2014年7月12日土曜日

大阪にこだわる、

気に入った特集がある時だけ購入する「大阪春秋」という雑誌がある。季刊誌である。平成26年夏号は「没後25年回想の藤澤桓夫」だった。藤澤については詳しいことは知らないし、作品も読んだことはない、が大阪が生んだ昭和最後の文士、という呼び方に以前から惹かれていた。
 そして彼に繋がる甥の石浜恒夫にも強く惹かれるものがあった。といっても川端康成に師事した石浜恒夫の文学作品ではなく、作詞家としての石浜の作品が好きだった。
 アイ・ジョージの「硝子のジョニー」フランク永井の「こいさんのラブコール」「大阪ロマン」など大阪色の強い歌詞である。詩集「道頓堀左岸」も好きで、その舞台になった道頓堀の「コンドル」(今は無いが)という喫茶店にも通った。娘の石浜紅子は去年,橋下に廃館にされた「なにわの海の時空館」の館長だった。
 で、藤澤桓夫であるが、特集では木津川計さんが「大阪には文壇がなかった。大きな理由は、出版社が皆無に近かったからだ」と述べておられる。そして「唯一、大阪で文壇らしきものといえば藤澤桓夫邸に集まった作家たち、小野十三郎、長沖一、秋田實、織田作之助、今東光、司馬遼太郎、杉山平一など、文学界以外で画家の小出楢重、将棋の升田幸三、そして山口瞳、石浜恒夫ら、そうそうたるメンバーが集まった、いわばサロンのようなものが存在していた」と云う、ふた昔以上もっと前の話であるが今も出版業界は東京一極集中であることに変わりないようである。
 写真の古本「大阪手帳」は、四天王寺の大古本祭りの「大阪本」コーナーで見つけ買った一冊であるが、その中の「大阪日記」という随筆で、東京の出版社に原稿を送る際、夕方までに出来上がると郵便局で速達にし、夜10時以降なら、直接、梅田駅(現大阪駅)まで持って行き、東京駅止めか新橋駅止めにする、と書いている。大阪文壇の重鎮さえもそんな不便さを覚悟して大阪に住んでいたのであろう。
 今回の特集の中で藤澤の本の装丁を手掛けた美術家のことが書かれていて、この本が写真入りで紹介されていた。装丁したのは「具体美術協会」を設立した「吉原治良」の作品とある。
 また、藤沢の人となりを紹介する中で、彼が南海ホークスの熱心な支持者としても有名であった事が紹介されている。阪神タイガースではなく、南海ホークスであるところがいい。私は「虎」ではなく「鷹」ファンが真の大阪人だと思っている、勿論、身売りする前の南海ホークスである。「虎」と「鷹」ファンの違いについては又いずれ、という事にして、とにかく大阪にこだわった作家であった事は間違いないと思う。あらためて彼の作品を読みたくなった。

2014年6月24日火曜日

見逃すな!懲りない人たちを

  かっての職場のF先輩(組合活動の)が出版された「雑文集」(とご本人は仰ってるが)に「確信犯」【2008・11】という文章がある。なぜ、6年前のこの文章を引っ張り出したかというと、先日の石原環境相の「除染廃棄物の中間貯蔵施設」建設をめぐる「最後は金目でしょ」発言と、東京都議会での女性議員への「セクハラやじ」事件があったからだ。
 石原大臣の「金目」発言は当初「発言取消はしない」としていたが福島県民や多くの国民の批判の声に、自ら福島県に出向き、謝罪して廻った。地元町長も「(自ら出向き)けじめという事で深く受け止めたい」と謝罪を受け入れ、どうも一件落着のようだ。
 また、都議会の「セクハラやじ」事件は、張本人の自民党都議が名乗り出て謝罪した。こちらの方は、他の悪質なヤジの犯人探しが続いているが、被害を受けた女性議員の対応次第という事になりそうだ。
 今回のこの二人の「失言」「ヤジ発言」問題での記者会見での言い訳が本質的には全く同じ内容で「発言の趣旨は相手を傷つけるつもりはなかった」「全くの誤解、私の品を欠く発言で不快な思いをされた方にお詫びしたい」とヤジや発言の趣旨が誤解されたので謝罪したい、撤回したい、というものだった。そして、一人は会派を離脱することで「みそぎ」をし、一人は堂々と今後も「福島の被災者に寄り添い仕事を精一杯続ける」との賜わっている。
 先輩の「確信犯」の内容は、当時【2008年11月】の航空自衛隊のトップだった田母神空幕長が解任された事件の事を書いておられる。解任理由は、田母神氏が寄稿したある論文で「日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行した」「自衛隊は集団的自衛権も行使できない。武器の使用も制限され、がんじがらめで身動きできない」などと歴史を歪曲し、露骨な憲法敵視の持論を展開したことによる。当然、大きな批判を浴び、解任された(2008年当時はである)。
 田母神氏は、第一次安倍内閣の時に、空幕長に任命された経緯がある。先輩は田母神氏の論文での発言を単なる「失言」ではなく「確信犯」であり、憲法を順守すべき自衛隊のトップが憲法敵視の発言をすることは重大であるとともに、このような人物を任命した安倍内閣の憲法に対する姿勢が問われており、憲法順守の姿勢を内外に鮮明にすることが必要だ、と断じておられた。
 田母神氏はその後、東京都知事選挙に出たり、反共スピーカーとしてTVに出たりしている。まったく懲りていない「確信犯」である。問題はこのような人物がなぜ今も世間に受け入れられているのか?という事だ。
 6年たった今、第一次安倍内閣で田母神氏を任命した安倍首相が、いま正に持ち出しているのが「集団的自衛権の行使容認」である。歴代の自民党内閣の歴史認識、憲法に対する姿勢をきちんと正そうとせず、田母神氏解任で済ませてしまった「ツケ」が今、廻ってきているのではないだろうか。今回の二人の「失言・ヤジ」事件もこのまま一件落着という事で済ませてはいけないと思う。国民の監視と、責任追及が最後まで必要だ。

 
 
 写真は全然関係ないが先日書いたブログの洋食屋さんの「幻のオムジャーマン」を作ってみた。味はそこそこだったが、見た目はやっぱり本職の「彼」には到底及ばない「卵の焼き加減」だった。

2014年6月16日月曜日

「嘘も方便」では困る

ルールをよく知らないのでもう一つ興味が湧かないのがサッカーである。しかし4年に1度のワールドカップとやらがブラジルで開催され、TVや新聞は大騒ぎをしている。
 この大騒ぎが予定では7月14日まで続くらしい。らしいというのは、日本チーム、これを「侍ジャパン」と呼ぶらしいが、日本が決勝リーグまで勝ち進めば、という条件付きではある。
 侍ジャパンが1次リーグで敗退すれば過熱しているマスコミ報道も急激に冷め、にわかサッカーファンの関心もしぼんでいくだろう。
 この事を一番恐れているのが安倍内閣だという説があるという。何故なら、多くの国民が過剰なマスコミ報道、TV中継に熱中している間に「集団的自衛権の行使容認」という閣議決定をしてしまいたいからであるという説である。
 なるほど、安倍内閣の太鼓持ち新聞社や反共新聞社を除けば大方の新聞社の論調は「閣議決定には反対」 である。安倍首相の周到なマスコミ懐柔作戦(大手マスメディア各社トップとの頻繁な会食)にもかかわらずである。だから、国民の関心がワールドカップに向いている間に閣議決定に持ち込みたいというのが本音であるという話には「そうか、そうか」と頷ける。
 しかし、国民は馬鹿ではない。新聞「赤旗」は連日のように憲法改悪に反対する抗議行動や「9条の会」の大江さんらの活動を報道している。ワールドカップに熱狂している、と思われる国民の多くも、各種世論調査では、「自衛隊の海外派兵」や「憲法改定」には反対である。この熱狂が冷めれば、安倍内閣が言っている「集団的自衛権は国民を守るもの」という「ウソ」を簡単に見破るだろうと思う。
話はサッカーに戻るが、TV中継されている試合の中で見られるヘディングシュートやキーパーのファインセーブは確かに見事なものである。しかし、それ以外のというか、それに至るまでの選手たちのゴジャゴジャした(サッカーファンの皆さん、ごめん)動き、そして一番気に入らないのが相手チームのファールを誘うかのような転倒プレーや過度な演技での審判へのアピールである。およそスポーツマンらしからぬ態度である。こんなプレーもテクニックの一つだという事かも知れないが、長々とこんなシーンばかりを見せられると全くの興ざめである。
 「嘘も方便」という諺があるが真剣なスポーツと国民の命と安全にかかわる政治の世界では通用しないと断じたい。

2014年6月6日金曜日

「サラメシ」事情は?

現役時代は昼ご飯、NHK番組風に云うなら「サラメシ」が楽しみだった。職場の近所の松屋町(大阪では”まっちゃまち”と発音する)で中古の自転車を買い、ウメダあたりまでペダルを踏んでグルメ本に載った名店のランチを食べて廻った。ただし、いくら高くても1000円以下、喫茶店のランチは食べない、というのが私の「サラメシ道」であった。 そんな名店のひとつに「コタニ」という洋食屋があった。
 地下鉄堺筋本町駅の改札を出たすぐの処にあり、付近のサラリーマンやOLでいつも満員だった。入り口で並んで待っていると元気のいいママさんが先に注文を聞きに来る。店の中はカウンター席とテーブル席とで30人ぐらいの感じのいいスペースだった。
 「コタニ」の看板メニューは「オムジャーマン」だ。オムライスをグラタン皿に入れ、上からブラウンソース(店ではジャーマンソースと呼んでいた)をかけ回し、オーブンでぐつぐつと焼きあげ、アツアツを食べさせる。中身のチキンライスがシンプルな味なので濃厚なソースと絡み合ってとても旨かったが、私がいつも注文するのは「オムコロ」だった。「オムコロ」はオムライスの横に小ぶりのクリームコロッケが二つ付いて、ジャーマンソースではなくトマトソース(ケチャップソースではない)がかけられてあった。いつもこれを頼むものだからママさんは「たまには他のものを頼んだら」と笑いながら注文を取ってくれていた。キッチンの中のコックさんも若いがベテランで、私はいつもカウンター越しに彼の熟練の技をセットのスープを飲みながら眺めるのが好きだった。チキンライスを卵でくるむ段になると彼の神業が見れる。ケチャップの空き缶に入った溶き卵をフライパンに流し込み、すぐさま余った溶き卵を空き缶に戻し入れる。そして用意してあったチキンライスを使い込んだ杓文字で卵の上にのせ、フライパンをほんの2~3回あおるだけ、その間、わずか20秒足らずである。
私は思うのであるがオムライスの卵の厚さは、薄い方がいいと思う。油でベトベトした厚手の卵のオムライスは好まない。ましてやタンポポオムライス(映画『タンポポ』に登場した)のように半熟オムレツを上に乗せるオムライスは邪道だと思う。スプーンを軽く乗せると皮がはじけて破れるぐらいの薄さがいい。そんなオムコロを月に2~3回は自転車に乗って食べに行っていた。
  退職してからも何回か嫁はんと食べに行ったがランチタイムを少し外していったこともあるがマスターが店の入り口の丸椅子に腰かけ文庫本を読んでいた。腰が悪いとは聞いていたが何となく元気がなく、今度来るときは嫁はん手作りのブックカバーを進呈しようと思い、何か月か過ぎた頃、久々に行くと、店の外観はそのままだが、マスターもママさんもいない。店の名前を確かめたら変わっていた。メニューに「オムコロ」もない。仕方なく、オムジャーマンを食べ、キッチンにいたおじさんに聞くと「前のコタニさんから『店やらないか』と云われ跡を継いだ」という事だった。その後店はもう一回変わった。店の外のメニュー写真の「オムジャーマン」は最早コタニのそれではなかった。私も退職して10年、サラメシとも縁遠くなり、店の様変わりに文句を言える資格は無くなった。元の職場の後輩に聞いた「サラメシ事情」も大きく変化している。昼休憩が短縮され、外に食べに出る余裕もなく、職場の周りに売りに来る街頭スタンドの弁当屋の弁当かコンビニ弁当を買って簡単に済ませているとか。昔のように「コタニ」の数々のメニューに心ときめき、コックがあおるフライパンの中で踊るチキンライスの神業に見とれる、そんな楽しい「サラメシタイム」は望めないのか。誰が作ったか分からない弁当を職場の机の上で黙々と食べ、残った時間を昼寝に費やす、そんな職場に未来はないように思うが少し飛躍しすぎたかな、反省。

2014年5月27日火曜日

ワタシノスキナ「小さきモノ」

  以前、TVでも紹介され、心待ちにしていた「野口哲哉・武者分類(むしゃぶるい)」展を京都・大山崎山荘美術館に見に行った。
 野口哲哉さんは、私の好きな「小さきモノ」の具現者である。著作権の関係でブログ上の写真は「保存禁止」の措置が取られているのでその精緻な仕事ぶりは紹介できないが、彼の仕事の素晴らしい処は、単に「精緻」という事にとどまらず、図録の表紙のような「ヘッドフォンを聴く侍」のように、あり得ない現実を、さもあるように表現したり、「視力検査をする侍」のように あり得ない図、と思って目を凝らしてその板絵を見ると、絵の具のはげ具合や板そのものがまるでその時代の板を見つけて書いたような雰囲気を出している。「そんなことがある訳ないやろ」と思いつつ、作者が昔の文献、板絵を参考に作り上げたものではなかろうか?と思ってしまうのである。
 作者の野口さんは中学生の頃、偶然目にした一枚の写真それは幕末期に撮られた甲冑姿の武士の姿だったそうだが映画で見る色鮮やかな甲冑ではなく古ぼけた兜を付けた侍の姿に不思議な感覚を覚えたそうだ。
  SFにも熱中した少年時代であったとも述べている。そこに私が感じたのは、現実と仮想現実が入りまじった世界、まさに「星新一」ワールドではないか。
 そんな表現世界と類まれなる精緻な技巧で作られる身の丈、20センチ足らずの侍のフィギュア-は「有りそうで無い」「無いようで有る」SFの世界に迷いこませる作品群であった。
 おなじ頃、NHKの日曜美術館で放映した「明治の工芸-知られざる超絶技巧」も素晴らしい内容だった。明治時代、世界を驚かせた美術工芸品があった。幕末から明治維新の時代、需要の無くなった甲冑師や刀剣装飾師たちが持ち前の技術を駆使し、「自在物」と呼ばれる金物の置物や写真の牙彫(象牙の細工物)をつくり、世界に活路を見出した。今に伝わる「明珍火箸」の明珍一族もそうした職人集団だったといわれている。
 写真の筍の彫り物は安藤碌山という職人の作品で京都・清水三年坂美術館にあるそうだが何回か訪れているがまだ見たことはない。他にも見事な細工彫りの逸品を残しているがこの人も生没年不詳という事でいかにも職人らしい。筍の皮のうぶ毛やその彩色の見事さは、かの故宮博物館の「翠玉白菜」に勝るとも劣らない逸品だと思う。このような名品が明治維新後、数多く海外に流失したというが残念なことだ。
 
 

2014年5月2日金曜日

消えた屋上遊園地

  メーデーに参加しての帰り道、阪神百貨店の催し場に立ち寄り、ついでに「ホワイトウイング」(紙飛行機)を買おうと思い売り場を探したが無い。近くにいた店員さんに聞くと「無くなりました」と云う。以前は鉄道模型の売り場の横にあったのだが「売り場」ごと無くなっていた。うーむ、困った事になった。
 東急ハンズなどにごく少数売ってはいるのだが、大阪でも最大の品数があったこの売り場だったのに、、、本当に困った事になった。落胆して帰ろうとすると目の前が「屋上庭園」の入り口になっていた。で思い出したのが「大阪最後のデパート屋上遊園地が閉鎖」の新聞記事だった。遊園地の遊具は無くなったが、金魚やペット売り場は残っているのだろうとドアを開けて外に出たが見事に何もない。芝生を植えたサークルの周りに、サラリーマンやおばちゃんが弁当をひろげていた。その新聞記事が載ったのが今年の3月初めだったから、私の記憶の中にある「親子連れがゆっくり遊べる屋上遊園地」のイメージがつい最近まで残っていたことになるが、それも大阪ではついに無くなったのである。そう云えば、大阪に「USJ」とやらが出来た頃から大阪、いや京阪神の遊園地もどんどん寂れ、閉園や規模を縮小して行ったのだった。小さい子供を連れたお父さんは、いったい何処に行っているのだろう?

 友人の様に孫のため、庭に手作りのシーソーを置ける人は良いが、バカ高い入場料を払い、長時間待って心臓に悪いコースターのある遊園地、いやテーマパークに行くしかないのだろうか。かろうじて生き残って頑張っている「ひらぱー」でもかなりのお金はかかるだろう。ゆっくり回るメリーゴーラウンドやゆっくり歩くパンダの乗り物に子供を載せて、大人はベンチで休憩、などという風景は大昔の事になってしまったのだろう。「子供は喜び、大人は安心」という家族連れの遊びの基本は変わっていないと思うのだが、時代は、より高度な「遊び」「喜び」を追い求め、エンターテイメント性の高いモノを提供しようとするのだろう。それは良いのだが、そのために手頃な「遊び」と「場所」が無くなるのは寂しい。
 話は飛躍するが狭い日本に新幹線を走らせるたびにローカル線が間引きされ、廃止されていく。寂しいだけでは済まされない事だと思うのだが、日本という国はこういう間違いを平気でしてしまう、、、。
 
そんな屋上にしっかりとお稲荷さんは残っていた。何故か「ホッ」とした。

2014年4月28日月曜日

「のだ藤」復活

  世の中、GWに突入と騒いでいるが基本、年中サンデーの私には関係ないと無視している、いるが、1~2の行事には毎年出かけている。その一つが「老松古美術祭」である。
 春と秋の年2回開催され楽しみに出かけている。今年で38回目とか、昔は「老松骨董祭り」と云っていたと思うが古くからの古美術街がこの季だけは冷やかしの観光客も入り賑わう。大阪高等裁判所の裏手にあり、目の肥えた司法関係者や数寄者たち(これは私の独断)が通う、京都の新門前町のようなホンモノを扱う古美術街である。であるから普段は、ホンモノ、ニセモノ入り混じりの四天王寺の骨董市のような雰囲気は全くない静かな街である。
 そんな古美術街が「品」は保ちながら少し骨董市の雰囲気を出して年2回、私たちに良い品を提供してくれる。とは云え、そうそう手の届くようなモノはない。河井寛次郎や富本憲吉、そしてペルシャの古いガラスなどが通常の値段よりも安く(と思う。)並べられているが「勉強のため」「見るだけ」である。それでも楽しい。
 そんな店の1軒で「骨董市」の雰囲気で並べられていた中から見つけたのが写真の「香合」である。店の人は「志野」だと言ったが「馬の目」の模様が可愛いのと格安だったので購入した。
 老松町の狭い道の両側に並んだ店を次々覗いても1時間足らずで済んでしまい、帰る事にして、今日出かける前に事前に調べておいたもう一つの目的「野田の藤」を見に行くことにした。
 京阪電車中之島線の終点「中之島」駅からすぐの処の「下福島公園」から阪神「野田」駅前までぶらぶら歩いて見物した。ピークは過ぎたという事だったがガイドチラシを手にした見物客が結構歩いていた。「野田の藤」の歴史は古く、私の愛読書、雑誌「上方」にも当時の賑わいぶりが載っている。チラシによると昭和46年ごろに「のだ藤」復活の話が起こり、56年ごろから「区民の花」として根付き始めたらしい。今は区をあげて苗を育て、普及に努めている。
街中に設置した「地名板」はキレイな「藤色」だった。