気に入った特集がある時だけ購入する「大阪春秋」という雑誌がある。季刊誌である。平成26年夏号は「没後25年回想の藤澤桓夫」だった。藤澤については詳しいことは知らないし、作品も読んだことはない、が大阪が生んだ昭和最後の文士、という呼び方に以前から惹かれていた。
そして彼に繋がる甥の石浜恒夫にも強く惹かれるものがあった。といっても川端康成に師事した石浜恒夫の文学作品ではなく、作詞家としての石浜の作品が好きだった。
アイ・ジョージの「硝子のジョニー」フランク永井の「こいさんのラブコール」「大阪ロマン」など大阪色の強い歌詞である。詩集「道頓堀左岸」も好きで、その舞台になった道頓堀の「コンドル」(今は無いが)という喫茶店にも通った。娘の石浜紅子は去年,橋下に廃館にされた「なにわの海の時空館」の館長だった。
で、藤澤桓夫であるが、特集では木津川計さんが「大阪には文壇がなかった。大きな理由は、出版社が皆無に近かったからだ」と述べておられる。そして「唯一、大阪で文壇らしきものといえば藤澤桓夫邸に集まった作家たち、小野十三郎、長沖一、秋田實、織田作之助、今東光、司馬遼太郎、杉山平一など、文学界以外で画家の小出楢重、将棋の升田幸三、そして山口瞳、石浜恒夫ら、そうそうたるメンバーが集まった、いわばサロンのようなものが存在していた」と云う、ふた昔以上もっと前の話であるが今も出版業界は東京一極集中であることに変わりないようである。
写真の古本「大阪手帳」は、四天王寺の大古本祭りの「大阪本」コーナーで見つけ買った一冊であるが、その中の「大阪日記」という随筆で、東京の出版社に原稿を送る際、夕方までに出来上がると郵便局で速達にし、夜10時以降なら、直接、梅田駅(現大阪駅)まで持って行き、東京駅止めか新橋駅止めにする、と書いている。大阪文壇の重鎮さえもそんな不便さを覚悟して大阪に住んでいたのであろう。
今回の特集の中で藤澤の本の装丁を手掛けた美術家のことが書かれていて、この本が写真入りで紹介されていた。装丁したのは「具体美術協会」を設立した「吉原治良」の作品とある。
また、藤沢の人となりを紹介する中で、彼が南海ホークスの熱心な支持者としても有名であった事が紹介されている。阪神タイガースではなく、南海ホークスであるところがいい。私は「虎」ではなく「鷹」ファンが真の大阪人だと思っている、勿論、身売りする前の南海ホークスである。「虎」と「鷹」ファンの違いについては又いずれ、という事にして、とにかく大阪にこだわった作家であった事は間違いないと思う。あらためて彼の作品を読みたくなった。
「大阪に文壇がなかった」理由は出版業界だけなのでしょうか。もっと掘り返して考え抜きたいようにも思います。
返信削除この種の上部構造が経済という土台に大きく左右されることは否めませんが、単純にそうでもないのではないのでしょうか。
もっと、人間臭いあれこれがなかったでしょうか。
それにしても、近頃の大阪の都市格の劣化は目を覆うばかりです。
ノスタルジックに溜息をつくだけでなく、新しい文化の創造が待たれます。
若手のロシア文学者たちに期待しましょうか。
十年一日のごとき話しかしない年寄りは詰まりません。
文壇がなかったというのは、文芸ジャーナリズムが成立しなかったということだと思いますが、大阪から一流の芸人も文学者も出たけれど批評することばはあまり育たなかったように思います。内輪に甘い。内輪から出た権威にも甘い。たかじんの番組なんてまさにそうでしたが…
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