2017年6月27日火曜日

自然保護と政治(少し安易なタイトルだが)



 久しぶりに一気に一冊の本を読んだ。
 著者は「天野礼子」さん、かって「長良川河口堰反対」運動で名を馳せた女史だ。
 かって、と書いたが「長良川河口堰」がその後どうなったのかはもう一つ判然としない。
 この本では、河口堰反対運動の結果、建設省(現・国土交通省)が昭和39年以来の大改訂(公共事業コントロール法案=河川法の)を行った、という結論になっている。
 ただしそれだけの本ではなく、天野さんが運動に入っていくきっかけから、川と森との関係を見据えた世界の運動の実際を学び、アメリカ最大のダムの運用部長から「あと5年で君は日本のダムを止める」と予言され、それが現実になりつつあるとの確信を持つに至るまでの運動の詳細が書かれている。
 
 その中で明らかにされているのが運動と政党の複雑に絡み合った動きである。自民党から細川連立内閣、社会党の建設大臣、その後の亀井建設大臣、また自治労と連合などが入れ代わり立ち代わり登場し、運動が政党と行政の思惑の中で翻弄されて行く場面は詳細で醜悪だ。
 そんな政治に翻弄されながらも「自然保護」、「日本にまともな川を残したい」という彼女の願いと活動は今も続いており、本の題名のように「川が森をつくっている事実」を証明する活動を続けている。
 
 実は私は天野さんがこのような運動に関わっていく前から見知っていた。といってもテレビの中での事だが。
 若い彼女がNHKの釣り番組で和歌山の雑賀崎で紀州釣りの名人の妙技をレポートしたり、徳島の阿波釣法をレポートしているのを見ていた。
 彼女は当時珍しい女性の渓流釣り師をめざし、その中で有名な「ノータリン・クラブ」で今西錦司氏やその繫がりで文学の師である開高健氏ともめぐり合っていく。
 
 いま彼女は63歳、この本で知ったが脳に奇病を持ち、何度も死にそうな目に遭いながら今も「行動する人」として健在のようだ。
 久しぶりに爽やかな読後感の残る本だった。私も昔を思い出しチヌ竿を引っ張り出したが、しかし、もうテトラの上を歩く勇気はない。

2017年6月21日水曜日

見守り(ゆるやか介護)の日々

  今日、義父の3回目のMRI検査があり、付き添った嫁はんの話によると、「新たな出血も見られないし、良好ですよ」と診断していただいたようである。
 だが家で介護している者としては、劇的な回復の兆候はないのか、などとつい欲が出てしまう。
 尿道カテーテルも未だに本人には装着の自覚がなく、頻尿の回数も良くなったり、悪くなったりと変化はない。
 でも担当の脳外科のドクターは「尿意があるのは良いことですよ」と明るい顔で応えてくれるらしい。そういうものか、と納得している。
 
 昨日は、通っているデイ・サービスの施設であった誕生日会の様子を手作りのアルバムにしたものを貰って帰ってきた。センターでの様子が何枚もの写真で飾られており、施設のスタッフの添え書きには「英語で『My Old Kentucky Home』(懐かしきケンタッキーの我が家)を歌ってくださいました!カッコよかった。」とあった。
 誕生日会でのことなのか、写真の日付の時のことなのか分からない。もし、6月の誕生日会のことであるなら嬉しいのだが。
 
 そういえば3年程前の新年会で突如「ひとつ歌うか」と英語で「ワルチング・マチルダ」を歌いだした。私がすぐに「それワルチング・マチルダですね」と云うと、「え、知ってるか?」と驚いた顔で聞き返した。
 「戦争中の歌でな、オーストラリア兵(捕虜兵?)が歌っとった」と云い、戦後生まれの私が何故知っているのか不思議だという顔だった。
 私が映画「渚にて」で使われ当時かなり流行った歌だと答えると、「へ~そうやったんか」と意外な結びつきを喜んでくれた。
 終戦をビルマからシンガポールへの転戦で迎えた義父は「イギリス兵は紳士だった、オーストラリア兵は乱暴だった」とよく言っていた。
 

 最近の家での様子は、こちらが積極的に話しかけないと会話もない。この絵も施設で書いたもので字も絵の輪郭線もスタッフの手が入っている。
 自発的な面が少なくなっているように思われて私も内心少し落ち込んでいる。
 
 いつかまだ歌ってもらってない「マイオールドケンタッキーホーム」を聞かせてくれるだろうかと思っている。

2017年6月8日木曜日

裸の王様の家系


 NHKの国会中継は与党や維新の政権ヨイショ場面が多い審議初日の中継ばかりなのでインターネットの「衆議院・参議院インターネット審議中継」をよく見る。
 そんな中継画面で最近気になることがある。一般新聞も時々批判的に描いているが安倍首相の答弁姿勢が、あまりに幼稚で、あまりに乱暴で、そして自分勝手であるということだ。
 その最たるものが、答弁の際に常套句の様に使う、「ヤジは止めてくださいよ」という発言だ。
 質問に真面目に応えようとせず、関係ない事を延々と並べているくせに、質問者が「関係ない!」と糺すと待ってましたとばかりに「ヤジは止めてください!」「貴重な(審議)時間が(ヤジで)無駄になる!」「真面目に答弁しようとしてるのに!」と閣僚席での自分のヤジは棚に上げて論う。
 挙句には中継テレビに向かって「国民の皆さん、(野党は)こうやってね、私が答弁しようとするとヤジで妨害するんですよ」と哀れっぽい顔で訴える始末だ。

 私はこの安倍首相の態度に哀れみすら感じる。
 「国民の皆さん、、、」と訴えているテレビカメラの後ろには、安倍一強に胡坐をかき、国家行政を私物化する安倍政権を冷ややかに見、徐々に離れていっている国民がいることが見えず、裸の王様になりつつある自分がわからないのだろう。
 
 かって佐藤栄作首相が退任の記者会見で「僕は偏向的な新聞は大嫌いなんだ!テレビだけに話す」と言って新聞(社)を締め出し、空っぽの会見場でNHKテレビカメラに向かって孤独に退任の弁を述べるという事があった。
 この時、内閣記者会は毅然と会場を出て、夕刊に「突如激高・記者ゼロ」と批判記事を書いた。
 果たして今のマスコミにそれだけの気概があるだろうか、読売新聞のように前事務次官の個人攻撃的なリーク記事を載せるところもある。
 ここは腰の引けたマスコミの背中をドンと押す国民の声を届けようではないか!野党の質問(声)は国民の声である事を安倍独裁政権に知らしめよう!
 

2017年6月7日水曜日

見守り(ゆるやか介護)の日々

 今日、6月6日は義父の98才の誕生日だった。
 見守り(介護)に行った際、お昼ご飯を食べ終わると、いつもは「ちょっと横になる」と云って、ベッドに戻るのだが今日は珍しく新聞を見ているのでちょっと思いついて「今日はなん日ですか?」と訊いてみた。
 「八日かな~」と云うので新聞の日付欄を指し、「6月6日やで、という事は?という事は?」と二回訊くとやっと「わしの誕生日か」と応えてくれた。
 「そうやで、98才になったんやで、オメデトウ!」と云うと「98(歳)になったか、そうか」と呟いた。
 そこで再度思いついてホワイトボードに98歳になって思うことは何ですか?と聞いて(書いて)みた。(義父は高度の難聴で普段からホワイトボードを使っている)
 すると少し考えてから何の澱みもなく「長生きするのも現状で十分」と書いてくれた。長生きして、これ以上望むものはない、という意味かと思ったが敢えて詳しいことは訊かなかった。
 
 木彫教室から帰ってきた嫁はんに「これこれやで、これからは『一日一言』で何か書いてもらったら?」と云うと、「へ~そうなん」とあまり驚きもしない反応だった。
 この反応は?と思ったが、そう云えば最近嫁はんが「貴方(あんた)の時の(介護)反応が私の時とは違う」と拗ねたように言う事がある。嫁はんにすれば毎日の(介護)ことで手いっぱいなのかもしれないと、少し得意げに話したことを後悔した。
 
 そんな事もあったがお持ち帰りのにぎり寿司とノンアルコールビールでささやかに乾杯した。義父はコップ2杯を飲み、寿司6個を食べ嫁はんからのお誕生日プレゼントのハンチング帽をかぶり嬉しそうに笑った。
 
 家に帰ってから長谷やんのアドバイス「リードは直接の子より義理の子がリードした方が」というのを思い出した。
 
    やっぱり介護はしんどい、けど、ちょっと楽しい。

2017年6月3日土曜日

見守り(ゆるやか介護)の日々


  義父が緊急入院、そして退院してから初めての脳外科の再診があった。
  4月の12日、朝から食欲もなく、頭が痛い、という義父の様子がおかしいと思い掛かりつけの内科医に往診を頼み診ていただいたが手指の痺れもなく、言語もしっかりしているがちょっと気になるのでM市民病院の緊急外来へ紹介状を書いてあげる、という事になった。
 実は義父は、その45日前に頭を打ったというのでその先生に診てもらっていたのだが心配ないだろうという事だった。で嫁はんは11日から友達と約束していた韓国旅行に出かけていたのだ。
 
 紹介状を見たドクターはすぐ「CTを撮りましょう」と云った。
その結果、脳内に血腫があるから詳しく調べるため入院しMRIを撮りますという事になった。MRI画像を前にして脳外科のドクターは「外傷性の内出血であり、脳血管からの出血ではない事、出血部位と血腫による浮腫が脳幹部から遠位にあり症状が軽くて済んだこと、外科手術は無く血腫の吸収を待つしかない」というものでドクターはMRI画像を見ながら「超高齢の患者さんの脳血管像としてはクリアですな~」と驚いておられた。
 
 ドクターの診断結果を聞き、入院の手続きの説明を受けながらも私の頭の中は嫁はんに電話するかどうかを迷っていた。最悪の事態はないものの帰国するまであと2日、黙っておく訳にもいかず、電話した。嫁はんも驚いていたが早速現地代理店に頼んでみるという事にして電話を切り、嵐のような1日が終わった。
 
 そして先日の再診のCTの結果は脳内にあった血腫はほぼ吸収されており、問診にもほぼ正常な受け答えで、入院時治療にあたってくれたドクターも「よかったね」と喜んでくれていたらしい。ただCT画像に「(老人性)脳アミロイド血管症」が診られる、これは加齢から来るもので根本的な改善は難しい、といわれたようだ。「今の身体状況から投薬は可能だから出しておきます。」と98歳という年齢からやや気休めのような投薬治療なのだろう。
 
 M市民病院のこのドクターに私は信頼を置いていた。入院時に見せた義父のせん妄状態に驚く私に対し、冷静に説明して安心させてくれた時、退院を前にしての自宅介護の心構えなど専任の看護師と共にいろいろと教えてくれた。
 そして何より驚いた、というか感動したのは見舞いに行ったとき、そのドクターが義父のお茶のステンレスボトルを手に持って病室に入って来て「お茶が飲みたいと云うので汲んできました」と手渡してくれたことだ。
 家に帰って嫁はんと「軽い先生やな~、けどエエ先生やな~」と感謝した。だから今回も気休めかもしれないと思いながら(当方の勝手な思いだが)投薬をしてくれたこと、退院に際し「本人にとって退院し自宅に、が一番です。病院に居てもろくな事がない」という驚きの言葉も納得して聞いた。
 
 退院してからの義父は、前立腺肥大の影響からの頻尿と便秘に悩んでいる。というか尿道カテーテルを入れており昼間は3~4時間ごとに採尿するのだが、だからトイレに行かずともいいのだという認識がないのだ。だから夜寝ている間は尿パックをと用意してもひどい時は10分ごとにトイレに立つので初めは嫁はんも眠れなかったようだ。
 
 今もそんなに良くなった訳ではないが嫁はんにも割り切るように言っている。その代わり、その反動は私が引き受けている。嫁はんのストレス過重にならないようにと、これまで続けていた月2回の木彫教室とお絵描き仲間の集りの時は昼間、私が介護に行っている。でも介護というより「見守り」のようなもので慣れれば楽なものである。この状態が続けばいずれショートステイなどにも行ってもらい、夫婦二人の旅行も可能となるのではと思っている。

    こんな絵が描ける程度まで回復してくれるのが目標だ。