隆君、いや彼もすでに40歳をこえる大人なのだから加藤隆さんと呼ぶべきだろう。
お祖父さんが押すべビーカーに少し大きくなりすぎた体を乗せ、はにかんだ様な笑顔をみせていた頃を思い出す。
その彼が父親である切り絵作家の加藤義明さん(2010年死去)との親子展を開いたというので見に行った。彼が絵を描いていることは知らなかった。パソコン画という手法で描く画、「OZAKI~あがき続けた少年」は、少年時代の彼の内面を見るようで鮮烈だった。
また彼は足でギターを弾き、絵筆も握るという。(彼は上肢等に麻痺がある)油絵の「とうちゃんの唄」はタバコ好きだった義明氏がうまそうに煙を吐き出す瞬間を白黒の画面で見事に表現していた。そして母親(加藤能子さん2009年死去)、私が記憶している能子さんの面影を思い起こすような絵だった。
当日彼には会えなかったがこの親子展を企画された前田尋さん(切り絵画家)と少しお話しすることが出来た。新聞記事にはプロの画家を目指している、と書かれていた。きっとやさしい心を伝える画家になるだろう。
親子展は24日まで、大阪市住吉区の長居競技場の南、町中の小さなギャラリー「キットハウス」でやっている。
2014年9月21日日曜日
2014年9月14日日曜日
老いも若きも
去年に続き今年も「日本高齢者大会」に参加してきた。第28回目を迎える今回は、富山での開催であり、参加費用の関係で退職者の会からは一人の派遣となった。
閉会式での主催者発表では2日間で5,200人の参加者となったが1日目の分科会など、どの会場もいっぱいの参加者で高齢者パワーに圧倒された。
私はこの9月で68歳になったが見渡す限り、どなたも年上の方ばかりである。昨年の大会挨拶で共産党の佐々木憲昭さんが「いま日本で一番パワーがあるのが高齢者団体です」と云ったことが思い出される。
一日目の分科会で私は経済学者の山家悠紀夫さんの「アベノミクスと庶民の暮らし」を選んだ。たった5人の女性閣僚を任命しただけで支持率が上がる安倍首相の基本政策「アベノミクス」をもう一度しっかり捉えたいと思ったからだ。最近TVではあまり見かけなくなった山家さん、あらためてアベノミクスの「三本の矢」が庶民の暮らしに射込まれた毒矢である事を明らかにされた。「良くなっているのは株価だけ、それも去年の5月まで」「下降傾向にある株価と景気を下げないためにカンフル注射(公共事業)を打ち続けなければならなくなっている」と語り口は柔らかだがその指摘は苛烈で的確だった。
また、安倍首相が言った「岩盤規制を私のドリルで壊す」とは、これまで国民と労働者を守ってきた法律・規制を悪者扱いし「世界で一番企業が活動しやすい国に」するための言葉だったと指摘、日本経済再生のカギは「暮らしの改善」で、消費税の10%増税は以てのほか、賃金を上げるため労組の頑張りと、規制を強める(国民と労働者を守る)社会保障をよくするなど、当面の取り組みを提起された。
二日目の全体会での記念講演は「世界が100人の村だったら」の池田香代子さん。事前の講演内容とは違った話から始まったが、解釈改憲の事に及んで「言葉の言い換えとペテンによって戦争準備が着々と進んでいる」と、また先ごろ開かれた学術会議のテーマが「日本の若者はなぜ人を殺さないのか」という内容で、世界的に見て少年犯罪の低さは特異的である事、国が戦争をすると暴力にうったえる風潮が社会に広がり、犯罪が増えるのだそうで70年近く戦争をしなかった事がこういう数字、結果に繋がっている、という見方は新鮮だった。
大会最後は地元八尾高校の伝統芸能部の若者による「越中おわら節」の演奏と踊りで舞台から会場に降りての輪踊りは、まさに高齢者と若者の共同の場となった。真剣に踊る若者を見ていたら何故か目頭が熱くなった。今回の大会、富山大学での会場案内のボランティアの皆さんや踊ってくれた高校生のお蔭で心に残る大会になった。来年は大阪からも近い和歌山に決まり「つれもて来てよ!」とアピールがあった。
閉会式での主催者発表では2日間で5,200人の参加者となったが1日目の分科会など、どの会場もいっぱいの参加者で高齢者パワーに圧倒された。
私はこの9月で68歳になったが見渡す限り、どなたも年上の方ばかりである。昨年の大会挨拶で共産党の佐々木憲昭さんが「いま日本で一番パワーがあるのが高齢者団体です」と云ったことが思い出される。
一日目の分科会で私は経済学者の山家悠紀夫さんの「アベノミクスと庶民の暮らし」を選んだ。たった5人の女性閣僚を任命しただけで支持率が上がる安倍首相の基本政策「アベノミクス」をもう一度しっかり捉えたいと思ったからだ。最近TVではあまり見かけなくなった山家さん、あらためてアベノミクスの「三本の矢」が庶民の暮らしに射込まれた毒矢である事を明らかにされた。「良くなっているのは株価だけ、それも去年の5月まで」「下降傾向にある株価と景気を下げないためにカンフル注射(公共事業)を打ち続けなければならなくなっている」と語り口は柔らかだがその指摘は苛烈で的確だった。
また、安倍首相が言った「岩盤規制を私のドリルで壊す」とは、これまで国民と労働者を守ってきた法律・規制を悪者扱いし「世界で一番企業が活動しやすい国に」するための言葉だったと指摘、日本経済再生のカギは「暮らしの改善」で、消費税の10%増税は以てのほか、賃金を上げるため労組の頑張りと、規制を強める(国民と労働者を守る)社会保障をよくするなど、当面の取り組みを提起された。
二日目の全体会での記念講演は「世界が100人の村だったら」の池田香代子さん。事前の講演内容とは違った話から始まったが、解釈改憲の事に及んで「言葉の言い換えとペテンによって戦争準備が着々と進んでいる」と、また先ごろ開かれた学術会議のテーマが「日本の若者はなぜ人を殺さないのか」という内容で、世界的に見て少年犯罪の低さは特異的である事、国が戦争をすると暴力にうったえる風潮が社会に広がり、犯罪が増えるのだそうで70年近く戦争をしなかった事がこういう数字、結果に繋がっている、という見方は新鮮だった。
大会最後は地元八尾高校の伝統芸能部の若者による「越中おわら節」の演奏と踊りで舞台から会場に降りての輪踊りは、まさに高齢者と若者の共同の場となった。真剣に踊る若者を見ていたら何故か目頭が熱くなった。今回の大会、富山大学での会場案内のボランティアの皆さんや踊ってくれた高校生のお蔭で心に残る大会になった。来年は大阪からも近い和歌山に決まり「つれもて来てよ!」とアピールがあった。
2014年9月11日木曜日
月に乗せられて
昨日、一昨日と中秋の名月を楽しんだ。
わが家のマンションの東の小窓から月が上がり、日付が変わる頃には南天の空に輝く名月をマンションのベランダから観ることが出来た。
八日の十五夜の月は雲一つない空をゆっくりと時間をかけて渡って行く。しかし、
「yamashirodayori」さんによれば九日の十六夜の月の方が満月であるとの事。当日は夕方から大阪市内で集会があり、参加して帰宅したのが11時過ぎであった。それでも時々雲の切れ間から顔をのぞかせる望月を深夜まで眺めた。
これほど熱心に眺めたのは「yamashirodayori」さんのブログにあった、孫可愛さに名月を自作自演された爺、婆さんのはしゃぎぶりに少し乗せられた所為かもしれない。
ただしわが家は嫁はんと二人のお月見、雲間に隠れようが一向に差し支えはない。少し遅い晩酌を楽しんだ。
写真の杯は、兎の背越しに月が観えるという洒落たものだが少し欠けさせてしまい、今は使っていない。気に入った物は使用頻度が高く、おのずと傷がつきやすいものだ。
わが家のマンションの東の小窓から月が上がり、日付が変わる頃には南天の空に輝く名月をマンションのベランダから観ることが出来た。
八日の十五夜の月は雲一つない空をゆっくりと時間をかけて渡って行く。しかし、
「yamashirodayori」さんによれば九日の十六夜の月の方が満月であるとの事。当日は夕方から大阪市内で集会があり、参加して帰宅したのが11時過ぎであった。それでも時々雲の切れ間から顔をのぞかせる望月を深夜まで眺めた。
これほど熱心に眺めたのは「yamashirodayori」さんのブログにあった、孫可愛さに名月を自作自演された爺、婆さんのはしゃぎぶりに少し乗せられた所為かもしれない。
ただしわが家は嫁はんと二人のお月見、雲間に隠れようが一向に差し支えはない。少し遅い晩酌を楽しんだ。
写真の杯は、兎の背越しに月が観えるという洒落たものだが少し欠けさせてしまい、今は使っていない。気に入った物は使用頻度が高く、おのずと傷がつきやすいものだ。
この薄、やけに色が濃く茶髪のような穂をしてた。 |
2014年9月3日水曜日
ご用心を
よそ事と思っていたら大阪でも感染者が出たという。東京の代々木公園やその付近で蚊に刺された人が「デング熱」に感染したというニュースが流れたが日本国内での感染者は70年ぶりという事がショッキングに流されたが致死率の低さや、感染者の少なさなどで「パニックになって大騒ぎしないように」という厚労省の指導もあってか比較的平静な対応ぶりだった。
ところがここに来て感染者の増加と東京以外への広がりで、俄かに不安になってきた。それは代々木公園付近でデング熱ウイルスを持った蚊に刺された大阪の人が病院に入院するまでの間に、つまり大阪で日常生活をしている間に大阪の蚊に刺されて、その蚊が大阪の人を刺したらその人は「デング熱」ウイルスに感染するのではないか?という不安だ。その辺をTV等はあまり伝えていないように思うのだが。
そんなことを考えていたら、嫁はんとの会話で「そういえば昔、日本脳炎というのがあったな~」という話になった。これも蚊が媒介するウイルス性の病気だ。気になって調べたら1960年代は年間1000人程度が発症していたが、子供を中心に「ワクチン接種」を積極的に進めた結果、劇的に減少したという事だ。日本脳炎は「デング熱」などに比べ、致死率も高く、助かっても脳炎などにより後遺症を残す怖い病気だった。そういえば当時は、蚊の産卵場所になる水たまりや用水槽などにも気を付けるようにと教え込まれていたように思う。それが昔の隙間だらけの日本家屋から団地や気密性の高いサッシ窓の普及によって、いつの間にか身の回りにいる蚊の駆除は熱心でも蚊の発生そのものを抑え込む意識が希薄になってきたように思う。この意識の変化は恐ろしい。今いちど、身の回りだけでなく、地域や都市全体の環境衛生に気を配ることが必要ではないかと思う。
アフリカで今猛威をふるっている「エボラ出血熱」も長引く内戦の結果の衛生状態の悪化や病気に対する誤った知識や迷信で患者が増えているとの報道もある。決して遠い国の話と思わず意識の強化が必要だ。
ところがここに来て感染者の増加と東京以外への広がりで、俄かに不安になってきた。それは代々木公園付近でデング熱ウイルスを持った蚊に刺された大阪の人が病院に入院するまでの間に、つまり大阪で日常生活をしている間に大阪の蚊に刺されて、その蚊が大阪の人を刺したらその人は「デング熱」ウイルスに感染するのではないか?という不安だ。その辺をTV等はあまり伝えていないように思うのだが。
そんなことを考えていたら、嫁はんとの会話で「そういえば昔、日本脳炎というのがあったな~」という話になった。これも蚊が媒介するウイルス性の病気だ。気になって調べたら1960年代は年間1000人程度が発症していたが、子供を中心に「ワクチン接種」を積極的に進めた結果、劇的に減少したという事だ。日本脳炎は「デング熱」などに比べ、致死率も高く、助かっても脳炎などにより後遺症を残す怖い病気だった。そういえば当時は、蚊の産卵場所になる水たまりや用水槽などにも気を付けるようにと教え込まれていたように思う。それが昔の隙間だらけの日本家屋から団地や気密性の高いサッシ窓の普及によって、いつの間にか身の回りにいる蚊の駆除は熱心でも蚊の発生そのものを抑え込む意識が希薄になってきたように思う。この意識の変化は恐ろしい。今いちど、身の回りだけでなく、地域や都市全体の環境衛生に気を配ることが必要ではないかと思う。
アフリカで今猛威をふるっている「エボラ出血熱」も長引く内戦の結果の衛生状態の悪化や病気に対する誤った知識や迷信で患者が増えているとの報道もある。決して遠い国の話と思わず意識の強化が必要だ。
2014年8月30日土曜日
嫁はんと私の興味が両方満たされる、という展覧会が伊丹であった。もともとは「赤旗」の美術展ご招待に嫁はんが応募して当選した「ビネッテ・シュレーダー 美しく不思議な世界」展(伊丹市立美術館)であったのだが、同じ建物の中に「柿衛文庫」があり、そこで「鬼貫の世界」展が同時開催されていたのだ。
ビネッテ・シュレーダーは、ドイツ生まれの絵本作家で、同時代のドイツ児童文学作家ミヒャエル・エンデ(「モモ」「果てしない物語」《ネバーエンディングストーリーとして映画化》」の詩に挿絵を描いたりした女性絵本作家で70歳をこえた今も新作に取り組んでいるという。嫁はんも当日まで女性作家とは知らなかったそうで、息子が喜んで見ていた絵本「ラ・タ・タ・タム」は白い小さな機関車や小さな飛行船が出てくる物語だがその細かい描写で、てっきり男性だと思っていたらしい。
三つの展示室には、どんな細い筆で描いたのかと感嘆する原画が多数展示されていた。さすがに男性はまばらで、一見して絵本マニア(あくまで私の個人的感覚)の女性が多かった。
もう一つの「柿衛文庫」の「鬼貫の世界」展は、伊丹が生んだ俳諧師、上嶋鬼貫の代表作の展示展である。今回初めて見たのは鬼貫が八歳の時に詠んだと云われる「こいこいといへど蛍がとんでいく」と云う句で、東の芭蕉、西の鬼貫、と云われた鬼貫だが「によっぽりと秋の空なる冨士の山」など、大人になってもその大らかで、のびやかな句つくりの一面が見られる句だった。
「柿衛文庫」の設立者、岡田柿衛翁は江戸時代から続く造り酒屋の22代目の当主で伊丹市長を務めた人だそうで郷土が生んだ鬼貫の俳諧を知り、多くの俳諧資料を収集し、「柿衛文庫」を建てたという事です。どこぞの市長と違って文化的遺産を残す人は後世に名を遺すものだ。
嫁はんも私もそれぞれ堪能した後、近くの「長寿蔵」で早めの夕食をとった。此処は以前、退職者会の酒蔵めぐりの際、昼食をとった処で、清酒「白雪」で有名な小西酒造の酒蔵を利用した食事処である。
店の中にビールの醸造釜があり、実際製造している。でも私が好きなのは、「淡にごり」という日本酒で大きめのぐい呑みに写真のように上から注ぐパフォ―マンスで楽しませてくれる。酒粕を使ったピザなどを食べ、心もお腹も満たされた半日だった。
台風にもめげず沢山の実をくれたゴーヤもそろそろ終わり、有難うと感謝を込めて室内の花入れに。
八月も終わりますが気候の変動にご注意を。
ビネッテ・シュレーダーは、ドイツ生まれの絵本作家で、同時代のドイツ児童文学作家ミヒャエル・エンデ(「モモ」「果てしない物語」《ネバーエンディングストーリーとして映画化》」の詩に挿絵を描いたりした女性絵本作家で70歳をこえた今も新作に取り組んでいるという。嫁はんも当日まで女性作家とは知らなかったそうで、息子が喜んで見ていた絵本「ラ・タ・タ・タム」は白い小さな機関車や小さな飛行船が出てくる物語だがその細かい描写で、てっきり男性だと思っていたらしい。
三つの展示室には、どんな細い筆で描いたのかと感嘆する原画が多数展示されていた。さすがに男性はまばらで、一見して絵本マニア(あくまで私の個人的感覚)の女性が多かった。
「柿衛文庫」の設立者、岡田柿衛翁は江戸時代から続く造り酒屋の22代目の当主で伊丹市長を務めた人だそうで郷土が生んだ鬼貫の俳諧を知り、多くの俳諧資料を収集し、「柿衛文庫」を建てたという事です。どこぞの市長と違って文化的遺産を残す人は後世に名を遺すものだ。
嫁はんも私もそれぞれ堪能した後、近くの「長寿蔵」で早めの夕食をとった。此処は以前、退職者会の酒蔵めぐりの際、昼食をとった処で、清酒「白雪」で有名な小西酒造の酒蔵を利用した食事処である。
台風にもめげず沢山の実をくれたゴーヤもそろそろ終わり、有難うと感謝を込めて室内の花入れに。
八月も終わりますが気候の変動にご注意を。
2014年8月11日月曜日
台風に名前があった時代
昨日、四国から近畿西部をゆっくりと通過した台風11号、名前を「ハーロン」と呼ぶらしい。麻生圭子さんのブログ「京都のしずく」で知った。へーぇ、今でも名前がついているんだ、と思った。というのも、昔は被害を与えた土地の名をつけて「伊勢湾台風」とか「第二室戸台風」と呼んでいたし、もっと昔(終戦後、進駐軍が日本にいた頃)は、女性の名前を付け、「ジェーン台風」とか呼んでいたのである。それがいつのころからか、発生順に1号、2号と呼ぶようになった。だから同じ11号でも去年や、その前の11号と区別がつかず、何年前の11号と呼んで区別をつけなければならなくなった。
昔、家にテレビがない時代は、ラジオから逐一、流される台風の動きを家族全員が閉めきった家の中で聞いたものだった。家にテレビが来てからは定時放送が終わっても深夜まで台風情報番組が続き、ニュースとニュースの間に流れる清流の流れとか、アルプスの山々の映像が映されるのを飽きずに眺めていた。緊迫した中にものんびりした時代だった。
現代は、行政の責任問題になりかねないと、早め、早めの避難勧告や、被災状況がこまめに流される。今回の11号でも三重県の四日市市には全住民31万人に避難勧告が出されたが実際非難したのは1%にも満たなかったらしい。とり越し苦労で済めば、という感じで勧告するのだろうが、勧告せずに、もし災害があったら責任問題になるからという行政側の気持ちが透けて見える。実際31万人が避難したらどんな混乱が出るか誰も予想できないのでは、と思ってしまった。
ということで、我が家も昨日の昼前まではベランダの物干し竿を片付けるぐらいの準備しかしていなかったが、昼前になって、「赤穂市付近に再上陸しました」とテレビが伝えたころから雨風が激しくなって、ゴーヤのグリーンカーテンが御覧のようになってしまった。
我が家の台風11号による被害はこれだけで済んだが、豪雨による被害が四国中心に広がっているようだが亡くなった人の数が以前の台風被害に比べ少なかったのは、事前の情報と避難警告、勧告のお蔭なのかもしれない。
台風で思い出したことでもう一つ、大阪を直撃した「第2室戸台風」は上陸しても勢力が衰えず、台風の目もしっかりしていたと記録にある。そして私はその眼をはっきり見たのである。台風が通過中、一時、雨も風も少しおさまり、見上げる上空に丸~るく、ぽっかりと青空が見えたのである。中学生頃のことであるから、夢や幻ではない、と確信している。信じてもらえないかもしれないが確かに見たのである。どなたか、同じような経験をした人があったらお知らせ願いたい。
で、最初の台風11号の「ハーロン」という名前について、Wikiで調べたところ、日本他14か国が加盟する政府機関の「台風委員会」で2000年以降発生する台風140個に事前に名前と命名する国が決めてあるそうで今回が56個目で名付け親はベトナム国で「ハーロン」はベトナムの湾の名前だそうである。我が家の被害が少なかったからかもしれないが、昔の台風の名前が懐かしく思い出された一日だった。
昔、家にテレビがない時代は、ラジオから逐一、流される台風の動きを家族全員が閉めきった家の中で聞いたものだった。家にテレビが来てからは定時放送が終わっても深夜まで台風情報番組が続き、ニュースとニュースの間に流れる清流の流れとか、アルプスの山々の映像が映されるのを飽きずに眺めていた。緊迫した中にものんびりした時代だった。
現代は、行政の責任問題になりかねないと、早め、早めの避難勧告や、被災状況がこまめに流される。今回の11号でも三重県の四日市市には全住民31万人に避難勧告が出されたが実際非難したのは1%にも満たなかったらしい。とり越し苦労で済めば、という感じで勧告するのだろうが、勧告せずに、もし災害があったら責任問題になるからという行政側の気持ちが透けて見える。実際31万人が避難したらどんな混乱が出るか誰も予想できないのでは、と思ってしまった。
ということで、我が家も昨日の昼前まではベランダの物干し竿を片付けるぐらいの準備しかしていなかったが、昼前になって、「赤穂市付近に再上陸しました」とテレビが伝えたころから雨風が激しくなって、ゴーヤのグリーンカーテンが御覧のようになってしまった。
我が家の台風11号による被害はこれだけで済んだが、豪雨による被害が四国中心に広がっているようだが亡くなった人の数が以前の台風被害に比べ少なかったのは、事前の情報と避難警告、勧告のお蔭なのかもしれない。
台風で思い出したことでもう一つ、大阪を直撃した「第2室戸台風」は上陸しても勢力が衰えず、台風の目もしっかりしていたと記録にある。そして私はその眼をはっきり見たのである。台風が通過中、一時、雨も風も少しおさまり、見上げる上空に丸~るく、ぽっかりと青空が見えたのである。中学生頃のことであるから、夢や幻ではない、と確信している。信じてもらえないかもしれないが確かに見たのである。どなたか、同じような経験をした人があったらお知らせ願いたい。
で、最初の台風11号の「ハーロン」という名前について、Wikiで調べたところ、日本他14か国が加盟する政府機関の「台風委員会」で2000年以降発生する台風140個に事前に名前と命名する国が決めてあるそうで今回が56個目で名付け親はベトナム国で「ハーロン」はベトナムの湾の名前だそうである。我が家の被害が少なかったからかもしれないが、昔の台風の名前が懐かしく思い出された一日だった。
2014年7月29日火曜日
天神祭りの残り物
26日、大阪天満宮の近所で学習会があり、参加をしてきた。会場には天満宮の境内を通るのが近道なので天満天神繁盛亭の前を通り、境内へ入ったところ、昨日の「天神祭り」の後片付けの最中であった。二基の御鳳輦はまだそのままだったが境内のあちらこちらで引幕を降ろしたり、結界のしめ縄や笹をまとめて積み上げる作業を係りの人が祭りの後の余韻を残したままゆったりした動作で続けていた。
その横を通り過ぎようとした時、きれいな花を見つけた。石組みの上に今解き外したように紐が付いたまま置いてあった。花と見えたのは造花の「天神花」だった。祭りの何を飾ったものかはわからないが、造花とはいえ、未だきれいな儘紅白の梅も、「天神花」の文字もなかなかの物で、思わず拾い上げ、社務所の巫女さんに「この花、もう要らないものでしたら貰って帰っていいでしょうか?」と尋ねると「よろしかったらどうぞ」ということで頂いたが剥き出しのままだったので帰りの電車の中では少し恥ずかしかった。
学習会は、関電大飯原発の運転停止訴訟の「福井地裁判決」の緊急学習会であった。訴訟を担当された吉川弁護士の話をじっくり聞くことができた。わかりやすい資料も貰ったので、じっくり読んでからいずれブログに書いてみたいと思う。
訂正
福井地裁判決の学習会は27日でした。26日は「一点共闘」のシンポジュウムでした。
その横を通り過ぎようとした時、きれいな花を見つけた。石組みの上に今解き外したように紐が付いたまま置いてあった。花と見えたのは造花の「天神花」だった。祭りの何を飾ったものかはわからないが、造花とはいえ、未だきれいな儘紅白の梅も、「天神花」の文字もなかなかの物で、思わず拾い上げ、社務所の巫女さんに「この花、もう要らないものでしたら貰って帰っていいでしょうか?」と尋ねると「よろしかったらどうぞ」ということで頂いたが剥き出しのままだったので帰りの電車の中では少し恥ずかしかった。
学習会は、関電大飯原発の運転停止訴訟の「福井地裁判決」の緊急学習会であった。訴訟を担当された吉川弁護士の話をじっくり聞くことができた。わかりやすい資料も貰ったので、じっくり読んでからいずれブログに書いてみたいと思う。
訂正
福井地裁判決の学習会は27日でした。26日は「一点共闘」のシンポジュウムでした。
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