2016年5月16日月曜日

廃刊ではなく終刊-美学な幕切れ

  11月のブログで紹介した季刊「上方芸能」の終刊号が届いた。
 昨年11月の大阪ダブル選挙の最中に、大阪の文化の護り手である「上方芸能」が終刊するとの報道があり、私はその衝撃をブログに書いた。(2015・11・21『大阪の都市格を上げるためにも』)
 そのブログの記事の中で、発行人である木津川さんが述べられた終刊の理由の一つを「経費の償はざること」とされているのを読んで「何とかならぬのか」という趣旨の繰言を書いた。
 というのも2012年に文化を金儲け主義の下に置く低俗な地方統治者により文楽への補助金カットという異常事態が生じた。この時「上方芸能」編集部は「文楽を守れ!」の熱血特集を組んだ。
 かのドナルド・キーン氏からは「文楽が生を受けて見事な花を咲かせた大阪で、もし死に絶えるのなら、大阪の政治家の蛮行を世界は決して許さず、また忘れる事もないでしょう」とメッセージを寄せ、総勢132氏から熱いメッセージが寄せられた。この特集は確実に世論の喚起と賛同を得たし、文楽を守れ!の思いに多くの観衆を結集させたことは間違いないだろう。
 その「上方芸能」が「経費の償はざること」という事態に陥っているときに我々が拱手傍観していていいのか?という思いに駆られたからである。
 しかし、木津川さんは経済的理由だけにその責を求めず、「与謝野鉄幹が「明星」を100号で突如終刊したこと、そのとき鉄幹35歳、私は齢80歳になり、年をとりすぎました。時代の変化についていき難くなりました。」と述べられ、廃刊ではなく、終刊という言葉で見事な幕切れの美学を示されたのである。
 「上方芸能」という雑誌は終刊となったが、上方芸能という実体はこれからも行き続けていくだろうし、そうなってほしいと切に願う。幸い木津川さんも「一人語り劇場」は続けられるとの事だし、編集部の皆さんの熱意で再刊も夢ではないと信じている。
 さて、その終刊号だが、実は198号で終刊の予告がされる前に定期購読者の私は年間分をすでに振り込んでいた。編集部からは終刊するに際し、「200号以降の年間購読料をお支払いの方々には誌代を切手でお返しします」との丁寧な連絡があり、私は余剰の誌代は今後の維持基金にして下さいと返事した。そうしたら木津川さんから「このたびは、『上方芸能』の存続のためのご芳志を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。」との文書の末に「あと1号です。400字メッセージをぜひおよせください。」との直筆のメッセージが届いた。199号でも「終刊号は読者、執筆者、応援して下さった全ての皆様によるメッセージ「さようなら『上方芸能』で全誌面を構成します」とあった。
 敬愛する木津川さんからの直のお頼みならばと我が身を顧みず拙文を11月のブログのコピーと共に編集部に送付した。そして先日届いた終刊号を開いて驚いた。
 確かに全誌面、さようならのメッセージで埋め尽くされている。その数449人、目次にはメッセージを寄せた方々の名前が載っており、私の名前もあった。そしてそのお名前を見てさらに驚いた。そのほとんどが新聞紙上やマスコミ報道でよく見聞する方々であった。私の驚愕ぶりを実証する為にも恐れ多いが少し紹介しておく。
 作家の難波利三、有栖川有栖、玉岡かおる、眉村卓、放送・落語作家の新野新、池田幾三、わかぎゑふ、織田正吉、また「霊感を科学する」を連載されてきた安斎育郎、そして芸能界から五世井上八千代、片山九郎右衛門、そして人間国宝の竹本住大夫、そしてそして、山田洋次監督(いずれも敬称略)という錚々たる方々がメッセージを寄せておられる。
 そんな方々と同じ誌面に私の拙文が載っている。449人のメッセージを読む前に、正直、後悔した。いくら木津川さんの直筆の頼みとはいえ、心安い知り合い(この時点で既に舞い上がり勘違いをしていた)かのようにメッセージを送った事をである。そんな後悔の念を飲み下しながら各氏のメッセージを読み進めている内に、皆さんがいかに「上方芸能」を愛されていたか、終刊をどれほど残念がっておられるのか、という事がひしひしと伝わってきた。
 メッセージ募集の際、「400字程度、別にお肩書、ご略歴、をお書き添えください」とあったので「怒れる年金生活者、永年国の機関で勤務」とした。そんな一般読者の拙文を人間国宝や山田監督と同じ誌面に載せるという木津川さんや編集部の気持ちを様々に考えたが「上方芸能」を愛してきた事、その終刊を惜しみ、怒りにも似た惜別の気持ちには何ら変わりはなく、等しく同じなのだという事に気づいた。あらためて「上方芸能」ありがとう!そしてご苦労様でした。
                ー「終刊号」は私の一生の宝物になったー



わが家の宝物 加藤義明氏のきり絵

2016年5月11日水曜日

旬の味・母の味

 前回のブログ更新以降、囲碁大会の準備に、手も頭も取られてしまっていたがyamashirodayoriを見ていてムラムラと食欲がわいてきた。
 食欲とブログ更新と何の関係が、と思われるかも知れないが、人間ひとつの事に集中していると他の事が疎かになる様である。食欲もしかり、一人分の夕食の準備はついついレトルトやコンビニ弁当に頼ってしまうことになる。
 その囲碁大会も無事終わり、周囲を見渡すと新緑である。青くみずみずしい野菜が出盛っている。yamashirodayoriにコメントしたが新鮮なえんどう豆を「緑の申し子のよう」と評したのは土井勝(優しい語り口で料理番組の草分けであった)さんである。
 嫁はんが花嫁修業で「土井勝料理教室」に通っていたらしい。"らしい„という言い方は決して嫁はんが作る料理が不味い、という事ではない。美味しい方だと思う。ただ独身時代-自炊が長かった私の腕もなかなかのモノだと思っているからである。その嫁はんの嫁入り道具の一つとして持ってきたのが土井さんの名著「おふくろの味」という本である。
 「おふくろの味」とある様に、土井さんのお母さんが作られた家庭料理を中心に、旬の味、おそうざいの味、などの作り方がきれいな写真入りで載っていて思わず「私も作って、食べたい!」と思わせる名著である。(この「私も作って」と思わせるところが大事なところで昨今の写真だけの料理本にはないところ。)
 そしてこの本の素晴らしいところは、土井さんが書く料理や食材に関するエッセイにある。これからが旬の「そら豆」の項にこんな事が書いてある。「私は八歳で小学二年生だった。~五月の瀬戸内海の潮風はひんやりして、興奮気味の少年にはそれがむしろ心地よかった。~『まさる!行っておいで』五月の半ばになると高松の叔父から手紙が来る。何日がいいよ、という電報のような文面だったらしい。~高松の家の畑のそら豆が食べ頃になる。そら豆は“三日の旬„といわれる。~この時のそら豆の味は、母からもらった休暇の三日間だけ、少年を充分に堪能させてくれたようである。」土井さんのお母さんはごく普通の家庭の主婦、お母さんであったようだが旬の味を味わさせるため、わざわざ学校を休ませ、少年を旅立させたのである。
 我が子に美味しいものを食べさせたい、この想いがある限り昨今のような子どもの虐待など起こりようもないと思うのだが、、、話は少し大層になってきた。今夜は手を抜かず、莢付のそら豆を買ってきて食べようと思う。
 
 蛇足:今テレビで流行りの「プレバト」に出演している料理の盛り付けの
     先生、土井善晴さんは土井さんの二男である。