2015年5月23日土曜日

オール大阪、オールジャパンの民意

 住民投票が終わって6日経つ。この間、友人の多くが電話やメールなどで、「辛勝だったけどヨカッタ!」と云ってくれたし、長谷やんや和道おっさんは、詳細な分析をされている。それに比べ私は、やっと感想めいた事を書く余裕が出てきたところ、というのは言い訳で、実は投票日の17日から旅行に行っていたのである。昔の職場の全国研修仲間たちで「けやき会」という旅行会をつくっていて、今回も1年前から日程は決まっていて、17日も活動している人たちには申し訳ない気持ちを残しつつ出かけた。
 2泊3日の旅行の話は何れ書くとして、旅先で固唾を呑んでみていた投票結果は「あ~よかった。これで大阪の将来について、大阪府民である我々も一緒になってゆっくりと考えることが出来る」という感想が正直なところであった。「都構想」が橋下・維新勢力の強引な手法で住民投票にまで持ち込まれた時から、大阪市民は「都構想」の中身ではなく、橋下市長の人気投票という、いわば「思考停止」状態にさせられていたと思う。それを全国的な応援も受け、「本当に大阪市をなくしていいのか、もっとゆっくり、真剣に考えさせてくれないか」との思いで大阪市民が出した結論だった。ところがこの結論を僅差で負けた悔しさなのか、「釈然としない」「年寄りの意見が若者を抑え込んだ」かのような意見や批判をする人たちがいる。1票でも勝ちは勝ち、と強引に住民投票を持ち込んだのはそっちではなかったのか、情けない限りである。
そんな「住民投票」一色の報道記事の中で私はもう一つの重要な出来事の記事を追っていた。住民投票と同じ17日に沖縄で開催された「米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設阻止」県民大会の模様である。
旅行から帰った18日付けの「毎日」には「辺野古阻止、3万5千人」の見出しがあった。翁長知事は「土地を奪っておきながら普天間が世界一危険だから(代替地を)沖縄が負担せよ、という事が許されるのか。政治の堕落だ」と政府を批判した。また、移設反対運動を支える「辺野古基金」が2億円を突破し、その7割が本土からで、「オール沖縄の闘いは、オールジャパンの闘いに変化している」との報告もあったという。
 それからもう一つ、私の目を引き付けた記事があった。この県民大会の共同代表の「中山きく」さんの挨拶である。中山さんは「白梅学徒隊」の生き残りのお一人で、以前「けやき会」で沖縄を旅行した時、多くの県民や兵士が亡くなった沖縄戦の爪跡を巡るツアーのガイドをしてくださった方である。(2011年2月「沖縄旅行記」に書いた。)「辺野古移設反対の民意を無視して、政府は新基地建設をごり押しするが、これでも民主主義国ですか!」と訴える86歳の気迫に感動した。
 自らが強引に決めた「住民投票」というスタイル・ルールに、敗れたからと云って文句をつける、そして、オール沖縄・オールジャパンの「辺野古移設反対」という断固たる民意を無視し続ける政府に道理がないことは明白である。
 さらば橋下、さらば安倍、の民意は下された。 
  

2015年5月10日日曜日

本気の自民党!

 これを、あくまで「一点共闘」というのだろうか。時代は確実に変わりつつあると思う。今日、北区の扇町公園で「大阪市をなくすな!5・10市民大集会」があった。会場入り口には日頃、この種の集会にはあまり見慣れない家族連れやグループというより普通~のおじさん、おばさんが続々と詰めかけてくる。
 1時半から始まった集会も、各政党の議員さんたちのスピーチは極力短く、というスタイルで途中、ダレずに済んだ。3時からのパレードが始まって、我々は会場出口付近で顔見知りを待つことにした。先頭集団に続き、目の前を自民党の幟旗を持った一団が通過する。テレビでよく見る黒いスーツ姿の議員さんたちに続き、ごく普通~の商店主や主婦スタイルの人々が100人近く続いた。今回の反「都構想」のたたかいの中でいろんな団体が呼び掛ける集会や街頭宣伝で自民党の国会議員や地元議員の顔はよく見るが「一緒に反対してますよ」というアピールが主目的で、自民党の活動がどんなものかがもう一つよく分からなかったが、このパレード(私の目には、まぎれもなく真剣なデモ)の隊列を見てはじめて「自民党も本気やな!」と感じた。あと1週間、「さらば!橋下」の本気のたたかいを続けよう!。

2015年4月30日木曜日

大阪市なくしたらアカン!

 一昨日の晩、「4・28大阪市をなくしたらアカン!府民大集合」という集会があった。午後7時開会だったが私たちが着いた6時過ぎには一階のアリーナはほぼ席が埋まっていた。
 開会までの間、この26日までの一斉地方選挙での「全国の結果とも違う?」橋下・大阪維新の会の高い支持率は何で?と考えてみたが中々考えはまとまらない。
 まとまらない内に、集会はハイテンションで進行し、昨日までの地方選挙では共産党とたたかってきた自民党の国会議員や、「堺はひとつ」と維新の野望を砕いた堺市長らが登場し、「大阪市をなくしたらアカン!」と熱弁をふるってくれた。集会の後半では、コント集団「ザ・ニュースペーパー〕が安倍ちゃんや小泉、徹ちゃんの物まねで笑わせてくれ、9時前までの集会は大いに盛り上がって終了した。
 会場出口までの長い時間の移動の中で先ほどの自問を再び思い起こしてみた。橋下市長はこう言っている。
「大阪都構想は私や、維新のプランではない、大阪市の方針だ!」
「住民投票で負ければ私は政治家を辞める!」と。
え、これっておかしくないか?
 元々、「大阪都構想」は橋下市長が知事時代に言い出したことで、昨年の12月までには、大阪市議会でも、府議会でも否決された出来損ないのプランであったものが、公明党の訳の分からん豹変でゾンビの如く息を吹き返し、住民投票まで強引に持ちこんだ「バツ2」の欠陥プランである。
 よしんば、橋下市長が「この道しかない、これが大阪市の大方針だ!」と胸を張って言うのなら、住民投票で負けても執念をもって何回でも提案すればいいではないか?大阪全体の将来に関わる大問題を、大阪府民は入れず、こんな短時間で、大阪市民だけに、二者択一で決めさせるなんて、どだい無茶苦茶な話ではないか。
 とは云え、告示されて、期日前投票も始まった。住民説明会に参加した友人のお友達は、当初「反対」の立場だったが、説明会から帰ると「賛成の人の意見も聞くべきや」と変わってしまったそうだ。住民説明会で橋下市長のワンマンショーを聞いたある学者は「催眠商法だ」と述べたそうだ。
 実態と関係のない「二重行政」論で、改革=賛成派・ええモン、現状維持=反対派・悪モンという構図にし、「ゆっくり考えたいわ」という人を許さない、それさえも悪モンにしてしまう手法である。
急がされて、「わからんから(投票に)行けへん」では賛成になってしまう。いったん解体された大阪市は再び「市」には戻れない。「大阪都」になる訳でもない。府(歩)が都(ト)になるにはまだまだ時間も手間もかかる。ここは「長考一番」でも間に合う。なにも急いで結論を出す必要はない。
 集会会場には「06(市外局番)地域であるから都構想の標的にされてる」と尼崎の友人も駆けつけ「家の前に貼るわ」とポスターをいっぱい持ち帰ってくれた。全国からの支援も始まっているそうだ、維新の政党助成金をつぎ込んだTVコマーシャルに負けない取り組みを「明るく、楽しく」やろうではないか、「毎日が投票日だ!」、「さらば!橋下」を合言葉に。

2015年4月26日日曜日

期待に違わず

  4月も忙しい日々を過ごしていてブログの更新が滞っている。最近控えている雀の餌やりだが、昨日の朝、「パン屑はないの?」とベランダの外から室内を覗きこんでくるので外を見た時、普段と違う鳥の声が聞こえてきた。外を見ると、前のマンションの避雷針の上にヒヨドリに似た鳥がとまっている。でも、声は全く違ってきれいな声だ。早速カメラを構え写した。拡大しないと分からなかったがやはり磯ヒヨドリではないか、と思う。長谷やんさん、どうでしょうか?
 そんな事があった後、大阪市内に出掛ける為、いつものモノレールの駅に着き、電車を待っていると目の前のマンションの上のアンテナの様な処に同じような鳥がとまり、美しい声で鳴いている。これはすぐ目の前だったのではっきりと見えた。磯ヒヨドリに間違いないようだ。
 実はこのモノレールの駅では一日中ホームに鳥の鳴き声を流している。ウグイスの鳴き声を合成したような声を春も冬も一年中流し続けていて「不粋やな~」と思っていたがこの声に惹かれて野鳥が時々近づいて鳴き合わせをするようになったのかもしれない。これぞ「ケガの功名」かもしれない。
 以前長谷やんさんに貰った「藤袴」の株分けの苗、全滅と思っていたが、諦め半分で植えていたプランターの中でしっかりと根付いていた。これはケガの功名ではないが諦めていたのがうれしい誤算だった、大切に育てていこうと思う。アサギマダラが来るかも。
 今日はいっせい地方選挙・後半戦の投票日、いちばん身近な選挙である。迷いなく期待する新人に投票しようと思う。

2015年4月3日金曜日

桜に酔えばついポロリ

 先日お話した箕面の夜桜は5時からの「銘酒を嗜む会」に変更されたので酔わない内に、と未だ薄明るい時分に撮ったものだから夜桜という感じではない
 この桜並木は昔からの住宅街の中を箕面の山に向かい300㍍ほど続く隠れた名所という事だ。トンネル風に撮ろうと思うと車が邪魔したので良いのが撮れなかった。で、桜そのものではないが昔、訪れた山科の毘沙門堂の枝垂桜の標識の桜の彫り物を1枚アップしておく。
 誰が彫ったのかは不明だが、並々ならぬ技量を感じて毎年、桜の頃には思い出し、何とか真似をしようとと刀を握るのだが全く出来ない。今年は中国やアジアからの観光客、それも桜を目当てに来るらしい、桜に魅せられるのは日本人の特性と思っていたがそうでもないようだ。
 今週末から来週中ごろまでは雨降りの予報だが、こんな年寄りにも雨天決行の花見の予定が続いている。何とも気忙しいと思いながら楽しみにしている。
 さて、下の写真は嫁はんの「12神将」がやっと完成し、天王寺市立美術館であった展覧会に出品したものだ。週1回の教室に通いながら彫り上げたので「やっと完成し、肩の荷が下りた」と、言っていたが身内ながらよく頑張ったなーと思っている。(どなたかのように孫自慢が出来ないので嫁自慢です。)



2015年3月22日日曜日

 毎月21日は大阪の高齢者運動の仲間や年金者組合の方々と四天王寺・一心寺への参道で宣伝行動を取組んでいる。
 今日は彼岸の中日、さすがに人出も多く、撒くビラもよく捌けていくが人出が多すぎて立ち止まって署名をしてくれる数は少ないようだ。
 約1時間の行動の後、いつもは神前をお借りしている「堀越神社」にお参りして帰るのだが、今日は新聞で知った四天王寺さんの「日想観」法要に参加するつもりで出てきたので昼食を済ませ、弘法市の出店のおいしいコーヒー屋さんでHOTをいただき、骨董市を覗きブラブラと時間をつぶした。
 夕方5時少し前に集合場所の極楽門の前の広場で待っていると若いお坊さんが現れ、「法要は5時20分ごろから始まり、お日さん(太陽)が西門の石の鳥居の
 上に懸る頃に終わります。写真はそれから撮っても間に合いますので勤行の間はどうかご一緒に、ご唱和お願いします」と懇切な説明があった。勤行が始まる頃には1~200人ほどの方が集まっていたようだ。
 「日想観」については和道おっさんのお話を待つとして、ここ四天王寺では日想観の法要は戦後途絶えていたらしく平成13年に復活したとの説明だった。           有難いお経や法話が終わり、いよいよ石の鳥居の上にお日さんが懸りだした。それまで眩しくて直視できなかったお日さんが鳥居の中に入ると急にギラギラが消え、何ともやさしい陽になってくる。法話の中の「昔の人は遮る物のない西の海の彼方、西方の極楽浄土を願ったのだろう」という話を思いだし、自然と手を合わせていた。周りの人たちもカメラを構えているのだが口々に「ほー」とか「あー」とかため息ともつかない感嘆の声を上げている。春と秋の彼岸の日に、この石の鳥居の中に日が沈むことは判っていても不思議な、有難い気持ちになるものだ。「今年のお日さんは格別に美しい」と誰かが呟いていた。柔らかい卵の黄身のような夕陽にお別れをして、日想観法要に参加し、修行した証のお札を頂いて帰路についた。今日も合掌。 


2015年3月21日土曜日

 写真の本は、かなり以前、古本屋で見つけたもので題名は「米朝ばなし-上方落語地図」という本である。
 最近大型書店で文庫本になっているのを見つけたが根強いファンがいるのだろう。
 著者はご存知、桂米朝さんで上方(この場合は近畿一円としている)の土地に因んだ落語を地名の由来などをまじえて紹介している。そもそも上方という言葉の意味を米朝さんは「上方という言葉は元来、京都が都であった頃のことですから、今日では東京が上方のはずですが」と解説している。しかし、長い歴史(京都が都であった)で今も京阪神を上方と呼んでいるのだろう。上方舞、上方歌舞伎、上方落語という呼び方もある。
 その上方落語を絶滅の危機(大げさではなく)から救ったのが米朝さんら上方落語の四天王と呼ばれた人たちであった。その米朝さんが今日亡くなった。
 私の記憶にある米朝さんは、落語家らしからぬスーツ姿でTV番組の中で小松左京氏や高田好胤師らと文化的な会話を交わしている姿であった。だから落語家として見だしたのは、上方落語が寄席芸からTV番組に登場するようになってからである。最近は高座に出る事もなく、TVでも見かけなくなっていたが、、、89歳、大往生であったらしい。
 さて、この本の中で私が一番好きな噺がある。「まめだ」という千日前の「三津寺」付近を舞台にした三田純市(落語作家・劇作家)さんの新作落語である。粗筋だけを書いて置く。
 三津寺付近に住む端役の役者が稽古を終え、年老いた母親が待つ家に帰る途中、さした傘が急に重くなることが二、三日続いた。タヌキの悪さ(悪戯)と気付いた男がトンボ(宙返り)を切ると、小さな「まめだ」(関西ではタヌキの小さいのをこう呼ぶ)が転げ落ち逃げ去っていった。
 そんな事があった後、老いた母親が家の店先で売る膏薬を小さな子どもが買いに来て、その日の売り上げの中に木の葉が混じる日が続いた。不思議なことがあるものだと思いつつ、数日が経った頃、早朝、三津寺の前で人が騒ぐので男と母親が見に行くと、体中に膏薬の貝殻をくっつけたまめだが死んでいた。それを見た男がすべて合点-トンボを切った時、転げ落ちて怪我をしたまめだが子どもに化け、銀杏の葉っぱで膏薬を買ったものの使い方(貝殻の中身の膏薬を出して塗る)がわからず貝殻のまま体に着けて死んでしまった。-した男はまめだを哀れに思い、和尚さんにお経をあげてもらう。線香の一本もあげ帰ろうとすると、サーッと秋風が吹き、寺の銀杏の葉っぱがまめだの死骸のまわりに吹き集った。
 それを見て男が「見てみ、タヌキの仲間からぎょうさん香典が届いたがな」というサゲである。   合掌。