2011年7月31日日曜日

 新聞「赤旗」が九電の「やらせメール」をスクープして以来、もしやと思っていた事が明らかになってきた。今度は、県知事が再稼働に道を開かせるための発言要請をし、原子力保安院という「原発」を監視し、規制する立場の国の機関がシンポジウムへの参加動員(もちろん賛成派の)を要請していた。
 電力会社と県知事と原子力保安院という「業界・地方行政・国」ぐるみのヤラセが行われていた事になる。今我々が目にしているこの事態は何処から来ているのかを冷静に考えると、戦後の日米安保体制によって、日本のエネルギー政策がアメリカの意の元に、原子力発電へと進められてきた事にあると思う。地震多発国であるこの国土に原発を林立させるため、過去の地震の記憶、記録は黙殺、改ざんし、地元には巨額のカネをばらまき、高名な学者を買収し、マスコミを広告掲載料で屈服させ「安全神話」を垂れ流し、国民をだまし続けてきた。そして、そのツケは、結局国民が払わせられることになった。
 先月、私の拙文が『毎日』の投稿欄に掲載された。ヒロシマ、ナガサキ、そして第五福竜丸と死の灰の犠牲になり「原爆許すまじ」と世界に訴えてきた、その日本が福島の原発事故で死の灰の恐怖を世界に拡散している。この無念、憤りを率直に記したものだった。その直後に、作家の村上冬樹氏が「われわれ日本人は、【非現実的な夢想家と云われようと】核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった」という趣旨の声明を出された。全くの同感である。
 大きな犠牲は払っているが、今だからこそ、我々日本人は、原発ノーの声を、この国の原発を推進してきた、そして今なお、原発利権にしがみつこうとしている、モノ達に、つきつけるべきだと思う。
そんな思いで、大阪で開かれた集会に友と参加してきた。

2011年7月28日木曜日

 今年の天神祭の目玉と思った「しろ蒸し」は手に入らなかった。薫々堂の店主によれば私鉄の情報誌に写真が載ったためか、午前中に早々に売り切れました、との事、諦めて、雑踏の天神橋筋商店街を後にした。
 そこで、お慰みに、昔の大坂の夕涼みをいくつか紹介します。
 
穴門の西瓜
 難波御堂(今の南御堂)の石垣の中に窟を開け、上下左右、切り石をもって造りたれば夏日といえども暑気徹さず、清涼なり、ここで西瓜を売る店あり、穴門の西瓜として名高し。
涼み按摩
 明治の頃、堺の宿院でやっていた。広場に床几を出し、名前を書いた角提灯を出し、世間話をしながら疲れをとったという。
大川納涼
 天満橋下流から難波橋の間、その頃は砂洲があり、相撲や鬼ごっこが出来た。濱々の雁木には通舟(小型納涼船)が繋がれ、客待ちをしていて、まことにのんびりしたものだった。
 

2011年7月24日日曜日

  堺の奇祭「鯨まつり」が57年ぶりに復活!との新聞報道があった。私の愛読書(と、いっても図書館での)の「大阪春秋」に以前記載されていたのを思い出し、コピーを探した。
 堺には昔、3大奇祭というのがあって、三韓まつり、石津やっさほっさいまつり、と、この鯨祭りである。堺の出島の祭りで、起源は鎌倉時代に遡るらしいが祭りそのものは不定期で一番最近が昭和29年8月1日に行われたということだ。
 堺と鯨の関係は、古代はともかく、堺の沖に鯨が現れた事はなく、昭和44年に石津の漁師が尼崎沖でホッキョク鯨を捕獲し、石津浜に陸揚げし見物に供したが、腐敗が進み、悪臭がしたということだ。これは新聞にも載っている。
 鯨は、太地町の職人を呼んで解体し、全身骨格は今も太地町の鯨博物館にあるそうだ。

 堺出身の与謝野晶子もこの歌を残している。
  
   ちぬの海 いさな寄るなる をちかたは
      ひねもす霞む  海恋しけれ

2011年7月17日日曜日


八尾常光寺の河内音頭櫓
    河内の八尾に生まれながら若い頃は、’河内者(モン)’と見られるのを避けていたように思う。河内音頭にしても、小学生の頃は親に連れられ、近所のお寺の境内に立つ櫓の下で、見よう見真似で踊ったものだが、昭和30年代後半、鉄砲光三郎という人が「民謡・鉄砲節」というモノを持ちこみ、これが全国的に流行り、瞬く間に何処の盆踊りも「鉄砲節」一色になった。
 しかし、その歌の内容は、そろそろ色気の付いてきた少年には刺激の強い、猥雑なモノだった。そこに輪をかけたのが’今東光です。天台宗の高僧にまでなりましたが、八尾にあった貧乏寺「天台院」の住職だった頃に書いた河内モノが映画になったり、テレビで取り上げたりして全国的に有名になりました。しかし、これも又、原作は脚色され、河内人の猥雑さのみが強調されたモノでした。
                    

これが現代の河内音頭祭り
 又、この時代は、八尾も大阪のベットタウン化し、農地も減り、近代化していく中で、地元(村)の祭り(蒲団太鼓)も減り、盆踊りもなくなり、村社会を形成できなくなっていった頃で、私は八尾に住みながら「河内」から遠ざかっていきました。  そして50年、今も八尾に住む同級生は、電話口で河内弁で吼えまくり、私の結婚式に一座を率いて河内音頭を披露してくれた友人は、本業そっちのけで音頭取りとして櫓を掛け持ちしていた。その友人も亡くなり、彼が舞台衣装で締めていた帯は形見として私の手元にある。

                        四五人に 月落ちかかる 踊かな  蕪村

2011年7月10日日曜日



  今年で3回目の万博公園「早朝観蓮会」です。象鼻杯は早々にあきらめて(朝6時から並んで整理券を購入しなければならないので)撮影に専念、というのは嘘で、花より団子ならぬ、美人能管師「野中久美子」さんの演奏がお目当て、です。
  
  この蓮、今までで一番光の取り込み具合がいい、と気にいっています。
  

説明を追加

   はす池の中のあずま屋で早朝7時から演奏されます。今年は上手くあずま屋に入れたので目の前で聴くことが出来ました。
 爽やかに演奏されているように見えますが横笛というのは大変力のいるものだそうで、細い指先が穴から出てくる息をピシャ、ピシャと押さえこむように見えます。
 今年も名奏の後、西洋風の日傘をさして帰って行かれました。
 

2011年7月9日土曜日

夏の定番

  少し小さめだがベランダのグリーンカーテンのゴーヤが採れた。品種なのか濃い緑色にはならないが、待ち切れずに食べることに。最初は定番のゴーヤチャンプル。
 やはり採りたてという事で皮が軟らかい!かといって炒め崩れしない、相当な苦みだが旨い!次の収穫(下の写真)は「ゴーヤのナムル」に決めているので、うまい塩と、ごま油を調達してくるつもりです。
 
 次の出番を待っているゴーヤです。その右は粒も大きくなりだした葡萄(たしかデラウエアだったはず。)です。
 去年は色づきだした途端に鳥に突かれたので今年は早めに袋をかけるつもりです。全部で8房あります。

2011年7月6日水曜日

 何を隠そう私は「空モノ」マニアでして、昨日、新聞でも報道されていた「ボーイング787」という新型機が伊丹空港にお目見えする、というので近所という事もあり見に行きました。
 早朝(7:30到着)にもかかわらず7時前から展望台には100人を越えるマニアがカメラを構えていた。30分遅れで到着した機体は牽引車に牽かれて我々の目の前に。
 新素材を採用したり、空力学的な構造(チラッと写っている主翼の先端-鳥の羽根の様な)などで燃費が大幅に向上しているらしい。
 世の中、エコロジー全盛である。

 で、オマケとしてグリーンの機体色の「全日空」機。「eco first 」とマーキングされているがどこら辺が「エコ」なのかよくわかりません。この機体は「ボンバルディア」という飛行機で、高知で前輪を出せずに着陸したり、片方のエンジンが故障で伊丹に引き返したり、とにかく故障の多い飛行機です。
 墜落等の重大事故はないものの、計器の異常とかで引き返すのは毎月のように報告されており、何故こんな飛行機が依然として飛び続けているのか不思議です。
 

2011年7月2日土曜日

  今日7月2日は「半夏生」子供の頃、友達の農家では特別な日、というか農作業(田植え)の頃だったようで、この頃になると一緒に遊べなくなったような記憶があります。
 そういえば「春事(はるごと)」といって農家の一年の仕事始めに英気を養うという意味で、田んぼで重箱に詰めた御馳走を食べているのを少し羨ましい様な気持ちで見ていた事もありました。
 勤め人の家の我が家と、農家の家の友達の「子供同士」の生活の違いを、子供心に「別なんや」と感じていました。


上の写真は「片白草」、葉の裏が白粉を塗った様に白いから、という事です。発音は同じ「はんげしょう」。でも、河内では「半夏生」は【はんげっしょ】と短く発音していたと思います。
 さて、我が家の「グリーンカーテン」ずいぶんと成長し、カーテンらしくなり、ゴーヤも15cm程になってきました。黄色い花に蜂のような昆虫もぶんぶんと飛び回り、最初の頃の筆での受粉の手間もいらなくなりました。
  3月の「東日本大震災」以降の復興の遅れと、いまだ収束の目途が立たない原発の状況に苛立ちを覚えつつ日を過ごすばかりですが、5月来取り組んできた「退職者会」の救援カンパが会員の協力により、予想を越えて集まった。感謝、感謝である。
 
 1年の半分を過ぎた、という思いは被災地の皆さんには、まだまだ持ち得ないだろうと思うが、我々は「心一つ」にして残り半年、そしてその先も頑張りましょうと言うしかない。

2011年7月1日金曜日

  こちらは聖徳太子が始めた最古の夏祭り、だそうですが大阪の夏祭りの幕開け、「愛染まつり」です。派手な「宝恵かご」で、最近盛り上がっています、というか多いに売出し中、という事です。混雑を避け朝一番でお参りしてきました。
 「愛染さん」と親しみをこめて呼ばれるが正式には「愛染堂 勝鬘院」聖徳太子が建てた四天王寺の支院-施薬院であると説明書にあります。愛染さんですから本尊は愛染明王ですがこの寺にはもう一つ仏さんがおられます。

  金堂の後ろにある多宝塔の本尊が「大日大勝金剛尊」、大日如来ですが、秀吉が戦勝祈願のため再建させた多宝塔堂内に、贅を尽くして造像させたもので、十二本の腕を持つ如来です。
  一年に三日だけ、愛染まつりの期間のみ開帳され、堂内の壁画、柱画とともに重文、秘仏です。
  仏像、壁画、柱画は四百年ほどの歴史があり、柱画は三年がかりで保存修復中との事でした。
  暗いお堂の中で金色の光背に照らし出されたお顔は、端正で、やさしく、唇の真紅がなんとも艶めかしい如来さんです。
 秘仏の割には管理はおおらかなようで、折りしも、開帳に合わせてボランティアの若者が堂内の清掃を行っていたが、重文の壁画や柱画の周りを、恐るゝ拭き掃除をしていた。
 写真撮影も禁止なのかどうかよく分からない、というか無粋な禁止貼紙の類もなかったので、これ幸いと撮影させてもらいました。私もあと半年の無事をお祈りしてきた。