2011年12月31日土曜日

 子供の「ケンカ」と言えば他愛のないもの、どっちが先に悪口を言ったとか、おやつを横取りしたとかでケンカになり、最後は飴玉一つで仲直り、というのが相場であった。
 先日の橋下新市長の市議会での施政方針演説、かなりの部分を割いて、大阪市役所の労働組合攻撃に異常な執念を見せた。
 キッカケはこういう事らしい、現職の知事として大阪市役所に足を踏み入れた時、(どういうシチュエーションだったか不明?)市役所内では、政治活動につながるから一言も発言するな、と言われた。しかるに、この市役所内部では、労働組合が堂々と政治活動をしている、(どうも市長選挙の際の平松支援のハガキ作戦を労働組合がやっていた、という事を指しているようだ)。
 「選挙で選ばれた知事が政治的発言が許されないのだから、職員組合が政治活動をするという事は許されないのは当然だ。」という事らしい。
 やはり、子供の「ケンカ」だと思う。施政方針演説でわざわざ言うことだろうか?。本当にこの市長の政治家としての資質は、いや、大人としての資質はどうなっているのかと思う。
 まあ、この辺までは、子供のけんかと見ておく事もできるが、見逃せないのが演説の最後にわざわざ付け加えた次の点だ。
 「大阪市役所の組合の体質というものが、今の全国の公務員の組合の体質の象徴だと思っています。」
 「ギリシャの破たんは公務員、組合をのさばらしておいたから。」
 「日本全国の公務員の組合を改めていく、その事にしか日本の再生の道はないという風に思っています。」 
 私は大阪市役所の職員組合がどういう組合であるか、詳しくは知らない。しかし、全ての公務員の組合を「国を滅ぼすのは公務員であり、組合だ」と決めつけるいう暴論を許すわけにはいかない、と強く思う。なによりも、色々あったこの年の瀬に、わざわざ虚構の対立を作りだし、人の心を傷つけるような人に、大阪市のシンボル「澪つくし」の役割は果たせまへん。

2011年12月27日火曜日

 以前、ブログに書いた近所の府立高校、統合され、解体工事を大急ぎでやっつけ、現在、造成工事中である。再来年の春には大マンション群が建つ予定だ。
 写真は、その工事現場のフェンスに設置されている騒音計測器だ。義務付けられているのかどうかは、よく知らない。まあ、近隣対策の一つだろうとは思うが、面白いのは、これが設置されているフェンスが通学路なのである。
 もう、お判りだろう、近辺の幼稚園児、小学生、果ては中学生までが通りすがりに大声を上げていく。幼稚園児などは可愛いもので、「わぁ~」とか「えぃ」とか計測器に向かって叫び、数字が上がるのを満足そうに見て過ぎていく。
 小学校高学年ぐらいになると、2~3人で大声コンテストよろしく、数字の高さを競い合っている。
 設置されて5カ月ほどになり、さすがに、コンテストはしなくなったが、向かいのマンションの住人たちは、迷惑だっただろうと思うと、申し訳ないがちょっと面白かった。

2011年12月25日日曜日

 今年は一念発起して、池波正太郎さんに習い、3年連用日記を付けている。特に印象深かった事があれば、記載するが、主には、その日の夕食の献立をつけている。
 これが結構、記憶力のいる仕事で、2~3日付けずにいると、嫁はんに聞かないと埒が明かないが、なんとか1年続けられた。
 楽しみは、来年からである、献立に困ったら、去年の分を見ればいい訳である。
 それとは関係ないが、今日25日は「終い天神」。京都の北野天満宮に行き、「長五郎餅」の茶店で熱いお茶とお餅を食べて、骨董探しに、で、去年の事を思い出したら、やはり、21日の四天王寺の「終い弘法」に出かけ、25日は北野に来ていた。人間、65年、あんまり変わらん生活をしているものだと感心する。
 北野からの帰り道、以前買って、その手軽さに感動した「絵手紙」用、紙のパレットを買いに「鈴木松風堂」へ。400円という手軽さに、思わず8個も買ってしまった。
 今年お世話になった人に使ってもらおうと思う。

2011年12月23日金曜日

青磁・白磁の魅力

 嫁はんに誘われて京都上賀茂の「高麗美術館」へ、この美術館は、在日1世の鄭氏が京都で実業家として財をなし、望郷の想いとともに、高麗青磁・白磁などの名品を在日2世、3世の人たちに、祖先の暮らしと文化を目で見てもらうために創設されたという事だ。
 朝鮮の青磁・白磁の名品は、大阪・中之島の「東洋陶磁美術館」の安宅コレクションが有名だが、一介の実業家が、何の知識もなく、ただただ、遙かな故郷への望郷の思いだけでコレクションを収集し、そのすべての寄贈を受けて開設された貴重な美術館である。
 氏は、司馬遼太郎の「街道をゆく」の取材にも同行し、日本にある朝鮮文化の発掘に協力したという。

 館を出る際、受付の横のテーブルに、一輪ざしがあり、見た事のない草木が挿してある。受付の女性に尋ねると「家から持ってきて挿しました。みつまた(三椏)です。」と言う。
 和紙の原料の一つである、三椏とはこんな姿、(正に三又である)をしているのか、と見入っていると、「時節外れですが花が咲きそうです」とも言って、にこやかに笑っている。

  高麗美術館では、入場者が二人連れの場合、一冊の美麗な図録が頂ける。
  「友達と二人で行くと貰い難い」と嫁はんは、のたまう。な~る、そういう事か。

2011年12月21日水曜日

 毎月21日の四天王寺門前での宣伝行動の帰り道、立ち寄る「たこ焼き」屋さんがある。普段は夜からの営業の様であるが、お大師さんの日は、昼間もやっている。店に入ると、店主は、決まって「今から焼きますので10分から15分かかりますが、いいですか」と丁寧に聞いてくる、こっちは、宣伝も終わり、特に用事も無いので「あぁ、いいよ」と答える。
 焼きあがるまでの時間、必ずと言っていいほど、2~3組の客が入ってくる。店主が、同じように、時間がかかることを告げると、大抵の客は「え~っ、ほな、焼きあがった頃に来るわ」と言う。と、店主は「うちは、注文を受けてから焼きますので、つくり置きはしまへんので」と答える。これで大抵の客は、帰ってしまう。
 いつもの事だが、お大師さんにお参りに来る客だから、そんなに忙しい用事があるようにも思われない、店に入り、ゆっくり待っても、15分ほどで、とびきり美味しい、アツアツのたこ焼きが食べれるのにと、いつも思いつつ、冷たいビールと「たこ焼き」を食べて帰る。 『ごっつとーさん』
 【写真は西成区、玉出の「会津屋」のたこ焼き、これも美味しおす。】

2011年12月18日日曜日

 暑さには弱いが寒さには強いと自認していた。酷暑から逃れる術は、冷房しかないが、冬の寒さは、重ね着で防げると関電の節電の呼びかけをせせら笑っていたのだが、歳の所為か昨日は胴震いが来て、昼間からエアコンを入れてしまった。あー情けない。
 以前、ブログに書いた、「大阪365日事典」の12月18日付けに面白い事が書いてあった。『ぬくもり屋大繁盛』(昭和20年)終戦後初めて迎えた冬、大阪駅付近をねぐらにする連中が寒さをしのぐため何処からか木切れを集めて焚火をしだした。人が寄ってくるのでタダで当たらす手はないと、料金を徴収しだした。これが大当たりして、1時間5円、一晩中なら10円、などと相場まで決めたという。
 こんな珍商売、大阪ならではというところか。人は、焚火のゆらぐ火に遠い原始の記憶がよみがえるのか、何故かひきつけられる。
 子供の頃、家の風呂は薪で湧かしていた。木の切り株に腰を落とし、煙草を吸いながら風呂を涌かしていた父親の横顔を想い出した。

2011年12月8日木曜日

根来塗

 先月の四天王寺弘法市で買った「根来塗り」の「椿皿」である。何故椿皿と云うかは、横から見ると「椿の花に似ている」からとか。根来塗りは、紀州、根来寺の僧侶が生活什器を作り、使用していたもので、紀州漆器の一つとして作られてきたが、プラスチック製品の大量生産で徐々に衰退していったと云われる。
 近年、「根来塗」のブームもあり、紀州漆器全体が、伝統工芸として
育成されているという事だ。根来塗りは、生活什器と云う事もあり、芸術品ではなく、強度を出すため、下地に黒漆を塗り、その上に朱漆を塗ったもの、使っていく内に下地の黒漆が出て、この使い古し感が茶人に好まれたそうである。
 三枚あったが、一番状態のよさそうな物を求めた。「江戸はあると思います」【この”ある”という表現は、江戸時代のもの、という意味である。】と言う誠実そうな店主の言葉に、4千円を出すと、「気持ちです」と云って100円をオマケしてくれた。
 四天王寺の帰り道に「河藤」という古い和菓子屋があり、「割氷」というお菓子がある。寒天で出来ているが、見た目はカチわり氷のようで堅そうであるが噛むとゼリーのように柔らかい。夏になったら皿の上に水を垂らし、誰かを驚かせてみよう。

2011年12月3日土曜日

手近に錦秋

 今朝起きぬけに窓から眺めると、箕面の山並みが見事な錦の綾波に染まっている。山肌に迫る白いマンション群が興ざめだが、遠景ながら、人ごみに揉まれる事もなく、充分に秋色を楽しめるのだから有難い事だ。

今年の紅葉は、色づく前に散ってしまう、との事の様だが、手近な錦秋をもうひとつ。

昨年頂いたアンズの実をジャムにして、大きな種をベランダのプランターに埋めておいたら芽が出た事は以前書いた。その芽が若木になり、今、一人前に紅葉している。若木の新鮮な紅葉(表現は少しおかしいが)もまたいいものだ。

2011年11月20日日曜日

今年のヌーボワイン

 今年もヌーボが届いた。というか、毎年馴染みの業者から買うのであるが、8月の暑い頃に予約の電話が入る。「生産地のいち早い情報です。今年例年になくブドウの出来が良く、いいヌーボが出来るでしょう」と電話口で馴染みのセールスのお兄さんが囁く。私は「アンタ、去年もそんなこと言ってたで」と言いつつ、「今年も頼みます」と云う事に、そんな付き合いが14~5年になる。
 ものの本によれば、元々ヌーボワインと云うモノは、生産者がその年のブドウの出来をチエックし、業者に試してもらう為のもので、仕込から出来上がる過程が通常のワインとは違う、だから基本的にはヌーボは、いくら寝かせても良いワインには成らない、年明けごろまでに飲みきってしまうのがベスト、ということのようだ。だから我が家ではいつも6本しか買わない。
 年々、高額になっていく請求書を片手に「これも祭りのようなもの、まぁ~いいか!」。
せめて27日の前祝い(いワイン)になるように、(苦しい~)。

2011年11月14日月曜日

 去年、ブログで紹介した「滝の道ゆずる」君、今年は実物と記念写真を撮る事が出来ました。サポーターの話によると、今、人気上昇中なんだとか。
 先日、某番組でゆるキャラの中味は、大体女性が多い、らしい!で、初めは「ハグ」しようと思ったが、腕を組むだけにとどめました。
 この日は、嫁はんに誘われ、ウォーキングで箕面まで。玄関を出て、箕面の滝までキッカリ90分、帰りは、30個の干し柿用の柿と、銘酒「五六八」の酒かすを二玉(板状ではない)その他諸々の買い物を背中に、で、軟弱にもタクシーで帰りました。

2011年11月11日金曜日

 かって「大阪が変われば日本が変わる」を合言葉に、大阪府民は「黒田革新府政」を誕生させた。今、その大阪が、ある一人の人物によって、独裁政治の拠点にされようとしている。
 「政治は独裁」、「教育は強制」、「文化は不用」と言ってはばからない人物とその手下どもに、この大阪を「いい様に」させてはならんと思う。
 今晩、黒田革新府政を誕生させた当時の先輩や仲間が集まった。革新府政の灯が消えて30数年、大阪の経済、文化の衰退と自らの後半生は軌を一にする。老いた体に今一度鞭を入れ、将来世代の為にがんばろうと誓い合った。
 友人がいいキャッチコピーを考えてくれた。
 「梅田行きの切符を買って、安全、安心、優しさの大阪へ」
 いいではないか!多いに広めていこう!

2011年10月31日月曜日

河内おんな がんばる!

 退職者の会、恒例の「少しハイキングとちょこっと酒蔵巡り」で、古市の里の史跡めぐりと河内ワイン蔵見学に行った。
 羽曳野の駒ヶ谷付近は昔からブドウ栽培が盛んな処で昭和初期には生産高日本一にもなったがその頃、室戸台風の直撃にあい、ブドウ棚は大被害を受けた。これを契機に農業振興策としてワインづくりを提唱し実践したのが「河内ワイン」の創始者、金銅氏だという。
 当日、ワイン蔵の案内とワインのミニセミナーを開いてくれたのがその創始者の3代目の奥さん、3代目の御主人が働き盛りで亡くなられ、その後、必死でワインを勉強し、ソムリエの資格も取られたとか、さらに凄いのが本場フランスをはじめ、世界各地のワイナリーをめぐり、日本の羽曳野の地に適したブドウ栽培の方法や、樽の材質にも工夫を凝らすなど、今やっと、認められてきたところだと、サラっとおっしゃる。
 今は息子さんが代表をつとめ、彼女は専務として支えながら、日仏交流で毎年パリで、「フランス語による落語」を披露しに行っているとか、さすが、河内おんなのがんばりを見た思いがした。
 そうそう、試飲した河内ワイン、正直言って、驚いた。今まで飲んだ、どのワインにも無い(恥ずかしいくらいのワイン歴しかないが、) 独特の香りがした。重く、どっしりとした、例えて言うなら「古武士」のような、醤油顔のワインという感じがした。(間違っているかも知れまへん、あくまで私個人の感想ですのであしからず。)

2011年10月22日土曜日

民意とは何か?

 昨日、ひょんな事から、ある集会に参加した。大阪革新懇が主催する「意見交換シリーズ」第3弾、橋下・維新の会が強行した府議会「議員定数削減」の狙いとは、が今回のテーマ。
 気軽な気持ちで参加したが会場のメンバーを見て驚いた。よく存じ上げている共産党の元国会議員や憲法学者、そして労働組合のOBや地域の活動家などなど、そんな中に、若い女性が一人参加していた。本人さん曰く、けっこう歳いってます、との事だったが講師の西弁護士の話の後、意見交換会で、なみ居るメンバーに臆せず発言していた。
 私が興味を持ったのは、この集会を知ったいきさつだった。やはりインターネットだった。西弁護士のブログサイトから調べたとの事、参加者一同「うーん」と頷くばかり、続けて「例えば皆さんは、集会に参加される時、旗を持っていかれる、でも私には旗(組織に属していない、の意か)が無いので風船を持っていく」と。またまた、「うーん」である。
 以前ブログに書いた「原発ゼロ」の集会に風船とタンバリンを持って参加し、遠巻きに見られた(気分的には)事を思い出した。
 会場の参加者は、ほぼ全員、この若い女性の倍近くの年齢だと思うが多いに感化されたようだった。
 で、肝心の講師の話、非常に分かりやすい内容だった。橋下・維新の会の錦の御旗「民意」とは?数の力で押し切った議員定数削減とは?そして、圧巻というか、ショックだったのは削減後の議席シュミレーション(写真)だ。維新の会は得票率40%でも6割の議席を占有し、公明党以下すべての政党が占有率を減らす、共産党は得票率10%でも議席は2、下手をすると議席0の可能性もあるという。
 シュミレーションとはいえ、国政選挙(1994年の政治改革・選挙制度の改悪以降の)の結果を見れば「そんな事には、」といってられないと、そんな気持ちになった集会だった。

2011年10月18日火曜日

堺まつりでテンションUP!

 久しぶりに「堺まつり」へ、38回目、という事は昭和48年からやっていたという事?記憶にないなー。
 今、堺市が面白い、橋下維新の「大阪都構想」の中で意地を見せている。昔の「堺県」の意地を発揮したれ!である。
 で、堺まつりのクライマックスがふとん太鼓のパレードである。
10台の太鼓台が房を揺らしながら大小路通りを担がれていく。  写真の太鼓は「西湊」の太鼓で布団の下の小屋根が特徴の「堺型」の布団太鼓である。
 百舌鳥八幡の布団太鼓のような派手さはないが、伝統を守ったしっかりした太鼓だった。10台の中には担ぎ手がか細い若者が中心の太鼓もあり、スタート直後から大きく蛇行し、見物客もどよめく太鼓台もあり、時代の流れを感じる。
 パレードから離れ、懐かしい山之口商店街の筋へ、菅原神社、開口神社、浪花亭も繁盛していた。肉桂餅の「八百源」も「元祖小嶋屋」も健在だった。お土産は、唯一、開店していた「丸市」の斗々屋饅頭(ミニサイズ)を買って帰った。
 がんばれ!堺。

2011年10月12日水曜日

トトロにも原発の手が

 今朝の新聞「赤旗」にスタジオジブリの名プロデューサー鈴木さんが登場。「ジブリの哲学」という本を出版した思いを語っている。
 インタビューの中で、少し前、話題になった社屋の屋上に懸けた横断幕の事を語っている。宮崎監督は「原発はプロメテウスの火だ」と語り、鈴木プロデューサーも「原発というのは完成していないシステム」と認識していたという。
 以前ブログにも書いたが「鉄腕アトム」を原発推進に利用したい電力業界の手が伸びたが手塚プロは一切、これを断ってきた、という話。
 似たような話がジブリにも、鈴木さんは一つ一つ、これらの誘いを潰してきたという。「社の方針として原発はだめだ」と貫いてきたという、いずれも、子供に夢を与える、そして、子供の頃の夢を捨てていない大人にも夢を与え続けてきた二つのプロダクションの活躍を祈りたい。

古本まつり

 四天王寺さんの境内で毎年開かれる「大古本まつり」お目当ては、大阪もの、浪花ものである。初版本や明治の頃のモノはかなりの値段、ぐっと我慢して手頃な物を2~3冊買った。
 「浪花おもちゃ風土記」「グラフ大阪・河内編」、面白そうなのは、和多田勝(故六代目松鶴の甥)さんの「大阪三六五日事典」。大阪で起こった事件、事象を現代から浪花の時代にまで行きつ戻りつ、日暦のように書き並べてある。
 例えば、1月1日、(大正四年の)天王寺動物園が開園、とある。明治時代にも博物館の一部として動物檻があったらしいが動物園としてスタートするに際し動物たちの引っ越しが一苦労、「内本町にあった動物檻から大八車にのせ、年の瀬の松屋町筋を運んだ。」と、この調子で12月31日までをエピソードを交え、日記風に綴っていく。一気に読んでしまいそうなので、1日1ページで楽しみながら読んでいこうと思う。
 古本市を見終え、境内を出ようとすると、読経が流れ、人々が行列をしている。受付を見ると、「万灯院紙衣替え」という仏事らしい。お坊さんの笑顔と子供のキョトンとした顔が面白い。

2011年10月7日金曜日

遙かな河内

 我が家のベランダから見える景色は刻々と変化している。写真は金剛山で左は二上山の片割れである。さらに左に転ずると、信貴、生駒と見えていたのがマンションが建ち、今は生駒のアンテナの先しか見えない。
 先月、古本屋で「幻の河内弁」という本を買った。昭和58年発行、筆者は東大阪在住の人である。詳しくは知らないが、コツコツと河内弁を生きた言葉として残そうとしておられる事が良くわかって感動した。
 しっかりと記憶の中に残っている河内弁、今は使われなくなった河内弁、そんなに遠く離れて暮らしているわけではないのに、、写真の河内の山と同じぐらい、懐かしい。 

2011年10月2日日曜日

1年目の秋

 昨晩も少し開けた窓から金木犀の良い香りが部屋に流れ込んできた。朝は、百舌鳥の高鳴きが聞こえる。本格的に秋本番が、、、そういえば友に誘われてブログを開始したのが去年の秋10月だった。
 初めは、ブログって日記みたいなものだろうと思っていたが、読者やら、コメントはないが「見てるよ!」と電話があったりすると、俄然、意識して文章を考えたりしてしまう事が多々ある。どんなスタイルが良いのか、思案中だが、タイトル通り、見かけは、「ほんわか」だが、中味で、「そうそう、ほんと、々」と頷いて貰えるようなモノにしたいと願っている。
 好きな上方芸能・文化を図書館に通ってコツ、コツと綴っていきたいと思う。           好きなパスタの店・姫松の「ラ・パンキーナ」

2011年9月27日火曜日

若冲は何処に

 豊中の岡町に「東光院」というお寺があります。萩の寺として有名ですが、この寺にブームになっている「伊藤若冲」の鶏の畫があると云う事で、自転車で行った。
寺の案内書には天平年間に行基菩薩により創建された、とある。行基が今の大阪の中津辺りで、火葬の方法を伝授した際、死者の霊を慰めるため、淀川水系に群生していた、萩を供花として霊前に捧げた事が寺の萩の植栽の起源だと云う事らしい。
当日は「萩まつり道了祭」を開催中、という事で結構参拝者も来られていた。
さて、お目当ての「若冲の畫」だが寺務所に聞いても要領を得ない、「寺の奥に収ってあって、私も観た事がない」とベテランらしいおばさんが言う、案内書にも寺宝の仏像や書画の事は載っているが「若冲の畫」の事は触れられていない。
釈然としない気持ちで寺を後にしたが、どうも納得がいかない、
ただ、若冲は近年、といっても、ごく最近(1960年代)にアメリカのコレクターが注目し、再評価がなされた画家である。寺宝と認識されていないのか、と思うがブームといっていいほどの画家でもあるし、本当にあるのだったら公開してほしいと思うのだが。

2011年9月24日土曜日

自然の影絵

 久しぶりに万博公園に。年間パスの更新が主目的で、3,000円は、月2回行けば元が取れる計算であるが去年は十分元をとった、が今年のペースは均すと月1ペース、気候も良くなり、これから取り戻しに行く予定だ。
 本日の1枚、芙蓉の葉だと思うが虫食いの葉っぱの影が映って面白い画像になっている。お目当ての彼岸花は年々少なくなっているようで、珍しい黄色の花も一輪だけだった。
 園内に特別に栽培されていた「藤袴」も今年は咲いていなかった。季節の変わり目は咲く花の数にも出ているようでもう少し待てばコスモスが満開になる。


 

2011年9月18日日曜日

神戸に「小松左京展」を見に行った。高校生の頃、SF小説にハマり、星新一、眉村卓、筒井康隆、そして小松左京の短編集などをよく読んだ。なかでも、左京の本は、荒唐無稽の発想ではあるが、科学的裏付けを上手く配して、いかにもありそうな話に仕立ててあるところが好きだった。
 今回、初期の傑作「日本アパッチ族」の原稿や、作成ノートを見て、その裏付けの凄さに驚いた。物語は、実際にあったクズ鉄泥棒と警察の取り締まりを題材に、飢えに苦しんだ泥棒たちが本当に鉄屑を食料にしてしまう、というものだが、左京氏は、単なる思いつきにさせないために、分子工学から人体の胃壁の酸性にまで綿密に取材、研究している。

 「日本沈没」を書くにあたって、当時超高価だった電卓を買いこみ、日本列島の重さを計算した、という話もある。
大阪万博のプロデュースをやりだした頃から変わっていったように思うが、桂米朝さんらとともに一時期の大阪文化を代表した人だった。

2011年9月15日木曜日

手近に名月




 子供の頃は、里芋、手綱こんにゃく、と俵型の小さなおにぎりを三宝さんにのせてお供えするのが定番だった。花より団子、月より芋が楽しみだった。月に関する思い出は、父親と銭湯に行った帰り道、煌々と照らす月の光と白く凍てついた地道がハッキリと記憶に残っている。


 父親に「あの光はずーっと、昔に光ったのが今、地球に届いてるんやで」と聞きかじった話を自慢げに話すと、「ヘ-え、偉い事しってんねんなー」と感心してくれたのがうれしかった。

2011年9月11日日曜日

特別な九月

 九月九日は私の誕生日です。「苦、苦」につながると、祖母は気にしていたようですが「おとんぼ」の苦労知らずで育ったと云われてきました。私自身は、挫折の子供時代だと思っていましたが長ずるに、九月九日が「重陽の節句」という目出度い日である事を知り、人生の励みにしてきた。


 一昨日、息子から「久保田の碧寿」が贈られてきた。以前友がブログに「娘から特別なワインを贈られた」と面映ゆい気持ちを綴っていたが、私も「敬老の日の祝いではなかろうな?」とメールしたら、「それもあるが、夫婦仲良く飲んでくだされ」と返事してきた。


 12日は仲秋の名月、月が出たら栓を開けようと思う。


2011年9月6日火曜日

風の盆

 台風12号が近づいてきた9月1日は二百十日、昔から「野分け」-野を吹き分ける強い風-がくる季節とされてきた。また、この頃は稲の収穫前の大事な時期で米が主食の日本人にとって一番恐れるものの一つが「野分け」であったのだろう。 だから風を神に見立て、あらぶる神を風と共に送り出す、それが越中八尾の「風の盆」の始まりだと云われている。
 十年近く前に元の職場の研修仲間と訪れた八尾の町は、雨の後の湿った空気に坂道の祭りの灯りがにじんで、石川さゆりの唄の舞台そのものだった。




  そんな、「おわら風の盆」に魅入られた友がいる。今年も台風が近づく中、「明日から行って来るわ!」と電話をしてきた。この祭りの雰囲気に一度でも触れると熱に浮かされたように毎年通う事になる、と友は言う。たしかに、一度しか参加していない私でも、熱病(フィーバ)ではない、静かな、内に秘めた興奮がよみがえる。

 町を埋め尽くす観光客がいるのだが、普通の祭りの歓声はない。胡弓の名手と云われる女性が町を流し始めると皆がその後を追う。

 今年も友は、あの人を追いかけているのだろう。

 

2011年8月28日日曜日

 戦時中なのか、戦後の物のない時分の事なのかよくわかりませんが、「食べるものがない時に、芋の蔓まで食べた」という話はよく聞いた。
 千里中央でよく買い物をする「野菜ソムリエ」の店で、サツマイモの蔓というのを売っていた。かなりの量のひと束で150円。
 水洗いして、そのまま、炒めるなり、煮るなりして食べれます、とあったので、うす揚げと一緒に炒め、麺つゆをかけて食べた。シャキシャキとして旨い。
 食糧難時代を象徴する食べ物のように言われてきたが、ひょっとすると、当時の人は耐え忍んでます、という顔をしながら、内心、「これ、いけるがな」と美味しく食べていたのかもしれない。
 などと思いながら、梅酒のソーダー割で私も美味しく、いただきました。


2011年8月24日水曜日

 福島の原発事故以来、気になっていた事があった。もし、手塚治虫さんが生きておられたら今回の事故をどう思われたかということだ。氏の代表作の一つが「鉄腕アトム」である。アトムは「科学の子」であり、10万馬力の原子力小型モーターを搭載した人型ロボットだった。
 そんな時、タイミング良く昨日の「毎日」夕刊に「科学の子の哀しみ」というルポ記事が載った。手塚さんのマネージャーとして最晩年までの仕事ぶりを知り、現手塚プロの社長をされている方の話である。
 「アトムについては、原子力関係の方からキャラクターとして使いたい、という話がずいぶんありましたが、手塚さんは『原発は安全性が確立されている技術ではない、まして人間が管理している。人間は過ちを犯すものだ』と云って原発関係は一切断っていました」という内容である。
 この記事を読んで、ほっとした気持ちになれた、と同時に、原発建設推進のためには、子供の夢である「鉄腕アトム」まで利用しようとした原発推進勢力の底深い凄さを見た気がした。
 その勢力は、「脱原発」を願う多くの国民の声を無視し、今も原発再稼働を虎視眈々と狙っている。

2011年8月21日日曜日

 一昨日のBS「新日本風土記SP」は-今も日本各地で目撃される妖怪を
訪ねて-という「川口浩探検隊的」な特集だったが、中味は楽しく、かつ郷愁を誘うモノだった。中でも、超現代っ子たちが自分たちの住んでいる街角に妖怪の痕跡を訪ね歩くという企画が面白かった。
 ゴミ捨て場に放置された古いテレビやいたずら書きされて捨てられた家電品が妖怪になるのではないか?と想像を膨らませていく。科学とメディアの現代に生きる子供たちが、こんなにも豊かな情感を持っているのかと感動した。
 登場する大人たちも、子供の頃に見た、(実際に見た!)河童や座敷わらしをごく身近な存在として自然に接していた事が画面を通してすんなり受け入れられる。

 

  そんな中で登場したのが「件」(くだん)の話。体が牛で顔が人間という妖怪で、国の凶事を予言し3日後に死ぬという。実はこの話、かなり昔に小松左京のSF短編「くだんの母」で知っていた。終戦間近の疎開先の名家に、重い病に伏す娘とその母がいて、娘が「近いうちに日本は負ける」と予言し3日後に死ぬ、と云う話だったと思うが、この頃、左京や星新一のSF小説にハマっていた私は、人と牛と書いて件(くだん)と読む、そして、「くだんのはは」は流行した「九段の母」のもじり、だという種明かしに大いに受けたものだった。
  左京氏も妖怪話に題材を録り、書いたものらしいが、番組では、敗戦濃厚の軍部が、この種の話、今風にいえば都市伝説にも、人心を惑わす、と神経を使っていた事が紹介されていた。UFOは信じない私ですが、この種の話は大好きで、かなり信じています。










2011年8月18日木曜日




  お盆休みで帰省中だった息子も仕事に戻り、嫁はんは友達と奈良へ、で暇な私はと、プールは夏季休業中、仕方なく図書館へ、しかし夏休み中の子供に独占されて早々に帰宅。扇風機を目いっぱい回し、溜まった新聞記事のスクラップ作りに。

 目を引いたのが「サマータイム導入に反対」天文台に働いておられる人の記事だった。これまでも国や地方自治体のお声掛かりで一部導入が図られてきたが定着しなかった。今回は原発事故後の電力不足を口実に導入の動きが再燃しているらしい。記事は、南北に長い日本列島、日の出の時刻でも2時間の時差があるのは周知の事実。人間の生活リズムに悪影響があると警告されている。日本の長時間労働に拍車をかけるのでは、という危惧ももっともだ。

そもそも、財界などが長年要望してきたというのが胡散臭い、じっくりと考えるべきだと思う。

 夕方になって「暑かった~」と嫁はんが帰ってきた。「お土産」と貰ったのが写真の「匂い袋」。興福寺で買ったとのことだが-香りでつなぐ支援の輪-とある。生地に福島県の「会津木綿」が使われており、売り上げの一部を義援金に、という京都の香木屋さんのアイデア。大がかりな節電や、なかなか進まない復興支援策、ならば誰にでも、簡単にできるちっちゃな支援も有効打ではと、汗をぬぐいながら思った。

2011年8月7日日曜日

炎天下の楽しみ

  毎年、夏の恒例行事、京都五条坂の陶器市、今年は初日の午前中を目指して出かけた。もう10年以上は通っているが、年々、五条坂を上下する回数が減ってきている。
 今年は、顔馴染み(と云ってもこちら側だけの事だが)を、2~3店のぞき、一輪ざしや、マメ皿を買って終了、汗だくの体と喉に、冷たいビールを注入するため、三条に転進!
 喉を通過するビールで、汗が引くとともに、来年もまた来ようと思ったが、この調子だと、来年は片筋だけになりそうである。
 
                                         

  さて、我が家の「ベランダ・DE・ニシミドーリ」産の葡萄が収穫された。器の寸法が不明なので立派に実ったように見えるが一房、10センチ足らず、まるで盆栽の葡萄である。
  しかし、種は立派に大人サイズで、皮と種を取り出せば、口中に残る実は、ほんの申し訳程度、舌の上に残る。
  ワイナリー経営の夢は小さな実とともに消えていきます。
      オマケです。
  
  昨夜は「淀川花火大会」 ここ、二~三年で、ベランダ南面(大阪市内を望む)は、マンションが林立し、望み薄と思っていたが奇跡的にマンションの間からベストポジションで花火が見られた。
  デジカメの花火撮影は難しい。

2011年8月4日木曜日

  河瀬監督の「はねずの月」の「はねず」にひっかかって終い、書棚の「色々な色」を引っ張り出したり、ついには、東大阪の市民美術センターで開催中の「日本の色 千年の彩展」にまで出かけた。この展覧会は京都の染匠、吉岡幸雄氏が菊池寛賞を受賞した記念に本格的な作品展を、という企画で開催されたものです。
 残念ながら期待した「朱華(はねず)色」の衣装はなかったが源氏物語に題材をとり、平安貴族の女房たちが着ていたであろう単衣や袿(うちぎ)-単衣の上に着る衣などが展示されています。
 圧巻なのはその色です。明治の半ば、化学染料が輸入され、日本古来の植物染料による染物は衰退していくのですが、吉岡氏は、化学染料を一切使わずに平安の色目を再現されているという事です。
                 
 十二単に象徴されるように、薄い絹物を重ねて着る衣装はその一枚一枚の色目の襲(かさね)でもあります。襲の色遣いは春夏秋冬季節ごとに使う色目に約束があり、多彩です。
 会場で一番目を引いたのは、光源氏が最も愛した「紫の上」の衣装です。「紫の上は、葡萄(えび)染めにやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に、御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに」と源氏物語にかかれていますが(「色々な色」から)紫がかった、控えめでありながら、着た女性を引き立てる色遣い、当時、光源氏ほどのプレイボーイともなると、毎年の正月用に付き合っている女性に布を贈るのだそうで今も昔もマメな者がモテルのでしょう。
  さて、はねず色ですが、吉岡氏制作の色見本には「紅花×支子(くちなし)」で色素を汲みだす、とありました。左の写真はニワウメで、はねず、はニワウメの古名だとあります。私の感じでは紅花系の赤よりもこの花の色に近いように思いました。
 オマケです。会場入り口には黒い布を何本も上からアーチ状に垂らしてあります。説明書きにはこの黒色は「憲法黒」と云って江戸時代の剣法家「吉岡憲法」が創った色だそうです。吉岡憲法というのは宮本武蔵との決闘で名高い、吉岡一門の当主で、吉岡家はもともと京都で染物を業としており、武蔵に敗れて後、道場を廃し、本業に戻ったという事で、吉岡氏はその五代目に当たるのだそうです。こういうオマケの話がついてくるのも楽しいものです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2011年7月31日日曜日

 新聞「赤旗」が九電の「やらせメール」をスクープして以来、もしやと思っていた事が明らかになってきた。今度は、県知事が再稼働に道を開かせるための発言要請をし、原子力保安院という「原発」を監視し、規制する立場の国の機関がシンポジウムへの参加動員(もちろん賛成派の)を要請していた。
 電力会社と県知事と原子力保安院という「業界・地方行政・国」ぐるみのヤラセが行われていた事になる。今我々が目にしているこの事態は何処から来ているのかを冷静に考えると、戦後の日米安保体制によって、日本のエネルギー政策がアメリカの意の元に、原子力発電へと進められてきた事にあると思う。地震多発国であるこの国土に原発を林立させるため、過去の地震の記憶、記録は黙殺、改ざんし、地元には巨額のカネをばらまき、高名な学者を買収し、マスコミを広告掲載料で屈服させ「安全神話」を垂れ流し、国民をだまし続けてきた。そして、そのツケは、結局国民が払わせられることになった。
 先月、私の拙文が『毎日』の投稿欄に掲載された。ヒロシマ、ナガサキ、そして第五福竜丸と死の灰の犠牲になり「原爆許すまじ」と世界に訴えてきた、その日本が福島の原発事故で死の灰の恐怖を世界に拡散している。この無念、憤りを率直に記したものだった。その直後に、作家の村上冬樹氏が「われわれ日本人は、【非現実的な夢想家と云われようと】核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった」という趣旨の声明を出された。全くの同感である。
 大きな犠牲は払っているが、今だからこそ、我々日本人は、原発ノーの声を、この国の原発を推進してきた、そして今なお、原発利権にしがみつこうとしている、モノ達に、つきつけるべきだと思う。
そんな思いで、大阪で開かれた集会に友と参加してきた。

2011年7月28日木曜日

 今年の天神祭の目玉と思った「しろ蒸し」は手に入らなかった。薫々堂の店主によれば私鉄の情報誌に写真が載ったためか、午前中に早々に売り切れました、との事、諦めて、雑踏の天神橋筋商店街を後にした。
 そこで、お慰みに、昔の大坂の夕涼みをいくつか紹介します。
 
穴門の西瓜
 難波御堂(今の南御堂)の石垣の中に窟を開け、上下左右、切り石をもって造りたれば夏日といえども暑気徹さず、清涼なり、ここで西瓜を売る店あり、穴門の西瓜として名高し。
涼み按摩
 明治の頃、堺の宿院でやっていた。広場に床几を出し、名前を書いた角提灯を出し、世間話をしながら疲れをとったという。
大川納涼
 天満橋下流から難波橋の間、その頃は砂洲があり、相撲や鬼ごっこが出来た。濱々の雁木には通舟(小型納涼船)が繋がれ、客待ちをしていて、まことにのんびりしたものだった。
 

2011年7月24日日曜日

  堺の奇祭「鯨まつり」が57年ぶりに復活!との新聞報道があった。私の愛読書(と、いっても図書館での)の「大阪春秋」に以前記載されていたのを思い出し、コピーを探した。
 堺には昔、3大奇祭というのがあって、三韓まつり、石津やっさほっさいまつり、と、この鯨祭りである。堺の出島の祭りで、起源は鎌倉時代に遡るらしいが祭りそのものは不定期で一番最近が昭和29年8月1日に行われたということだ。
 堺と鯨の関係は、古代はともかく、堺の沖に鯨が現れた事はなく、昭和44年に石津の漁師が尼崎沖でホッキョク鯨を捕獲し、石津浜に陸揚げし見物に供したが、腐敗が進み、悪臭がしたということだ。これは新聞にも載っている。
 鯨は、太地町の職人を呼んで解体し、全身骨格は今も太地町の鯨博物館にあるそうだ。

 堺出身の与謝野晶子もこの歌を残している。
  
   ちぬの海 いさな寄るなる をちかたは
      ひねもす霞む  海恋しけれ

2011年7月17日日曜日


八尾常光寺の河内音頭櫓
    河内の八尾に生まれながら若い頃は、’河内者(モン)’と見られるのを避けていたように思う。河内音頭にしても、小学生の頃は親に連れられ、近所のお寺の境内に立つ櫓の下で、見よう見真似で踊ったものだが、昭和30年代後半、鉄砲光三郎という人が「民謡・鉄砲節」というモノを持ちこみ、これが全国的に流行り、瞬く間に何処の盆踊りも「鉄砲節」一色になった。
 しかし、その歌の内容は、そろそろ色気の付いてきた少年には刺激の強い、猥雑なモノだった。そこに輪をかけたのが’今東光です。天台宗の高僧にまでなりましたが、八尾にあった貧乏寺「天台院」の住職だった頃に書いた河内モノが映画になったり、テレビで取り上げたりして全国的に有名になりました。しかし、これも又、原作は脚色され、河内人の猥雑さのみが強調されたモノでした。
                    

これが現代の河内音頭祭り
 又、この時代は、八尾も大阪のベットタウン化し、農地も減り、近代化していく中で、地元(村)の祭り(蒲団太鼓)も減り、盆踊りもなくなり、村社会を形成できなくなっていった頃で、私は八尾に住みながら「河内」から遠ざかっていきました。  そして50年、今も八尾に住む同級生は、電話口で河内弁で吼えまくり、私の結婚式に一座を率いて河内音頭を披露してくれた友人は、本業そっちのけで音頭取りとして櫓を掛け持ちしていた。その友人も亡くなり、彼が舞台衣装で締めていた帯は形見として私の手元にある。

                        四五人に 月落ちかかる 踊かな  蕪村

2011年7月10日日曜日



  今年で3回目の万博公園「早朝観蓮会」です。象鼻杯は早々にあきらめて(朝6時から並んで整理券を購入しなければならないので)撮影に専念、というのは嘘で、花より団子ならぬ、美人能管師「野中久美子」さんの演奏がお目当て、です。
  
  この蓮、今までで一番光の取り込み具合がいい、と気にいっています。
  

説明を追加

   はす池の中のあずま屋で早朝7時から演奏されます。今年は上手くあずま屋に入れたので目の前で聴くことが出来ました。
 爽やかに演奏されているように見えますが横笛というのは大変力のいるものだそうで、細い指先が穴から出てくる息をピシャ、ピシャと押さえこむように見えます。
 今年も名奏の後、西洋風の日傘をさして帰って行かれました。
 

2011年7月9日土曜日

夏の定番

  少し小さめだがベランダのグリーンカーテンのゴーヤが採れた。品種なのか濃い緑色にはならないが、待ち切れずに食べることに。最初は定番のゴーヤチャンプル。
 やはり採りたてという事で皮が軟らかい!かといって炒め崩れしない、相当な苦みだが旨い!次の収穫(下の写真)は「ゴーヤのナムル」に決めているので、うまい塩と、ごま油を調達してくるつもりです。
 
 次の出番を待っているゴーヤです。その右は粒も大きくなりだした葡萄(たしかデラウエアだったはず。)です。
 去年は色づきだした途端に鳥に突かれたので今年は早めに袋をかけるつもりです。全部で8房あります。

2011年7月6日水曜日

 何を隠そう私は「空モノ」マニアでして、昨日、新聞でも報道されていた「ボーイング787」という新型機が伊丹空港にお目見えする、というので近所という事もあり見に行きました。
 早朝(7:30到着)にもかかわらず7時前から展望台には100人を越えるマニアがカメラを構えていた。30分遅れで到着した機体は牽引車に牽かれて我々の目の前に。
 新素材を採用したり、空力学的な構造(チラッと写っている主翼の先端-鳥の羽根の様な)などで燃費が大幅に向上しているらしい。
 世の中、エコロジー全盛である。

 で、オマケとしてグリーンの機体色の「全日空」機。「eco first 」とマーキングされているがどこら辺が「エコ」なのかよくわかりません。この機体は「ボンバルディア」という飛行機で、高知で前輪を出せずに着陸したり、片方のエンジンが故障で伊丹に引き返したり、とにかく故障の多い飛行機です。
 墜落等の重大事故はないものの、計器の異常とかで引き返すのは毎月のように報告されており、何故こんな飛行機が依然として飛び続けているのか不思議です。
 

2011年7月2日土曜日

  今日7月2日は「半夏生」子供の頃、友達の農家では特別な日、というか農作業(田植え)の頃だったようで、この頃になると一緒に遊べなくなったような記憶があります。
 そういえば「春事(はるごと)」といって農家の一年の仕事始めに英気を養うという意味で、田んぼで重箱に詰めた御馳走を食べているのを少し羨ましい様な気持ちで見ていた事もありました。
 勤め人の家の我が家と、農家の家の友達の「子供同士」の生活の違いを、子供心に「別なんや」と感じていました。


上の写真は「片白草」、葉の裏が白粉を塗った様に白いから、という事です。発音は同じ「はんげしょう」。でも、河内では「半夏生」は【はんげっしょ】と短く発音していたと思います。
 さて、我が家の「グリーンカーテン」ずいぶんと成長し、カーテンらしくなり、ゴーヤも15cm程になってきました。黄色い花に蜂のような昆虫もぶんぶんと飛び回り、最初の頃の筆での受粉の手間もいらなくなりました。
  3月の「東日本大震災」以降の復興の遅れと、いまだ収束の目途が立たない原発の状況に苛立ちを覚えつつ日を過ごすばかりですが、5月来取り組んできた「退職者会」の救援カンパが会員の協力により、予想を越えて集まった。感謝、感謝である。
 
 1年の半分を過ぎた、という思いは被災地の皆さんには、まだまだ持ち得ないだろうと思うが、我々は「心一つ」にして残り半年、そしてその先も頑張りましょうと言うしかない。