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八尾常光寺の河内音頭櫓 |
河内の八尾に生まれながら若い頃は、’河内者(モン)’と見られるのを避けていたように思う。河内音頭にしても、小学生の頃は親に連れられ、近所のお寺の境内に立つ櫓の下で、見よう見真似で踊ったものだが、昭和30年代後半、鉄砲光三郎という人が「民謡・鉄砲節」というモノを持ちこみ、これが全国的に流行り、瞬く間に何処の盆踊りも「鉄砲節」一色になった。
しかし、その歌の内容は、そろそろ色気の付いてきた少年には刺激の強い、猥雑なモノだった。そこに輪をかけたのが’今東光です。天台宗の高僧にまでなりましたが、八尾にあった貧乏寺「天台院」の住職だった頃に書いた河内モノが映画になったり、テレビで取り上げたりして全国的に有名になりました。しかし、これも又、原作は脚色され、河内人の猥雑さのみが強調されたモノでした。
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これが現代の河内音頭祭り |
又、この時代は、八尾も大阪のベットタウン化し、農地も減り、近代化していく中で、地元(村)の祭り(蒲団太鼓)も減り、盆踊りもなくなり、村社会を形成できなくなっていった頃で、私は八尾に住みながら「河内」から遠ざかっていきました。 そして50年、今も八尾に住む同級生は、電話口で河内弁で吼えまくり、私の結婚式に一座を率いて河内音頭を披露してくれた友人は、本業そっちのけで音頭取りとして櫓を掛け持ちしていた。その友人も亡くなり、彼が舞台衣装で締めていた帯は形見として私の手元にある。
四五人に 月落ちかかる 踊かな 蕪村
私が6歳位までいた中河内では「八尾よりはガラのよい中河内」というような意識がありました。ハッハッハ
返信削除それでも、河内音頭はというとチョッと卑猥な掛け声を入れていて、子供心にも「これは親にいうたらあかん」と感じていました。
高校時代に友人宅の信太山近辺の盆踊りに行きますと、音頭とりがそれぞれ浪曲師と同じようなテーブル掛けを持っていて、同級生でも持っている者がおり、そういう濃厚な地域共同体を羨ましく感じたりしました。八尾ではどうでしたか?
なお、ステレオタイプの河内者≒大阪人の猥雑なイメージを広げたのは今東光氏と吉本興業だと私は批判的に思っています。