2012年12月31日月曜日

来年に懸ける!

師走選挙で忙しかった今年もあと2日で暮れようとしている。「大阪三六五日事典」に面白い事が書いてある。

【空前の棄権・昭和4年12月30日】この選挙の投票率はなんと18%だった。こんな背景があったらしい。これより前の総選挙で大阪第4区から出て当選した某代議士が選挙違反で有罪となり、当然次点の者が繰り上げとなる処、死亡欠員が出ていたために二人目の繰り上げはきかない。仕方なく再選挙となってしまった。投票日が暮れのギリギリ30日、更に拍子の悪い事に不景気風の真っ只中と悪条件が重なり「選挙どころやおまへん」と驚きの投票率となってしまったと云う事らしい。
 そして今回の総選挙の投票率が戦後最低の59,32%であった。選挙前には、東日本大震災後の復興をどうするか、原発再稼働問題、そして消費税の増税について国民の信を問うと解散した挙句の選挙だったはず。しかし選挙期間中の自民党のフレーズは「ニッポンを取り戻す」だった。
 そして自民党の圧勝!選挙中、あれだけ「政権の枠組み」と「議席予想」に血道をあげ誘導報道をしてきた大手マスメディアの責任は大きい。何も支持した政党が後退したから言っているのではない。そもそも自民党は今回の総選挙で割の得票で割の議席を得た。言わずと知れた小選挙区制のおかげである。この小選挙区制成立に手を貸したのが大手新聞社であった事は周知の事実(第8次選挙制度審議会メンバーだったが自らは報道しないだけ)である。
 原発再稼働反対!消費税増税反対!全沖縄米軍基地撤去!等々多くの国民の民意を葬り、その上に膨大な「死票の山」を築き上げ、成立した「自公」内閣に未来はないと思う、いや国民がそれを許さないだろう。来年に懸けたい!皆さんよいお年を。

2012年12月29日土曜日

イヨッ、「成駒屋」!

 東京の歌舞伎役者(今は俳優と呼ぶが)十八代目中村勘三郎が57歳という若さで亡くなり、お別れの会が盛大に行われたとテレビのワイドショーが報じていた。画面では、ご遺族が遺骨を胸に思い出の浅草を訪れると、「三社の神輿」が出迎えた。江戸っ子というのは、粋(関東ではイキ、関西では″すい″と呼ぶ)な事をするもんだ。私は勘三郎の舞台を直に観たことはないがニューヨーク公園や平成中村座など歌舞伎の人気を大いに高めた人である。これから、という時にあの世に旅立った。父である十七世勘三郎から引き継いだ「俊寛」はぜひ観たかったが。
 歌舞伎と云えば私の先輩の息子さんが中村雁治郎(現・坂田藤十郎)門下の弟子になられ、、毎年夏の国立文楽劇場での公演を何回か観に行った事がある。若手の勉強会という事もあって、気楽に観賞できる良い会であった。その関西(上方)歌舞伎も文楽と同様、長らく低迷を続けてきた。私見ながら「松竹」という会社の経営姿勢に問題があった様に思うが、それは別にして上方歌舞伎は江戸歌舞伎の「荒事」に対し「和事」という柔らかな所作事が特徴の芸である。その代表が一連の近松の「心中物」ではないだろうか。中でも、初代・雁治郎の「心中天の網島」の「紙治」-紙屋治兵衛は当たり役であったらしい。
その芸は、二代目、そして当代、藤十郎に引き継がれていく。写真の「紙治」は初代か二代目かは分からないがいわゆるブロマイドとして売られていたものだろう。人気の高さがわかる。
 その関西歌舞伎も戦後、低迷を続け、有望な役者は関東に移り、二代目雁治郎も息子の扇雀とともに上方歌舞伎を去り、映画やテレビに活躍の場を見つけた。旅役者を描いた「浮草」や「鍵」などの谷崎文学作品にはなくてはならない俳優となった。晩年、東京歌舞伎に加わり、上方歌舞伎の和事芸を魅せて人間国宝にもなったが遂に上方には帰ってこなかった。同様に大映のスターとなった市川雷蔵も関西歌舞伎から映画界に転進した一人である。映画での活躍に松竹は大いに慌てたと云うが脇役役者の子としか見なかった会社の俳優育成の拙さがもたらした結果だった。市川雷蔵についてはもっと書きたい事があるのだがまた別の機会に。
 さて、上方芸能の代表である文楽と歌舞伎であるが、文楽は「誰かさん」に貶されようが、東京公演はあるものの、何といっても関西、浪花の文化である。国立文楽劇場を拠点に頑張って復活の兆しも見え始めている。しかし、上方歌舞伎は残念ながら大阪の地での一本興行は難しいようだ。その原因は、大阪に歌舞伎専門の劇場が無い事ではないかと私は思う。関東での歌舞伎の今日の隆盛の一因は「歌舞伎座」という専用劇場があってのものではないだろうか。大阪にも昔、「新歌舞伎座」という名の劇場はあった。こけら落とし公演だけは歌舞伎を公演したが、経営者側は歌舞伎専用とは考えていなかったようで、その後は、杉良太郎座長公演など歌舞伎以外での公演のみとなり遂には閉館となってしまった。辛うじて「大阪松竹座」が年数回の歌舞伎公演を行っているが、、、。身近な例として、「天満天神繁盛亭」の成功がある。上方落語四天王の奮闘で今日の復活を遂げた上方落語界だが、これまで、所謂「落語専門の定席」が無かった。繁盛亭の成功で復活なった上方落語の定着が見られるという。歌舞伎の場合、その舞台装置や関係者数など、そう簡単に劇場が見つかる訳ではないだろうが、坂田藤十郎、片岡仁左衛門という名優が健在な内に、再びの隆盛を願うものである。
 
  「頬かむりの中に日本一の顔」
    初代・中村雁治郎の「紙治」を評して大阪の川柳作家・岸本水府が詠んだ句である。

2012年12月10日月曜日

冬の星座

冬の大三角
 今朝のラジオで「冬の星座」を聞いた。小学生の頃、この歌の歌詞はとても難解で、といっても姉からの口移しで覚えたのだが、何回(ダジャレです)聞いても理解不能で「ものみないこえる」なんて訳が分からないまま、姉のリクエストに応えよく歌った事を覚えている。その他にも「くすしきひかり」や「むきゅうをゆびさす」など、意味不明の歌詞が連なっていたが何故かしらこのメロディーが好きでよく歌った。特に2番の歌詞にある「オリオン舞い立ちスバルはさざめく」などは子供にも何となく理解できた。今なら谷村新司の「昴」に匹敵する歌詞だと思う。
 そんな「冬の星座」だが、中学生の終わり頃、兄の影響で「C&W](カントリーウェスタンソング)が好きになり、ドーナツ盤(レコードの一種です)で聞いた曲に「モリーダーリン」という曲があり、そのメロディーが「冬の星座」そのものだったので驚いた。原曲は題名通り、モリーという女性に「僕以外の男を愛さないでくれ」と切々と歌う「ラブソング」である。小学生が直立不動で歌う歌ではないように思うが、それ以来、私の「C&W」好きは今も続いている。
 先日も堺の老舗甘納豆屋に言った時の事。和菓子屋さんには似合わない「C&W」が流れている。店の女性に訊くと「私、大好きなんです。嫁いできて最初は遠慮してたんですが、最近は(厚かましくなって)店に立っている間はずーっと流しています」と、すっかり話が弾んだ。「C&W」の話になるときりがないので、「冬の星座」に戻す。この難解な歌詞も現代の文明の利器、インターネットで探せば解説付きで出てくる。訳詞者は堀内敬三氏、この人はのど飴で有名な「浅田飴」の創業者の子息だそうです。アメリカ留学の際、音楽と出合い、さまざまな楽譜を持ち帰り、すぐれた訳詞を手がけた。有名なドボルザークの「新世界」の第2楽章「遠き山に日は落ちて」も氏の訳詞、というよりも見事な作詞と言える作品です。「今日のわざをなし終えて」や「いざや楽しきまどいせん」などのくだりは、キャンプファイヤーの定番で、いまでもスラスラと出てくる。
 ここ数日、見事に冴えた冬空が広がっている。今月12日ごろには「ふたご座流星群」が見れるらしい。そして16日には、我々の「ひとつ星」が光り輝きますように。
「モリーダーリン」を歌ったエディーアーノルド

2012年12月7日金曜日

AKB48総選挙と総選挙


  全く興味がないので「AKB48」なるアイドルグループの事は知らないが「AKB48選抜総選挙」なるシステムを考え出した人は凄い人だと思う。この選抜総選挙というシステム、実は100人近いアイドルたちの中からCDシングルに参加する選抜メンバーをファンによる投票で決定する仕組みで、テレビなどのメディアを利用し、投票をイベントとして、プロデュースし、多くの若者を動員する。アイドルの数だけ、ファンも生まれる(1位当選者は10万票を超える)という仕組みは、若者の掌握の仕方としては巧みである。 
 さて、こちらは本家の総選挙である。アイドル並みに何百という訳にはいかないが、それでも浮動票(ファン)を当て込んで沢山の新党が乱立した。先日、ある集会で大学教授が「単一民族国家の日本でこれだけの数の政党が乱立するのはおかしい」と述べられた。
 日本が単一民族国家(正確な)であるかについてはさておき、多民族国家に生じる宗教的対立や人種対立が殆どない、事は確かである。その日本で何を当て込んだか、かくも新党が乱立することは確かにおかしいように思う。そして、新党乱立をあたかも第3極の様に過剰報道するマスメディア(かって2大政党を持ち上げておきながら)もおかしい。
 私にはAKB48の顔を見分けることは出来ないが、選挙権(AKB風に云えば投票権)を得て40数年を経た私の眼には乱立新党の違いは見分けがつかない。「脱原発」の達成年限の違い位しかない様に思う。結局は、古い自民党型政治の枠の中の新党乱立ということではないのか。
 そんな中で、たった「ひとつ」その枠に入らない政党がある。その政党を指して哲学者の鶴見俊輔氏は「北極星のような存在だ」と言った。戦中、戦後、一貫して戦争反対を貫き通した政党、そのぶれない姿勢を、天空の一点を守る北極星になぞらえたと云う事であろう。北極星の異名は「ひとつ星」もっと、もっと、光り輝いて欲しい。                                                                                        

2012年11月24日土曜日

冬支度が二つ

箕面の紅葉の様子を定点観測している某有名料亭の屋根の上の紅葉。今年は全国的に紅葉が綺麗、という前評判通りに例年以上の美しさである。この場所は、滝道に入ってすぐのところで、私がいつも栗を買うお店のすぐ先にある。今年は11月に入ってから干し柿用の柿を買いに行ったついでに観測してきた。「よし、近々、あちこちに紅葉狩りを」と思っていたら突如、解散、総選挙になってしまった。
 それでなくとも忙しい年の暮れに向かう時期の師走選挙。遠出は無理か、ならば、万博、箕面と考えている内に、見頃は過ぎていく。一昨日の22日は、旧暦の10月9日、「小雪」でした。陽射しは弱まり、木々の葉は落ち、平地にも初雪が舞う頃、とある。冬支度の前に「一仕事」が二つも出来てしまった。勿論一つは、干し柿作りである。

2012年11月17日土曜日

プチ、贅沢


月末に行う退職者の会「歴史探訪合同ハイキング」の下見で堺に行った。ボランティアガイドさんの作ってくれた行程は、わりと有名なコースではあるが、あらためて感じたことは、寺の多さである。有名な「妙国寺」に至る町中を歩いてみると、軒を連ねる、という感じでお寺が並んでいる。この辺も見どころになるかもしれない。
 と、ま~あ、これは当日のお楽しみにして、下見を終え、お昼は「ちく満」のあったかいお蕎麦を食べた。ご存じの事だろうが、(みんな知っていると思い込んでいる方がおかしいか)ここの蕎麦は茹でたての熱いそばを、火傷しそうなアツアツの御つゆに、ざる蕎麦の様に浸けてでいただく。関東の蕎麦好きが見たら腰を抜かすかもしれないが、昔、友に連れて行ってもらって以来、執着している。そして、この写真の突き出しである。中味は、蕎麦つゆを採った残りの鰹節とネギと山葵、これだけであるが若い頃は、これで熱燗を飲んで少し粋な大人になった様な気になったものである。昼間から、贅沢な、と言われるかもしれないが、たまには良いのでは、二千円足らずで至福の時間が味わえるのだから。
*熱い蕎麦の解説をしていて、思いついたが、これって、当世流行りの「つけ麺」の原型ではないか!確信。

2012年11月6日火曜日

耳で観る文化

 義姉から切符を貰ったので二人で「文楽」を観てきた。(11月5日)11月公演は「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言(第1部)。      当日、朝10時半からの「大序・兜改めの段」に始まり、「六段目・勘平腹切りの段」午後4時すぎまで、の長丁場だった。昔から、テレビ・演劇界では「困った時の忠臣蔵」、と云われるほど国民的人気の外題である。映画ならばいくら長いと云っても2~3時間であるが通し狂言となると、私が見た1部と夜の2部合わせて約11時間(昼夜休憩を入れて)さすがに余程の文楽好きでないと、と思って来たが、10時の開場時間には満員の人が。以前のブログで、私が「文楽友の会」に入会しようと思った経緯を書いたが、橋下市長の「文楽」攻撃から最近の補助金支給決定まで、一連の騒動の「波及効果か?」と言われてきた盛り上がりだったが、この人気は、もしや本物、と思わせる程の入りだった。たった1日の観客層を見て判断できるモノでもないだろうが、「橋下騒動」とは無関係の新たな文楽好きが増えてきているのは間違いないのではと思う。橋下市長は補助金支給決定後も未練たらしく劇団四季の「ライオンキング」を観賞してその盛況ぶりを文楽にあてこすりしているらしいが、この話はまた何れ別の機会に譲るとして、当日は、人間国宝の鶴澤寛治、鶴澤清治(三味線)や竹本源大夫(人間国宝・当日は途中交代するハプニングがあったが)や豊竹咲太夫ら名人・上手を目の前で、間近に観られ文楽初心者の私にもその迫力が伝わった。舞台でも主役の人形遣いはもちろん、「(その他)大ぜい」と記される端役の人形遣いの人々の細かい動きも見事なものだったが、やはり文楽の魅力は「浄瑠璃」の魅力に尽きるように思う。「耳で観る」文化だと思う。浄瑠璃、三味線、そして人形、三位一体の芸術はすでに完成されている。これを守り、伝えるのが文楽技芸員の仕事。「観客動員が少ない、儲からない、」は観る我々の側の問題であり、責任だともいえる。(感動さめやらぬ中で記したので乱文なり)



右のきり絵は、故加藤義明氏の作品で我が家の宝物です。       

2012年11月2日金曜日

現場かテレビか

30日、たまたま招待券を貰ったので「正倉院展」に出かけた。友のアドバイス通り、火曜日の午後、3時半、を狙ったが、「なら町」で昼食と時間つぶしをしても3時に着いてしまった。入口付近で二重の列に並んで、それでも10分足らずで入場できた。
しかし、館内は満杯状態。お目当ての展示物の前は人の頭しか見えない。元々、正倉院展は館内が暗く見難いという定評があり、特に今年は天皇が遺愛した双六などの小さいものが多く、単眼鏡が必要なほど、ほとんどの展示物をさら~っと見て、常設の仏像館をじっくり見て帰ってきた。
二日ほどして夕方のテレビ番組で正倉院展のついでに見に行った興福寺の「阿修羅」が放映されており、そして今日(2日)は、「天平・瑠璃のかがやき」という特別番組があった。ム~、、、やはり本物を見るべきだと思うが、、、あの混雑で、じっくりと見れないのなら、TV観賞もありか、しっかり録画しておいた。

2012年10月20日土曜日

喰いつきのいいプラスター

11月に沢山の行事を控え、ブログ更新がついつい、滞る。
毎週金曜日の関電前抗議行動も何とか参加するように、気持ちを切り替えているのだが、月に1回が精いっぱい、という感じ。
 昨晩なんとか参加したが少し参加者が減ってきているような気がして、ほぼ精勤で参加している友に訊くと「先週はもう少し少なかった。でも、続けることが大事」と云っている。  
 来月11日には、東京で100万人を結集するらしい、全国でもこれに呼応して集会が持たれる。歴史的な一日になるかもしれない。
 で、この写真の友が掲げるプラスター、チェルノブイリ周辺でツバメの異常個体が現れているそうで、野鳥図鑑等から探し出してプリントアウトして作ったとの事。昨晩も早速、参加者の女性から質問、丁寧に答えていた。その次は、背の高い中年の外国人男性、盛んに指さし、連れの女性に聞いている。「チェルノブイリ・スパロー」男性は、分かったのか、分からないのか「オー」と頷いていた。
 前期高齢者の我々に、1時間半のシュプレはキツい。私は友に貰った鳴子で参加している。

2012年10月8日月曜日

11月の行事の下見で堺に行った。「堺まつり」などに何回かは来ているが、大浜辺りは本当に久しぶりだ。写真の旧堺灯台もきれいに改修されているが、六角形の白い姿はそのままだが、周辺は見事に昔の面影はない。
 昭和50年ごろ、この堺港の船着き場から臨海の埋め立て地の工場護岸にチヌ釣りに出かけたものだ。
 渡船屋のオヤジは、護岸に着くと「会社の見回りの車が来たら、頭低くしてや」と言い残し港に帰っていく。こっちはお金を払って釣りに来ているのに、「まるで、闇夜の泥棒みたいや」と文句を言ったものだ。それでも、五時に仕事が終わると、潮時を選んでよく通った。 写真の右前方の埋め立て地には当時、新日鉄や日立の工場が並び、高炉の高い煙突が林立していた。夜釣りの時は、工場のパイプ群を照らす照明や、高い煙突の先の赤い警告灯の点滅が釣れない時間の慰めのようだった。ちょっと前、「工場萌え」とかで夜の臨海工場群を写真に撮るのが流行ったが、30数年前に同じ感覚を味わっていたのかもしれない。
 堺で勤めた1970年から1980年の10年間は、まさに高度成長期から1980年の高度成長の終焉期の入り口に至る時期に重なる。新日鉄の高炉は無くなり、日立造船も去った。その後、期待され入ったシャープの太陽光パネル工場も本社の不況が影を落とす。大阪府は、広大な未利用地を工業生産地帯から、学術、環境産業地帯にと考えているようだ。
 かってNHK大河ドラマは自治都市を目指した堺を「黄金の日々」で描いた。権力に敢然と立ち向かった堺人の気概が堺にも、大阪にも、いま必要ではないだろうか。河内人として生まれ、人生の割と重要な時期を堺で過ごした(仕事中心ではあるが)私の思いである。                     



2012年9月30日日曜日

続・寅さん、南座に現れる

今日の「赤旗」の書評欄に「山田洋次と寅さんの世界」【吉村英夫著】の書評を櫻田忠衛さんが書いておられる。「私は山田洋次のファンではあるが、山田洋次の作品のすべてを肯定している訳ではない。そのスタンスで本書を読んだが、、、」として、映画「男はつらいよ」で山田監督が描こうとした世界を『家族と柴又や寅が旅する地域のコミュニティーであった』こと、『今世紀になって無縁社会がいわれ、経済的弱者が社会から切り捨てられているとき、山田(監督)が提示してきた寅さんの世界は重い』と評されている。私は、この筆者【吉村英夫】が1981年に書いた「男はつらいよの世界」を映画好きの友に勧められて読んだが、冒頭に、「一部の者が富と権力を独占しつつ多くの民衆は真に生きる喜びを享受でき
ない生活に追いやられていったのが1970年代の日本である。・・・勤労民衆を中心に地底から想像と建設の響きがほうはいとして起こってくるのもまた1970年代であった。矛盾が露呈し人々の怒号が爆発し整然と組織化されるのを恐れる者たちが、人間の心を貧しくする煮ても焼いても食えない低俗な括弧つき文化を流し込みかきたてることで、矛盾をいわば民衆内部にすり替えることに必死になっているときに、山田洋次はフ-テンの寅を創造して、人がふれあい信じあいつながりあえる事のおおらかなメッセージを勤労民衆に送り込んできた」と情熱的に書いている。

櫻田さんは、今回、著者【吉村英夫】氏が、山田監督が小津安二郎監督の「東京物語」へのオマージュとして撮った最新作「東京家族」をもって「山田洋次」論の完成が成されるのではないか、と期待しておられる。私も四半世紀を超えて「フ-テンの寅・山田洋次」の世界の解明を期待したい。ところで、前回のブログで、フィルム映画にこだわり続ける山田洋次監督の姿勢に共鳴し、フィルム映画上映館の復活を願う、とブログしたが、ここでお詫びしたいと思う。先日、大阪の書店でDVD「小津安二郎大全集」なるものを買ってしまった。「東京物語」はじめ全9作品が収めてある。店員さんに何度も確認したが、間違いなくオリジナル、9作品が入っているとの事、その値段が、なんと驚くなかれ、1,980円  なのである。盤には Made in Taiwan  とあった。山田監督、寅さん、すみません。

2012年9月10日月曜日

寅さん、南座に現れる

友人から券を貰ったので京都、南座に行ってきた。監督生活50周年「山田洋次の軌跡」展。午前と夕方の映画上映の合間に舞台上に「くるま屋」のセットを組んで見学できるようになっている。また、観客席横のロビーは「男はつらいよ」を中心に、山田監督の全作品の紹介とスチール写真が並んでいる。3階のロビーには映画撮影時の渥美清さんの控室を再現した特別コーナーもある。勿論、寅さんの決めスタイルのチエックのダブルのスーツと旅行鞄、雪駄も展示してある、寅さんファンには涙ものだ。
 今回の映画上映と展覧会が何故、南座で行われることになったのか?山田監督は「35ミリフィルムがこの世から姿を消そうとしています。映画の製作と上映がデジタルにとってかわるのです。」「フィルムがデジタルというきわめて効率的な媒体に代わると云うことは、例えばトーキーやカラーフィルムのような新しい表現手段の誕生とはハッキリ違って、映画産業資本の都合によってフィルムを奪われたという思いを映画人の我々は抱いてしまう」とパンフレットに述べている。続けて監督は「そんな中、ここ京都南座でぼくの全作品をフィルムで上映すると云う企画が生まれた。大劇場での35ミリフィルム上映はもしかしてこれが最後になるのでは」と述べてもいる。あくまでフィルムでの撮影にこだわる監督らしい企画ではないだろうか。そして、もう一つの疑問「何故南座なのか、」これは私の推論だが、京都は、一時期「日本のハリウッド」と呼ばれ、名だたる名作も、娯楽映画も多数生まれた土地である。企画の意図もそんなところにあったのかもしれない。 これから何回か、南座に足を運ぶつもりだ。(というのは、もう一つの映画祭、「木下恵介生誕100年祭」上映会が大阪で9月7日で終了した)さて、やはり映画はいい!テレビ映画やドラマは日常生活の場の延長線上の茶の間で見てしまうが、わざわざ映画館に足を運ぶという作業が映画そのものの価値を高めているように思う。これは、文楽でも、落語会でもそうだと思う。
 それと映画について、私は、昨今はやりのハリウッドのSFXや、眼のついていけないような派手な映画にはあまり興味がない。子供の頃、実家の隣がアイスキャンデー屋さんで、近所の映画館で売るアイスを配達していた。その配達の折に、自転車の後ろについて行き、おっちゃんの顔でタダで入れてもらえる事が出来た。いつも、という訳ではないが、声がかかると喜んでついて行った。当時、近所の映画館はもちろん封切り館ではなく、東映や大映のチャンバラ映画の3本立て、アラカン(嵐勘十郎)の鞍馬天狗の活躍にわくわくしたものだ。少しマセてきた頃に見たフランス映画の官能さ、馬が小さく見えたジョン・ウェインの西部劇、これらをもう一度見ようと思うと、どうしてもDVDになってしまう。今回のように、大劇場でもう一度見てみたいものだ。

2012年8月26日日曜日

目にも涼しげに

 23日は「処暑」だった。【暑さも少し和らぎ、朝夕は過ごし易き頃】とあるが日中の暑さはまだまだ手強い。私流には、日中は、涼しい図書館で対処している。そこで、目で涼をとって貰いましょう。椿皿に載った「カチ割」と見えますか?実はこれ、「割氷」という四天王寺参道にある老舗和菓子舗「河藤」の銘菓である。最初に見た、というか食べる人は「氷」とまでは思わないが、大抵の人は、「氷砂糖」と間違うようで、口に含んでみて、その思いがけない噛み心地に驚くようだ。その反応を見て、ちょっと喜ぶというのが私の楽しみである。では、そろそろ、その実態を明かそうか、材料は寒天です。寒天を煮溶かし、これに砂糖を混ぜ、固めたものをさらに乾燥させたものである。この割り方に工夫がある様だが、本当に「カチ割」のようで、少しは涼しさを感じていただけましたか。

オマケです。同じ「河藤」で売っていた「うちわ」です。お盆には少し遅れたがこれも買って帰り、母の写真の前に供えた。

                              

2012年8月19日日曜日

虚実皮膜論で見れば

今年もお盆の墓参りに八尾の実家に兄弟、従兄弟たちが集まった。総勢22名、みんなそれぞれ歳を重ね、今や主役は甥や姪たちに、墓参りをはさんで昔ばなしや、甥や姪の子供の話に時間が過ぎていく。今年は、長兄夫婦が文楽の夏休み公演に行ったという話で盛り上がった。以前ブログに書いたが、私はこの間の大阪市長の文楽(彼は協会がいかん、と言っているが)攻撃に危機感を抱き、文楽友の会に入ったのだが、この「夏休み公演」はほとんどの日程が満席状態で、図らずも「橋下効果か!」と思わせる状況とはなったが、油断はできない。さてその「夏休み公演」だが、夜の部に「曽根崎心中」がかかっていた。ご存じ、近松門左衛門の名作であるが、この「曽根崎心中」について面白い話が雑誌「上方」(復刻版)に載っている。事実は、いま伝わる「心中」物とは違う、というものである。物語の主人公、お初は、大阪曽根崎の遊郭「天満屋」の遊女で 、生まれは河内高安教興寺村で百姓宗二の娘、徳兵衛は、大阪内本町の木綿問屋「平野屋」九右衛門の養子で、養父の決めた許婚があるが、その意に従わず、遊女お初に通い詰め、遂にはお初の里である高安に駆け落ちする。お初の父親の宗二が二人の行く末を案じ、教興寺の淨厳和尚(実在の人物で江戸中期、寺を再建した)に頼み込む。和尚は二人へ因果の道理を諭し、お初をとりあえず曽根崎に帰し、徳兵衛を寺の下働きとして住まわせる。
最近出来たお初天神のブロンズ像
 暫くして、お初はめでたく年が明け、徳兵衛と夫婦となり、この世を安楽に暮したという。徳兵衛が臨終の際は、お初が看取り、お初は徳兵衛が迎えに来た夢を見て、病みつき眠るがごとく往生した。和尚はこの二人の死骨を合葬し懇ろに弔ったと云う話である。その後、近松が高野山にのぼる途中、河内の教興寺を訪れ、淨厳和尚と親しくなり、この二人の話を聞き、さっそく文作し、元禄16年5月7日に竹本座で上演したと云う事になっている。さすが近松、見事に心中物に仕立て上げた訳だが、この話そのものにも、時代が合わない点があるという。
谷町筋の久成寺にあるお初の墓
近松が「曽根崎心中」を竹本座で上演したのは、元禄16年5月7日で間違いないそうなのだが、近松が話を聞いたと云う淨厳和尚は、五代将軍「綱吉」の深き帰依を受け、幕府のお召しに応じ、江戸に上り、元禄15年、江戸湯島で入寂したとなっている。つまり、和尚は近松がこの物語を上演する1年前には亡くなっており、二人は会っていないことになる。「虚(うそ)にして虚にあらず、実(じつ)にして実にあらず、この間にして慰(なぐさみ)が有るもの也」、有名な近松の演劇論「虚実皮膜論」であるが、私は高校生時代に担任だった国語の教師に、この演劇論を聞き、大いに共感したものである。話はそれるが、NHKの大河ドラマ「平清盛」の不振ぶりは、担当ディレクターの思い違い、(虚実皮膜論的に)があるのではないかと思っている。観客は真実を求めるだろうが、かといって、埃だらけの薄汚い主人公など見る気もないだろう。さて話は戻って、「曽根崎心中」の「実(じつ)」の部分であるが、お初、徳兵衛の二人が仲良く、安楽に暮した、という「実」を人形浄瑠璃に仕立て、上演して果たして大入りになったであろうか。近松はこれ以降、「冥途の飛脚」「心中天網島」と心中物でヒットを続け、これに触発されて世の中に心中する者が増え、幕府は心中物の上演を禁止した位である。世の評判をとるには、やはり実の上に虚を被せる事が、上等の手ではないだろうか、ただし、これは娯楽の人形浄瑠璃の世界の話である。

2012年8月1日水曜日

竹コプターの方が安全

 「オスプレィ」いま問題になっている飛行機である。オスプレィの意味は猛禽類のタカの仲間の「ミサゴ」の事だそうだ。でもパイロット仲間内では「未亡人製造機」と呼ばれている、それほど危険な飛行機である。この事で、ある本を思いだした。「世界の駄っ作機」という本で、元は「世界の傑作機」という本を茶化した本であるがマニアに受けて続編も多数出ている面白い本である。で、この本の中に「オスプレィ」のご先祖の様な飛行機がある。写真の「XYF-1」という飛行機である。写真で見る限りご先祖様とは言えないのだが、その設計思想が同じなのだ。
コンベアXYF-1
当時のアメリカ空軍の要求は「垂直に離着陸し、高速で移動出来る機体」という事であった。現在の「オスプレィ」は、今普天間基地に配属されている大型ヘリコプターの数倍の航続距離、つまり高速での移動、短時間での作戦行動が可能、という性能である事を設計理念に生かされて開発された機体なのだ。写真の試作機(試作機は機体番号の前にXがつく)は結局、軍の要求を満たさず、試作で終わり、「駄っ作機」の仲間入りをしたが、「オスプレィ」は事故を繰り返しながらも、軍需産業側の強い要請で、正式採用され、いま、普天間に配属されようとしているが、危険な機体であることに変わりはない。なぜ危険なのか?テレビで解説されているが「空モノ好き」の私がもっと分かりやすく解説する。まず、「竹トンボ」が飛ぶ姿を頭に思い起こして下さい。勢いよく両手で軸をこすり回し、羽根を回転させることにより空に飛んで行き、ゆっくり下りてきますね、ここがポイントです。つまり羽根は回転して上昇するが回転力がなくなっても降下の風圧で羽根は回転し、急激に落下することなく、ゆっくり下りてきます。ヘリコプターも同じ原理でローターを回転させる駆動力がなくなっても、つまりエンジンがストップしても竹トンボと同じ原理でローターの回転を維持し、パイロットの操縦で墜落する危険を回避しうると云う事です。「オスプレィ」はこの操縦が出来ないと云われている。ヘリコプターの様に上昇した後はプロペラを前に倒し、高速で飛行する。この機能を最優先する設計がなされたため、上昇し飛行に移る、飛行から着陸のため降下する際の複雑な操縦はコンピューターで制御されるが、一旦エンジントラブルでプロペラが止まってしまうと竹トンボや、ヘリコプターの様な自由回転が出来ず、急激に墜落してしまうと云う事です。それからもう一点、テレビ等ではあまり触れられていませんが、写真で見るように、「オスプレィ」のプロペラは非常に巨大で飛行機の様に前に倒したままでは、離着陸できません。地面に接触してしまうからです。空母や狭い場所から飛び立ち、高速で飛行する、この条件を無理やり備えるために作られた機体、いずれ、「世界の駄っ作機」の仲間入りをするでしょうが、これ以上の犠牲者が出てからでは遅い、防衛大臣や、首相までもが「安全性を身を持って経験する」ためにと、試乗計画まであるらしいが、「カイワレ大根」事件ではあるまいし、まったくもって国民をバカにした「お人たち」ではなかろうか!

2012年7月26日木曜日

 なにやかやと忙しくしている内に今年も天神祭がやってきた。祭り本番は、テレビ大阪の中継で済ますつもりだが、去年、買いそびれた「白むし」を買いに24日、出かけた。以前に比べて、ギャルみこしや、この写真の「花娘」など、若い女性を駆り出し、祭りを盛り上げているようだ。境内に躍り込んだ「男みこし」も花娘を前に一層跳ね回っている、やはり、女性の力は神さんの荒ぶる魂をゆさぶる様だ。
肝心の「白むし」とは、白いおこわの事である。天神橋商店街の「薫々堂」がつくって天満宮に納め、祭りに参加する氏子たちの「力めし」になる。竹の皮に包み、梅干しを1個入れて、夏場の傷み防止の工夫がされている。これで1個500円也、高いのか、安いのかという価値判断ではなく、天神祭に参加している、という一種の連帯感みたいな物かもしれない。去年は、「某私鉄のPR誌に載ったため、早々に売り切れてしまいました」とは薫々堂のお話だったが、今年はどうだったのだろう。

2012年7月22日日曜日

これも節電対策!

 最近我が家の夏の恒例行事になりつつある万博公園の「早朝観蓮会」、最終日の今日出かけた。蓮の見頃は少し過ぎてはいたが、毎年のお楽しみ行事、今年は「能勢の人形浄瑠璃」の公演があるというので最終日だが出かけた。蓮池の隣に臨時の舞台をかけた会場は、7時半という早朝にもかかわらず、用意された椅子も満席になっている。今日、公演するのは「能勢人形浄瑠璃鹿角座」という一座。解説書によれば「古くから親しまれてきた〈能勢の浄瑠璃〉は、太棹三味線と太夫の語りによって物語が進行する『素浄瑠璃』といわれる渋い座敷芸で、今日まで200年にわたり伝承されてきた能勢の大切な芸能」という事である。この永く伝えられてきた土地の芸能を次の世代に繋ぐため、人形・囃子を加えて〈能勢人形浄瑠璃〉として1998年にスタートした。スタートにあたっては、義太夫の太夫以外は、すべて一般公募し、応募した主婦、教師、OL等が文楽協会の人間国宝-竹本住太夫や三味線の鶴澤清介らの本格の指導を受け、日々研鑚し、2006年には『能勢人形浄瑠璃鹿角座』を旗揚げしたのである。

「して、かかさんの名は~」 人形遣いはすべて女性。
 つまり、古い伝統芸能に人形浄瑠璃の要素を加えた『21世紀に誕生した伝統芸能』という事になる。昨今話題の「文楽」もスタートは、元々あった浄瑠璃-義太夫語りと人形芝居が結びつき、近松門左衛門という作者が当時の世相をうまく取り入れ、大衆の喜ぶ人気芸能と成っていったと云われている。「鹿角座」も同じような道を歩んでいるようで興味深い。今日の公演は、オリジナルの「能勢三番叟」と「傾城阿波の鳴門-子別れの段」のミニ公演であったが、充分に楽しませてくれた。
 梅雨明けと同時に、「節電、ゞ」とセミの鳴き声の大合唱が聞こえてきますが近くに公園のある方、早朝の散歩と暑い日中は「図書館」で過ごすのが宜しいようで。

2012年7月8日日曜日

隆達節-私的解釈

以前、友のブログ[yamashirodayori]にあった「隆達節」の話、「君が代」の歌詞は、隆達の小唄が元ではないか、というあの話。 たまたま訪れた池田の「逸翁美術館」で開催中の「小林一三の愛した-近代日本画展」で、その隆達直筆の歌詞を見た。 ブログでは、ボストン美術館にある屏風絵の両端に、その歌詞を書いたものが張り付けてある、という事だったが、こちらの物は、「唄本切」(うたほんぎれ)というもので軸に表装してある。
 一般的に、「何々切」というのは、元々の巻物や書簡なりの写本を観賞用に切断したものの事で、有名なのは「古今和歌集」の写本を切断(断簡という)した「高野切」で、大阪の湯木美術館にある。(wikipedia)。
 「唄本切」というからには、写本という事かもしれないが、どちらが原本かは置いといて、問題はその歌詞である。こちらの「唄本切」もブログの写真と同じ体裁で、7首(番が正しいかも)の唄が書き連ねてある。最初の唄が「君が代は,,,」で始まり、流麗な文字で読みにくいが、「苔の」や、「岩」等の漢字がハッキリ読める。2番目以降も所々、「戀のみち」とか「枕の」とかの字が何とか読める。やはり隆達が書いたのは「恋唄」だったようである。
 この「唄本切」の伝来は、小林一三(阪急グループの創始者で、号を-逸翁-と称した)が宝塚歌劇30周年記念の茶会を催すため、安田靭彦が持っている、高三隆達直筆の「唄本切」を茶友の雑誌編集長を介して譲って欲しいと頼み、手に入れたものとある。逸翁が何故、この「唄本切」を望んだのかは分からないが厳粛なる「君が代」の元歌が小唄だったという事がさらに一歩わかった様な気がした。
*安田靭彦(ゆきひこ)-大正から昭和の日本画家。前田青邨と並ぶ歴史画の大家。                                               
                

「高野切」湯木美術館蔵
逸翁美術館
                   



2012年6月30日土曜日

懐かしい風景

 先日、適当な会場探しのため、谷町6丁目あたりを歩いていると懐かしい風景に出合った。「たかつはらばし」、谷町筋と長堀通の交差点を西に進み、松屋町筋に出るすぐ手前にその橋はある。今を遡ること40数年前、高校を卒業し、しばらくして就職した役所は、元第八連隊の司令部だったという古い木造二階建ての庁舎で、今は「難波の宮」跡として有名になった東区(現中央区)の法円坂にあった。当時は、月曜から土曜日までの勤務であったが土曜日は「半ドン」で12時半までの勤務であった。勤めて間もない頃であり、高校時代の友達との付き合いがまだ続いており、土曜日になるとナンバで待ち合わせ、遊ぶのである。終業のベルが鳴るや  

 庁舎の玄関を走って出て、上町筋の大阪市バスの停留所に並ぶ。緑色の、横縞模様(当時ゼブラカラーと呼ばれていた)がスマートな市バスに乗り込み、上本町1丁目を右に曲がり、長堀通りに出る頃には、週末の弾んだ気分が徐々に出てくる。そして、その橋、「高津原橋」の下をくぐると、完全に1週間の仕事の事を忘れ、ワクワクした気分になるのであった。当時、新米の若造には責任ある仕事もなく、夏は事務所の窓を開け、風通しを良くし、

冬は、だるまストーブ(石炭燃料の)の掃除やらが当番の仕事だった。それでも、1週間の仕事が終わった!という開放感は待ち遠しいものだった。その橋の下をくぐる事がそんな気分にさせてくれる出口、入口でもあったのである。橋の由来は分からないが、もともと、長堀川(運河)を埋め立て、道路にしたものである。上町台地は谷町筋を境に西に傾斜していき、所どころで崖の様に落ち込んでいる。この辺りはなだらかな下り坂であるが、それでも橋の上までは、5~6メートルはある。橋の北側は、内本町につながり、南側は、ゆるいアップダウンをへて、空堀商店街につながる。橋に昔の面影はないが、その土台部分には古い石垣や石畳の路地が残っていた。懐かしさのあまり、今回改めて、写真を撮りに行ったが、橋の上から見る、車の流れが川の流れのように見えた。

2012年6月24日日曜日

歌いつぐ者

 久しぶりに歌(合唱)を堪能した。古い付き合いの先輩、豊田光雄さんの作品コンサートがあった。「ウタノミライ」この題名に、豊田さんの「歌」への願い、思いが込められているように思えた。
 オープニングの「みんなは夜明けをまっている」で、いきなり40数年前の自分に引き戻され、胸が熱くなった。確か1971年の元旦に生駒の山頂で、豊田さんが「新しく作った曲や、みんな覚えて歌ってや!」と指導され、年明けの空に向かって、歌った覚えがある。(当時、国公青婦協という組織で生駒山に越年登山をする取り組みがあった)。 
 そして、その年の4月の黒田革新府政誕生のたたかいの時も「おはよう大阪」と一緒に、いくつもの集会で歌った思い出の曲だ。
【この歌は、1972年日本のうたごえ祭典開幕曲となり、  「荒木栄賞」受賞曲にもなった。】
 歴史的な歌の誕生に立ち会ったような気分で少し誇らしかったのを覚えている。

数日前の電話では「いったいどの位の人が来てくれるのか分からん、」と心配声だったが、会場は満席の盛況で、2時間半のコンサートは大成功だったのではないだろうか。
 若い頃から日々の仕事(職安勤務)の後、音大に通われ積み重ねられてきた歌への愛着、思いの熱さは、そのまま今日、出演した合唱団の数、層の厚さに反映しているように思えた。
まさに、「ウタノミライ」に込めた、歌の力、つながりの深さ、そのものの様な気がした。

2012年6月13日水曜日

文楽を観に行こう!

 大阪市長の「文化攻撃」(私流の表現です)が止まらない。今度は、「文楽」への攻撃である。市長は府知事時代、文楽への助成金支出を半減させ、市長に当選するや否や、すぐさま市の助成金を4分の1減額する方針だという。何故、かくも文化を攻撃するのか、理由は簡単である。彼の文化論は「銭を稼がない文化は文化ではない」という事だと思う。
 落語や歌舞伎との違いについては、専門家が見解を述べておられるが、私流に解釈するところは、いずれも大阪庶民の生活の中から生まれ、庶民に育まれ、紆余曲折、栄枯盛衰を重ねながら今日まで来たのだと思う。
文楽は途中、松竹の手に渡り、興業結果を強いられ、残念ながら手放されてしまう。しかし、この伝統ある文化を守ろうと1963年、国と大阪府・市の助成を受けて「文楽協会」が設立され今日に至っている。
きり絵作家、加藤さんの「文楽人形遣い」
我が家の宝物です。
最近は、若い技芸員(世襲ではない、一般の家庭から)の養成、地方公演、学生のための文楽教室など努力を重ねてきて、東京国立劇場公演は毎回、満席であるとか。
 だが、肝心のホームグラウンドの大阪国立文楽劇場の定期公演は空席が目立つ、という状況にあるらしい。ここに、目を付けられた。「税金をつぎ込む価値がない!」と、矢の様な攻撃である。
 しかし、全国の反応は早かった。私の愛読する「上方芸能」が「文楽応援特集」を企画した。全国から「文楽を守れ」と132氏からのメッセージが寄せられた。
 トップを切ったのが、東日本大震災直後、日本人となられたコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーン氏だ。「日本の演劇は世界の宝です。文楽が生を受けて見事な花を咲かせた大阪で、もし死に絶えるのなら、大阪の政治家の蛮行を世界は決して許さず、また忘れる事もないでしょう」と述べられた。
 これが響いたかどうか、最近市長は、「文楽は守るが、文楽協会は守らない」と言いだしている。私には、その違いはわからないが、ただ、先ほどの応援メッセージを寄せた132氏の中にも「『文楽を守れ!』と声高に叫ぶ前に,,,大阪人諸兄には、その前に為すべき事があるのでは」「本家本元の国立文楽劇場公演に空席が目立つ、という現状を、どう打開するかが、最大かつ最優先の課題なのでは」という意見もある。確かに、その点は認めざるを得ないと思う。かって、松竹から見放され、今度は、大阪人からも見放されては、「文楽」が可哀そうである。
 そこで私は決意をして、「国立文楽劇場・友の会」の入会申し込みをした。そして、大阪での公演には何が何でも観に行こうと思いもしている。大阪の文化を貶め、大阪にカジノを持ちこもうとしている市長を、”ギャフン” と言わせるためにも。

2012年6月5日火曜日

元気で再会!Ⅱ

 「銀山温泉」に到着後、2日間お世話になった観光バスの運転手さんとガイドさんとはここでお別れ。
この温泉は川をはさんで木造三階建ての風情ある旅館をはじめ20数軒の旅館が並び、雰囲気は城崎温泉の様だが真ん中を流れる川はかなり高低差があり、川面から河鹿の鳴き声も聞こえ山間の温泉という印象が強い。
我々が泊った「いとうや」は家族で経営する小さな旅籠、という感じ。しかし出てきた夕食は山菜中心の見事な料理だった。中でも「根曲がり筍」は格別に旨かった。(一人2本しかなく残念)夕食後、川に架かる沢山の小さな橋の上で夕涼み、結構宿泊客も多い。最後の夜という事でしゃべり疲れて11時過ぎには床についた。豊かな川の流れがいつまでも聞こえた。
 翌朝、6時前に目が覚め宿の内風呂へ、昨晩は川沿いに2軒ある共同浴場に入ったが、泉質は硫黄泉で、加熱、加水せずの「源泉かけ流し」のお湯だそうだ。
朝食も手抜きなしの見事なもの、山菜のお浸しが旨い。女性たちは「体重計にのるのがコワい」と言いつつ、しっかりいただいた。8時過ぎ女将さんの運転で「大石田駅」まで送ってもらい山形新幹線で「米沢」へ。ごく普通のローカル駅に新幹線「つばさ」が入ってくる。ちょっと不思議な感じがした。
 米沢駅には予約したジャンボタクシーがお出迎え、短い時間の市内観光と「米沢牛」の昼食が待っている。
タクシーに乗り込むと昨日までの晴天がウソのように雨と風が、ツキもこれまでか?最初に立ち寄ったのは酒蔵「小嶋総本店」関西ではあまり馴染みがない「東光」が看板酒らしい。
「係が不在ですみません」と、音声ガイドによる蔵見学だったが、その代わり、利き酒はどれもたっぷり頂いた。それぞれお土産の酒も買い、蔵を出ると小雨に、やはりツイている。
さて、いよいよラストの上杉家廟所へ。雨に洗われた木立が清々しい。上杉の殿さんで有名なのはやはり「上杉鷹山」だろう。かのケネディ大統領が、日本の政治家で尊敬する人物の一番に挙げたのが「鷹山」で、質問した日本人記者が「鷹山?」と言った話は有名。また「なせば成る、為さねば成らぬ、、、」の格言も有名だ。案内してくれた年配のボランティアガイドさんは「今の日本に必要な話では」と締めくくった。
-おしまい-
仙台では牛タン、山形では米沢牛、御馳走さんでした。
前を通るとセンサーがはたらき「モ―」と啼く。

2012年6月4日月曜日

元気で再会!


津波被害にあった仙台空港の佐藤忠良の
ブロンズ像「翔韻」
  元の職場の研修仲間で作っている同窓会「けやき会」の旅行に行ってきた。昨年2月末の沖縄旅行の際、来年は東北地方と決まった。しかし、帰ってきた直後の「東日本大震災」だった。幹事で検討した結果、宮城と福島の仲間を励ましに行こう!と旅行の決行を決めた経過があった。
 天候に恵まれた26日、宮城県の「青根温泉」に全国から11名が集まった。「青根温泉」は仙台藩・伊達政宗の隠し湯として名高く、我々の宿泊した「不忘閣」は藩主専用の湯で「青根御殿」として使用されてきたそうだ。
 また、数多の文人墨客が利用し、山本周五郎が大作「樅の木は残った」を執筆した部屋があり窓からその樅の大木が今も臨める。大広間で始まった宴会では、それぞれが近況を報告したがやはり、宮城と福島の仲間の話に集中した。3・11当日、お二人はそれぞれ再任用の職場で仕事中に激しい揺れに襲われた。感覚的には5分以上揺れが続いたように感じた、と言っていた。宮城の方は住居が若林地区で、昨年のブログにも書いたが直後は連絡が取れず、心配したが幸い津波の被害も無かったという事だ。福島の方も地震の被害はあったものの、津波の被害は無かったらしい。
真ん中左手の木がモデルの樅の木
 お二人とも何とか普段の生活に戻るよう色々とご苦労されたようだが、久々の再会を喜び合った。ただ、やはり福島の方が云われた「福島第1原発事故」の影響については、記述しておく必要があると思う。
おっしゃる趣旨は、「放射能被害から県外に避難された方々と、県内に残った人々との間で、心の中にわだかまりが生じている。原発事故は福島を、人を二分してしまった」という事だ。帰る見込みのない避難生活がこの先何年続くのか、「家族の多くは働き手の男を県内に残し、妻と子供は、慣れぬ県外の生活に疲れ果てている。家族の中、親族の中にも、目に見えない形でわだかまりが生じているようだ」とおっしゃっていた。国の無策に憤っては見るものの、我々に出来ることはしれている。せめて今宵ひと時を美味しい料理と旨い東北の酒で楽しく過ごしてもらうだけである。
 翌朝、福島のS氏は元気に愛車で帰られた。

2日目の目的は蔵王の「お釜」観光である。昨日の仙台から青根温泉に至るバス旅行もそうだったが、今日の「お釜」に向かう蔵王エコーラインも、遠くに雪をいただく月山を望み、 道路の両サイドには、まだ雪の壁が所々残り、新緑と、青空と雪の白さが我々を楽しませてくれる。「お釜」に到着して、間近まで降りて観るが、風が冷たい、おもわずレストハウスに逃げ込み、温かい「玉こんにゃく」を頬張る。帰路、立ち寄ったロープウエイの駅の木立の中で「エゾ春ゼミ」が鳴いていた。
 この後、次の目的地、芭蕉の句で有名な山寺「立石寺」を目指す。車中のガイドさんが盛んに進めるので1015段の石段を登る事(のハズだった)に。
山門を潜ってすぐの茶店で、おばさんが「玉こんにゃく如何ですか、楽に登れますよ」と勧める。
汗にまみれて字(静けさや~)読めず
「なんの、世話になるか!」と杖も借りずに登り始めたが15分も登っただろうか、おじさん3人組はあえなく棄権、女性(ほぼ同年代、のハズ!)たちは元気に上まで登った由、ふがいない男どもは「登る前に飲んだ昼食の『月山ビール』が効いたな~」と、ぼやきつつ、女性優位のけやき会(メンバーは、常時女性10人、男性4人)の実勢を味わった。
この後、1泊2日組のメンバーと別れ、我々は今夜の宿の「銀山温泉」を目指す。

 

 以下、次号に。

2012年6月1日金曜日

身近な珍百景

 近所のコープの外壁のフェンスに奇妙な物があると気付いたのは周辺の樹木が何本か伐採されてからである。さらに、その正体が樹の一部である事が分かったのは、その下に切株があったからである。樹が存在していた時は何とも思わず、その存在が失せて、初めて気がつくという事、伐採されて視界が良くなったといえば、それまでだが。
 
 さて、その正体だが、切株の上のフェンスに見事に食い込んでいる樹の一部なのだが、その喰いつきぶりの見事さに驚いて、写真を撮った。
 よく、街路樹などが植えられる際、添え木というか、支柱で支えるのだが、支柱と樹木を結ぶロープやワイヤーが、そのまま放置されてしまい、樹木が成長するにつれ、樹肌に食い込み傷つけることがあるらしい。

しかし、どう見てもこの樹は、自らの意思でフェンス(金網)を自らの体内(と表現したくなるほど)に取り込み成長を続けてきたかの様だ。
 樹木の成長の摂理はよく知らないが、伐採され、この樹の歴史は終わったかのように思うが、しかしフェンスに喰いついたこの樹の分身が、かえってその存在感と歴史を主張しているように思う。

2012年5月20日日曜日

 最近、スーパームーン(月の楕円軌道の関係で通常より大きな月が見える)とか、太陽のスーパーフレアとか天文の話題が多く、明日21日には「金環日食」が見れるとマスコミも騒いでいる。この日食については、いわゆる「日食ハンター」と呼ばれる人々がおり、世界の何処までも追いかけるという。
 嫁はんのお友達の元理科の先生は、南紀勝浦に出かけるそうだが大方、旅行業者やそれに関連する有象無象がビジネスチャンスと動いているのであろう。それにしても月食ではそんなに騒がないのに何故、太陽の変事をそんなに有難がるのか、と思わないでもない。そこで月に味方する訳ではないが旧暦の話を少し。旧暦は月の満ち欠けを基に、一月の長さを決めている。月の満ち欠けのひと巡りは29,53日が基本。これを数式で表すと、
29,53×12カ月=約354日。新暦である太陽暦の365日よりも11日短い。毎年11日、この足らずを調節するために約3年に1回、閏月を入れて調節する。それが今年、2012年には「閏3月」が入り、1年13ヵ月になっている。
 詳しく云うと新暦の4月20日が旧暦3月30日で4月21日が閏3月1日になる。今日5月20日は閏3月30日で明日5月21日が旧暦4月1日となる。
 閏については私はまだ勉強中で長くなるのでサワリだけを紹介したが、全ては季節(農耕作業の基準)を暦に合わせるための手段であった、という点から考えれば農耕に必要なのは太陽の恵み、であったはず、太陽暦の方が適しているとも云えるが、ややこしい話は別にして、多くの国民が農作業から離れてしまった現代においては、さほど必要無いのかもしれない。
 日食網膜症などという恐ろしい障りのある太陽よりも、晩春の朧の月をグラス片手に眺めてみては如何か。