2016年7月22日金曜日

昭和生まれの気骨を!

 昭和を代表する放送界の巨星が相次いで亡くなった。という表現は余りに世俗的すぎる。私流に云えば、かたや我がヰタ・セクスアリス形成に大いに影響を及ぼした「11PM]の名司会者・巨泉さんであり、かたや江戸っ子の粋、大人のあり方を教えてくれた粋人・六輔さんである。
 共に隆盛期のテレビ文化を創った(永さんは後にラジオ文化に移る)方であった。その巨泉さんの「遺言」がネット上でいま話題になっている。巨泉さんが「週刊現代」に連載されていた『今週の遺言』(世相批評的なコラム)の最終回の文章ことである。
 亡くなる直前に発売されており、私はその内容を誰かのブログ
 で知った。丁度その時期たたかわれていた参院選に向け「巨泉さんの最後の言葉を拡散して下さい!」という趣旨で「今週の遺言」を紹介していた。
 その「遺言」の内容とは「今のぼくにはこれ以上の体力も気力もありません。だが今も恐ろしい事や情けない事、恥知らずな事が連日報道されている。書きたい事や言いたい事は山ほどあるのだが、許してください。しかしこのままでは死んでも死にきれないので、最後の遺言として一つだけは書いておきたい。安倍晋三の野望は恐ろしいものです。選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせて下さい。7月の参院選挙、野党に投票して下さい。最後のお願いです」というものだった。
 今回、TV各局は特集コーナーでその死を報じ、この遺言も紹介した。だが最後の部分、「・・・安倍晋三の野望は恐ろしいものです。~野党に投票して下さい。最後のお願いです」という部分を意図的にカットして放送したのである。
 巨泉さんが亡くなったのは12日、その死が公表されたのが20日、参院選挙はとっくの昔に終わっていたのである。公選法も関係ない、にも拘らずTVの申し子、TV界の恩人のこの言葉を正確に伝えなかった。(ニュース23は紹介したとの情報もあるが)恩を仇で返すとはこの事ではあるまいか。
 それにしても人は何故、亡くなる前に見事な本性披露(見当違いの言い方かもしれないが)をするのだろうかと思う。
 奇しくも11PMの各曜日の司会者であった藤本義一さん、愛川欣也さんらも「平和」や「憲法」そして報道の自由について多くの言葉と行動を残しておられる。
 藤本義一さんは、「九条の会・おおさか」の呼びかけ人の一人であった。黒田前大阪府知事の「お別れする会」では日本共産党不破議長(当時)や桂米朝さんらと一緒にお別れの言葉を述べられていた。
 また愛川欣也さんはキャスターを務めていた番組の中で日本国憲法の素晴らしさを「我々は戦争しない国なんだ、ということでほかの国から尊敬されれば、それが国を愛することだと、僕は思うんです」と述べ、また放送人として、「僕は言いたい事を言う、そういうスタンスでずっとやって来たわけだから、いまさらそれを変えられないんですよ」と圧力に屈しない心意気を語っていたという。
 昭和は遠くなりにけり、なんてチャラい言い方では済まない。時の権力に屈せずモノを言う人が消えていく。
藤本義一
 「先ず戦争を知っている人が戦争を止めないかんのやな」
大橋巨泉
 「戦争とは爺さんが始めて、おっさんが命令し、若者たちが死んでゆくものだ」
愛川欣也
 「戦争というのは、いちばん弱い者のところにダメージを与えるように出来ているのです。だからこの憲法による幸せの恩恵についてじっくり考えて、守っていかないと未来は危ないよ、と言いたいのです」とそれぞれ昭和生まれの気骨を述べている。
 我々も昭和生まれの中核として続かなければと思う。 


2016年7月16日土曜日

あなたの夢をあきらめないで!

 参議院選挙が終わった。応援した共産党は議席を倍増(改選3議席から6議席に)させ、全国32の一人区の11選挙区で野党統一候補が勝利した。この意味は大きい。大きいとは思うのだが大阪選挙区で「わたなべ結」さんが惜敗し、結局、自民・公明・お維新の改憲勢力が4議席を占めてしまって、さすがにがっかりである。
 とりわけ「お維新」は、わたなべ候補の追い落としのために、ついこの前まで大阪都構想反対であった自民党堺市議の女性市議を「お維新」二人目の候補としてぶつけてきた。選挙中は官邸サイドの差し金とか、もう一人の「お維新」候補との不仲を演出したりという高等戦術でまんまと二議席目を獲得してしまった。
 ホンマにがっかりや、大阪なんて嫌いや、という声も聞こえてくるようだ。でもここで大阪の人間が諦めたら、それこそ彼らの思うツボではないかと思う。
 私が悲観的になったり、やけっぱちになったりした時、引っ張り出す新聞記事がある。2006年の教育基本法の改悪に際し、詩人の辻井喬氏が『いま一番の危険は我々が絶望する事』として「僕は憲法をめぐる状況も含めて、全然、悲観していないんです。彼らは、どっかで必ずへまをやりますから。小泉前首相が総選挙で大勝したのも、政治を変えてほしい人が多かったからですね。見事にだまされた訳ですが、そういうことは、そんなに長くは続かないものです。」と語っている。
 大阪府知事だった黒田さんは3期目の選挙で敗れた時、「この世にも勝利にまさる偉大なる敗北ありと悔ゆることなし」と詠まれたが、この意気に感じようではないか!と自らの気持ちを奮い立たせてはいるが,まだもう少し時間が欲しい、という気持ちもないではない。
 で、その「お維新」が維新スピリッツを全国に広げるとして「おおさか維新」の名前を昔の「日本維新の会」に戻すようだ。余談だが阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」は最初は「大阪タイガースの歌」(作曲:古関裕而・作詞:佐藤惣之助)というタイトルだったが球団名変更に伴い、「六甲颪(おろし)」に替えられて今の不甲斐ない状態に至っている。ちょっとスッキリしましたか?関係ないか!

2016年7月9日土曜日

忘れないでおこう

 投票結果の如何に関わらず、明日の夜8時になれば冷静な判断は多分できそうにもないので今のうちに自分の気持ちを確認しておこうと思う。
 なぜこんな事を言うかといえば2~3日前の毎日だったか朝日だったか読売だったか(いつも行くプールで読む新聞)の参院選中盤の世論調査の結果が出て、全国的には1~2%の支持率の「お維新」が府内では20%を超える支持率だったという内容を見たからである。
 維新の党分裂からおおさか維新の会結成に至る経緯、とりわけ政党交付金の処理をめぐるあくどい工作(長谷やんブログyamashirodayori 4月14日ーお維新の虚言とマネーロンダリングに詳しく)をしたのは昨年末、わずか半年前のことである。こんな政党をなぜおおさか府民は支持するのか、納得いかないと思うからである。
 お維新の松井代表は「政治にまつわるお金の使途を透明化」とビラに堂々と書いている。安倍首相は昨年9月の国会終了直前、「法案(戦争法案)を強引に成立させても、来年夏の参院選には『もう忘れちゃいましょう』『そんな事もあったね』とすることが大事」と側近に漏らしたという事だ。(『朝日』2015・9・9)
 これだけ見え見えの事をしていながら、これだけ解りやすいのに、と思うのだが。ただしこれらの事は一般マスコミでは報じない。フェイスブックやツイッターのSNSの世界でのことだ。
 しかし、今度の選挙、これまでの選挙と大きく違うところがある。それは「自民公明・お維新など補完勢力VS四野党+市民連合」という対決構造にある。安倍首相が最も恐れた野党共闘を実現させたのが「野党は共闘!」との広範な市民・国民の声である。
 昨年秋、国会で安保法制が強行採決させられた数日後、大阪駅前で開催された抗議の集会で一人の若い女性が「19日の夜の光景を見て希望しか湧かないんです」と言い切った。SELDsの奥田さんは「私たちは決して今の政治家の方の発言や態度をわすれません。『三連休を挟めば忘れる』だなんて国民を馬鹿にしないでください。むしろ、そこから始まっていくのです」と云った。そしてこの声、行動は持続した。
 その一つの例が「保育所落ちた、日本死ね!」と書いた一女性の声がネット上で共感を呼び、安倍首相のそっけない答弁にたちまち国会をデモが取り巻き、あっという間に署名が積み上げられた。国民は安倍が目論んだ「そんな事もあったね」とはさせなかったのだ。
 重ねて言うが明日の結果の如何に関わらず、全ては又ここから始まる。安倍が笑おうが、泣こうが、松井が泣こうが、笑おうが、身を切るといった者が政党交付金を分捕り、舛添問題にフタをし、甘利疑惑を辞職したからここまでとし、都合の悪い事は選挙でリセット、都合のよい事は信任を得たから、とさせてはならない、忘れてはならないと思う。同時に、野党共闘も選挙が終わったからといって共産党が提案した「国民連合政府」構想について引き続き協議していく事が求められる。「野党は共闘!」と応援してくれた市民や国民への約束であるからだ。
 今、大阪駅前の最後の訴えを聞いて帰って来た。平松前市長、絵本作家の長谷川さん、落語家の竹林さんらが時間ギリギリまで応援スピーチをされ大いに盛り上がった。






2016年7月6日水曜日

想ひで写真館

 朝ドラ「とと姉ちゃん」の内容もさることながら番組最後の「あなたの家族写真」のコーナーを楽しみにしている。
 「とと姉ちゃん」の時代設定に合わせ、視聴者から昭和時代の家族写真を募集し、日替わりで紹介している。どの写真も白黒でセピア色した写真である。
 実家にも昭和20年代後半から30年代半ば頃の写真が割と残っている。当時、我が家にはカメラなどというものはまだ無かった。が当時、祖母は典型的な世話やきで実家の前の大きな工場に地方から働きに出てきた青年の住む処を世話したり、果ては結婚の世話までしたりしていて家にはいつもそんな若い男(ひと)が出入りしていた。
 カメラ好きの青年がよく写真を撮ってくれた。この写真も近所の仲のいい子供を集め玄関先の庭で撮ったそんな1枚である。
 テレビもなく、楽しみは夜店とラジオで聴く「赤胴鈴之助」であった。そんな時代であった。
 昔の写真で思い出した事がある。14~5年前に中学校の同窓会幹事をした。顔が判らないといけないだろうと卒業アルバムの顔写真をコピーし、めいめいの名札に貼り付け配った。が女子からは「総スカン」を喰らった。「そんな昔の田舎娘の写真なんか」という訳である。
 「男は過去の思い出に生き、女は現代(いま)を生きる、女とはそうした生きものよ」とは確か『鬼平』(池波正太郎の鬼平犯科帳)の言葉だったと思うが今年開催予定の古希同窓会ではどういう事になるのであろうか、楽しみである。 
 タイトルを少し昭和っぽくしました。


2016年7月2日土曜日

愛染まつりその2

 リクエストにお応えして「愛染まつりPart2」を。確かに境内には5年前に比べさらに高さを増したような「愛染かつら」の樹がありました。咲き始めの凌霄花(のうぜんかずら)の橙色の花が巨樹に絡むように咲いていました。
 境内には、花~も嵐も~と愛染かつらの歌が流れていますが本家の愛染かつらの木は長野県別所温泉の北向き観音にあるそうです。狭い境内には「腰痛封じの石」とか「哲学の石」とかいろんなモノがあり、私などは「愛染さんだけでええのに」と思うのだが。
 それに比べてすぐ隣の「大江神社」はひっそり静かな佇まいでタイガースフアンにはお馴染みの「狛虎」がいる神社でもある。今年はチーム不振のあおりかお供えも少なく寂しい感じである。
 神社横の階段は、上町台地特有の急な石段で百一段あり「百歳(ももとせ)の階段」と呼ばれている。
 そういえばこの近所の清水寺(京都の清水寺の音羽の滝と同じ滝がある)の辺りに「浮瀬亭」と呼ばれた浪花随一の料亭があって芭蕉や蕪村、十返舎一九など文人が集い、句会を開いたりしたそうである。
 この料亭の名物が七合五勺入る大きなアワビの片貝の貝殻で作った盃があったそうだ。この盃を「浮かぶ瀬」と呼びそれが料亭の名前にもなったという事だ。
 私の愛読書「上方」にも詳しく記載されており、写真の「摂津名所図会」にも載っている。上方文化を支えた地でもあったのだろう。