2012年2月29日水曜日

 退職者会のニュースを作り終え、時間があったので、大阪歴史博物館に「刀装・根付細密工芸の華」展を見に行った。
 大坂の町人文化の一つでもある細工物に名人、上手と言われた職人が多く生まれた江戸中期、これも大坂町人で刀剣・刀装具を商う、稲葉通龍という人物が「装剣奇賞」という本を刊行した。
 今回はこの本を展示するとともに、ここに記載された名人たちの作品も併せて展示している。短い時間だったが堪能して、帰り間際に大きなガラス窓の外を見ると、「難波宮」遺跡が見える。
 写真の左奥、工事中の辺りが昭和40年、初めて勤務した職場があった場所だ。40数年前の事を思い出しながら、帰宅し、例の「大阪三六五日事典」の2月26日のページを開くと、「聖武天皇、難波を都とす(天平16年 744年)」とあった。
 大坂は三度、都となっている。仁徳天皇による高津宮、孝徳天皇による難波長柄豊碕宮、そして難波宮、何度も都が置かれたのは何故か?大阪湾という外国に開かれた土地であった事が大きな理由ではなかろうか、という事らしい。
 大阪の地盤沈下が言われて久しい、現代の難波の港、関空は水没寸前だ。町中の暖簾も降ろされ、大木戸も閉まったまま、今こそ、この政治、社会の閉そく状況の真の原因を明らかにし、大商人を助けることではなく、町人の懐を暖かくする政治が必要だ。それでこそ難波に春がやってくる。いや、来てほしい。

2012年2月19日日曜日

 齢の所為にはしたくないがギックリ腰の痛みは、なかなか引いてくれず風邪も治りが遅い。
そういえば、ここ2~3年、冬場のパッチが手放せない、昔は粋がって冬場でも着けなかったのに。最近のユニクロのヒートテックが流行りだしてズボンのごわごわ感がなくなり、愛用するようになった。
 特に今年に入ってからの寒波にはユニクロのヒートテックでは間に合わず、昔、母親が毎年のように贈ってくれたのに、着けもせずタンスに詰め込んでいた白いパイル地の股引を引っ張り出して着るようになった。
 その母親も亡くなって、まもなく8年になる。パッチの温かさと一緒に母親の気遣いを想い出している。
                   (写真は、NHK「カーネション」でお馴染みの岸和田・だんじり祭りで着用する股引です)


2012年2月12日日曜日

 週明けに「ぎっくり腰」になり、3日間寝込んでいたが、やっとパソコンの前に座れるようになったと思ったら、風邪をひき、散々な1週間だった。
 外に出かける事も出来ず、何かネタはないかと思い、例の「大阪365日事典」から、いくつか興味をひくネタを。
 
2月7日(1919年 大正八年)
職業紹介所 誕生
 昔は労働者(当時は奉公人)を探す場合は、口入屋の世話になった。明治の末ごろには大阪市内に350軒近くもあったという。大正8年、前年に起こった「米騒動」の所為で、失業者も多く出て、大阪市が救済事業の一つとして支設の職業紹介所が誕生した。
 大正10年には営利目的の紹介を規制した職業紹介法が制定され、「口入屋」は落語の中だけに残った。  

2月10日(1958年 昭和33年)
浜寺公園接収解除
 かって大阪の人々の夏の楽しみは色々あったが、海水浴と云えば、「浜寺」が定番、万葉の昔から海のきれいなことと浜辺の松の美しさに定評があった。よって、大阪府下で一番最初に公園に指定され、今も連綿と続く「浜寺水練学校」(通称ハマスイ)も開設され、大いに賑わったという。
 ところが終戦後、進駐軍がこの地を全面接収、松林を伐採し、派手なペンキを塗った宿舎が建てられた。人々は、そんな建物を横目に見ながら、手拭いと褌とはじき豆の入った小さな袋をぶら下げ、下駄ばきで海水浴場に通った。
 昭和27年、日米講和条約が結ばれ、次々と接収は解除されたが浜寺だけは一向に返還されず、戻ってきたのが昭和33年のこの日であった。しかし、返還の喜びもつかの間、36年から一帯は臨海工業地帯となって、松原も、海も遠くなってしまった。