写真の本は、かなり以前、古本屋で見つけたもので題名は「米朝ばなし-上方落語地図」という本である。
最近大型書店で文庫本になっているのを見つけたが根強いファンがいるのだろう。
著者はご存知、桂米朝さんで上方(この場合は近畿一円としている)の土地に因んだ落語を地名の由来などをまじえて紹介している。そもそも上方という言葉の意味を米朝さんは「上方という言葉は元来、京都が都であった頃のことですから、今日では東京が上方のはずですが」と解説している。しかし、長い歴史(京都が都であった)で今も京阪神を上方と呼んでいるのだろう。上方舞、上方歌舞伎、上方落語という呼び方もある。
その上方落語を絶滅の危機(大げさではなく)から救ったのが米朝さんら上方落語の四天王と呼ばれた人たちであった。その米朝さんが今日亡くなった。
私の記憶にある米朝さんは、落語家らしからぬスーツ姿でTV番組の中で小松左京氏や高田好胤師らと文化的な会話を交わしている姿であった。だから落語家として見だしたのは、上方落語が寄席芸からTV番組に登場するようになってからである。最近は高座に出る事もなく、TVでも見かけなくなっていたが、、、89歳、大往生であったらしい。
さて、この本の中で私が一番好きな噺がある。「まめだ」という千日前の「三津寺」付近を舞台にした三田純市(落語作家・劇作家)さんの新作落語である。粗筋だけを書いて置く。
三津寺付近に住む端役の役者が稽古を終え、年老いた母親が待つ家に帰る途中、さした傘が急に重くなることが二、三日続いた。タヌキの悪さ(悪戯)と気付いた男がトンボ(宙返り)を切ると、小さな「まめだ」(関西ではタヌキの小さいのをこう呼ぶ)が転げ落ち逃げ去っていった。
そんな事があった後、老いた母親が家の店先で売る膏薬を小さな子どもが買いに来て、その日の売り上げの中に木の葉が混じる日が続いた。不思議なことがあるものだと思いつつ、数日が経った頃、早朝、三津寺の前で人が騒ぐので男と母親が見に行くと、体中に膏薬の貝殻をくっつけたまめだが死んでいた。それを見た男がすべて合点-トンボを切った時、転げ落ちて怪我をしたまめだが子どもに化け、銀杏の葉っぱで膏薬を買ったものの使い方(貝殻の中身の膏薬を出して塗る)がわからず貝殻のまま体に着けて死んでしまった。-した男はまめだを哀れに思い、和尚さんにお経をあげてもらう。線香の一本もあげ帰ろうとすると、サーッと秋風が吹き、寺の銀杏の葉っぱがまめだの死骸のまわりに吹き集った。
それを見て男が「見てみ、タヌキの仲間からぎょうさん香典が届いたがな」というサゲである。 合掌。
「米朝ばなし」は講談社文庫第8刷1992年2月を収蔵して楽しんでいます。
返信削除それにしても、このブログの記事は、豆狸のサゲが追悼文に重ねられていて素晴らしい限りです。
引き続くであろう上方文化論、楽しみにしています。
よく言われる言葉ですが、ナマ米朝を見聞きできたことは幸せです。
前の席との間隔が狭かったサンケイホールを思い出します。
大切なことを言い忘れておりました。米朝師匠は「憲法九条の会・おおさか」の呼びかけ人の一人でした。
返信削除そういう一面もしっかり記憶に留めておいていただきたいと思います。
2003年の黒田元知事のお別れする会にも不破哲三さん、藤本義一さん、木津川計さんらと共に「お別れの言葉」を述べておられました。
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