正倉院展」が取り上げられるので私はTVの前に古い中学校の卒業アルバムを用意し、「この人が鳥毛立ちゃ!」と嫁はんに見せたところ、「雰囲気あるなー」と賛同してくれた。中学生の時のあのネーミングの確かさと感動を50数年ぶりに確かめた。勿論、会期中に逢いに行くつもりである。