2015年3月22日日曜日

 毎月21日は大阪の高齢者運動の仲間や年金者組合の方々と四天王寺・一心寺への参道で宣伝行動を取組んでいる。
 今日は彼岸の中日、さすがに人出も多く、撒くビラもよく捌けていくが人出が多すぎて立ち止まって署名をしてくれる数は少ないようだ。
 約1時間の行動の後、いつもは神前をお借りしている「堀越神社」にお参りして帰るのだが、今日は新聞で知った四天王寺さんの「日想観」法要に参加するつもりで出てきたので昼食を済ませ、弘法市の出店のおいしいコーヒー屋さんでHOTをいただき、骨董市を覗きブラブラと時間をつぶした。
 夕方5時少し前に集合場所の極楽門の前の広場で待っていると若いお坊さんが現れ、「法要は5時20分ごろから始まり、お日さん(太陽)が西門の石の鳥居の
 上に懸る頃に終わります。写真はそれから撮っても間に合いますので勤行の間はどうかご一緒に、ご唱和お願いします」と懇切な説明があった。勤行が始まる頃には1~200人ほどの方が集まっていたようだ。
 「日想観」については和道おっさんのお話を待つとして、ここ四天王寺では日想観の法要は戦後途絶えていたらしく平成13年に復活したとの説明だった。           有難いお経や法話が終わり、いよいよ石の鳥居の上にお日さんが懸りだした。それまで眩しくて直視できなかったお日さんが鳥居の中に入ると急にギラギラが消え、何ともやさしい陽になってくる。法話の中の「昔の人は遮る物のない西の海の彼方、西方の極楽浄土を願ったのだろう」という話を思いだし、自然と手を合わせていた。周りの人たちもカメラを構えているのだが口々に「ほー」とか「あー」とかため息ともつかない感嘆の声を上げている。春と秋の彼岸の日に、この石の鳥居の中に日が沈むことは判っていても不思議な、有難い気持ちになるものだ。「今年のお日さんは格別に美しい」と誰かが呟いていた。柔らかい卵の黄身のような夕陽にお別れをして、日想観法要に参加し、修行した証のお札を頂いて帰路についた。今日も合掌。 


2015年3月21日土曜日

 写真の本は、かなり以前、古本屋で見つけたもので題名は「米朝ばなし-上方落語地図」という本である。
 最近大型書店で文庫本になっているのを見つけたが根強いファンがいるのだろう。
 著者はご存知、桂米朝さんで上方(この場合は近畿一円としている)の土地に因んだ落語を地名の由来などをまじえて紹介している。そもそも上方という言葉の意味を米朝さんは「上方という言葉は元来、京都が都であった頃のことですから、今日では東京が上方のはずですが」と解説している。しかし、長い歴史(京都が都であった)で今も京阪神を上方と呼んでいるのだろう。上方舞、上方歌舞伎、上方落語という呼び方もある。
 その上方落語を絶滅の危機(大げさではなく)から救ったのが米朝さんら上方落語の四天王と呼ばれた人たちであった。その米朝さんが今日亡くなった。
 私の記憶にある米朝さんは、落語家らしからぬスーツ姿でTV番組の中で小松左京氏や高田好胤師らと文化的な会話を交わしている姿であった。だから落語家として見だしたのは、上方落語が寄席芸からTV番組に登場するようになってからである。最近は高座に出る事もなく、TVでも見かけなくなっていたが、、、89歳、大往生であったらしい。
 さて、この本の中で私が一番好きな噺がある。「まめだ」という千日前の「三津寺」付近を舞台にした三田純市(落語作家・劇作家)さんの新作落語である。粗筋だけを書いて置く。
 三津寺付近に住む端役の役者が稽古を終え、年老いた母親が待つ家に帰る途中、さした傘が急に重くなることが二、三日続いた。タヌキの悪さ(悪戯)と気付いた男がトンボ(宙返り)を切ると、小さな「まめだ」(関西ではタヌキの小さいのをこう呼ぶ)が転げ落ち逃げ去っていった。
 そんな事があった後、老いた母親が家の店先で売る膏薬を小さな子どもが買いに来て、その日の売り上げの中に木の葉が混じる日が続いた。不思議なことがあるものだと思いつつ、数日が経った頃、早朝、三津寺の前で人が騒ぐので男と母親が見に行くと、体中に膏薬の貝殻をくっつけたまめだが死んでいた。それを見た男がすべて合点-トンボを切った時、転げ落ちて怪我をしたまめだが子どもに化け、銀杏の葉っぱで膏薬を買ったものの使い方(貝殻の中身の膏薬を出して塗る)がわからず貝殻のまま体に着けて死んでしまった。-した男はまめだを哀れに思い、和尚さんにお経をあげてもらう。線香の一本もあげ帰ろうとすると、サーッと秋風が吹き、寺の銀杏の葉っぱがまめだの死骸のまわりに吹き集った。
 それを見て男が「見てみ、タヌキの仲間からぎょうさん香典が届いたがな」というサゲである。   合掌。
 

2015年3月7日土曜日

時代劇は今、

  私たちの子供の頃、映画館の映画といえば「アラカン(嵐寛寿郎)の鞍馬天狗」が第1等の映画、チャンバラ映画だった。
 昭和30年代、実家の隣が「アイスキャンデー屋」さんで、近くの映画館にアイスを卸していた。で、そのおっちゃんに付いていき、映画をタダで見せて貰うことが出来た。そう何時もゞもタダ、という訳にはいかないがタイミングが合えば潜り込めたのだ。
 その頃の映画館は、週替わりの3本立て興行で、小さな町でも映画館は2~3館はあった。当然、封切館ではなく、同じフイルムをその2~3館で使い回しするのだ。上映が終わったフイルムを次の映画館に運ぶお兄ちゃんがおり、丸いブリキ缶に収めたフイルムを自転車の荷台にくくり付け、急いで運ぶ姿を見かけたものだ。たまに、前の映画館でトラブルがあると次の映画館ではフイルムの到着が遅れ観客の文句が出ることになる。
 また、映写機の調子が悪いとスクリーンに「コマ」がダブって映り、これもまた観客から「二階建てになってるで~」と映写室に文句が飛ぶ。
 そんな子供たちの楽しみだった時代劇のチャンバラ映画も家にテレビが買えるようになると映画館に通う回数も減り、子供たちの憧れの的は、「アラカン」からテレビの「ララミー牧場」や「ローハイド」の西部劇のカウボーイに移っていった。そんな子供たち、つまり私が大人になり、西部劇に飽きだした頃、映画やテレビに面白い時代劇が復活しだした。
 「七人の侍」で名声を確立していた黒澤監督が「用心棒」「椿三十郎」で時代劇の面白さを再認識させてくれ、最近では山田洋次監督が「たそがれ清兵衛」で藤沢周平・時代小説の世界を見事に映像化してくれた。
 小説の世界でも宇江佐真理、宮部みゆき、北原亜以子ら女流作家が時代小説のブームを興した。その北原亜以子の「深川澪通り」シリーズが、NHK木曜時代劇「とおりゃんせ」としてドラマ化され江戸庶民の暮らしと小さな事件を丁寧に描いた。そんな時代小説のブーム、かっての吉川英治や五味康祐以来の火付け役となったのが池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズだろう。
 「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らないうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識(し)らずに善事をたのしむ。」と平蔵が洩らす言葉に昔の勧善懲悪のチャンバラには無い池波ワールドにはまった。  そして「鬼平」をテレビドラマ化したシリーズが始まり、これも欠かさず見ることになった。画面の中で平蔵や密偵たちが生き生きと活躍する姿もさることながら、一話の中に必ず出てくる「食べ物の場面」も楽しみのひとつだった。で、この写真の徳利である。
 「どこかで見たような、、、」と思われた人はかなりの「鬼平」通である。この徳利こそ鬼平や密偵たちが足しげく通う軍鶏鍋屋「五鐵」で使われていた徳利である。すっきりした姿が気に入り、あちこちの骨董市で探し回ったがどうしても見つからなかった。
 それがどうして我が家の食卓にあるか?。快く譲ってくださった方に迷惑がかかるといけないので入手経路は明かされないが正真正銘「五鐵」で平蔵や密偵のおまさが手にしていた徳利である。(と私は確信している)最近はこの徳利を肴にして「鬼平」になったつもりで晩酌を楽しんでいる。
 有難すぎて使えない、、、眺めるだけである。