2012年10月20日土曜日

喰いつきのいいプラスター

11月に沢山の行事を控え、ブログ更新がついつい、滞る。
毎週金曜日の関電前抗議行動も何とか参加するように、気持ちを切り替えているのだが、月に1回が精いっぱい、という感じ。
 昨晩なんとか参加したが少し参加者が減ってきているような気がして、ほぼ精勤で参加している友に訊くと「先週はもう少し少なかった。でも、続けることが大事」と云っている。  
 来月11日には、東京で100万人を結集するらしい、全国でもこれに呼応して集会が持たれる。歴史的な一日になるかもしれない。
 で、この写真の友が掲げるプラスター、チェルノブイリ周辺でツバメの異常個体が現れているそうで、野鳥図鑑等から探し出してプリントアウトして作ったとの事。昨晩も早速、参加者の女性から質問、丁寧に答えていた。その次は、背の高い中年の外国人男性、盛んに指さし、連れの女性に聞いている。「チェルノブイリ・スパロー」男性は、分かったのか、分からないのか「オー」と頷いていた。
 前期高齢者の我々に、1時間半のシュプレはキツい。私は友に貰った鳴子で参加している。

2012年10月8日月曜日

11月の行事の下見で堺に行った。「堺まつり」などに何回かは来ているが、大浜辺りは本当に久しぶりだ。写真の旧堺灯台もきれいに改修されているが、六角形の白い姿はそのままだが、周辺は見事に昔の面影はない。
 昭和50年ごろ、この堺港の船着き場から臨海の埋め立て地の工場護岸にチヌ釣りに出かけたものだ。
 渡船屋のオヤジは、護岸に着くと「会社の見回りの車が来たら、頭低くしてや」と言い残し港に帰っていく。こっちはお金を払って釣りに来ているのに、「まるで、闇夜の泥棒みたいや」と文句を言ったものだ。それでも、五時に仕事が終わると、潮時を選んでよく通った。 写真の右前方の埋め立て地には当時、新日鉄や日立の工場が並び、高炉の高い煙突が林立していた。夜釣りの時は、工場のパイプ群を照らす照明や、高い煙突の先の赤い警告灯の点滅が釣れない時間の慰めのようだった。ちょっと前、「工場萌え」とかで夜の臨海工場群を写真に撮るのが流行ったが、30数年前に同じ感覚を味わっていたのかもしれない。
 堺で勤めた1970年から1980年の10年間は、まさに高度成長期から1980年の高度成長の終焉期の入り口に至る時期に重なる。新日鉄の高炉は無くなり、日立造船も去った。その後、期待され入ったシャープの太陽光パネル工場も本社の不況が影を落とす。大阪府は、広大な未利用地を工業生産地帯から、学術、環境産業地帯にと考えているようだ。
 かってNHK大河ドラマは自治都市を目指した堺を「黄金の日々」で描いた。権力に敢然と立ち向かった堺人の気概が堺にも、大阪にも、いま必要ではないだろうか。河内人として生まれ、人生の割と重要な時期を堺で過ごした(仕事中心ではあるが)私の思いである。