ボケ防止のつもりで3年連用日記を付けている。
1ページに3年分だから書ける量は少ない。
ボケ防止だから昨晩のご飯の内容を記すようにしているが、これがなかなか思い出せない事がある。(わざとその晩に書かずにあくる日に書く)洗って干してある鍋や食器を見て思い出すヒントにすることもある。
で、その日記を見ていたら丁度1年前の6月〇〇日に「朝、義父からSOSが」とある。それまで健康で義母が亡くなって6年、一人暮らしをしていたのが急に不調を訴え、検査入院や、嫁はんが泊まり込んでの生活が始まったのだった。
幸い今現在は週1回のデイサービスと週1回嫁はんが泊まり込まない日を設けて丸1日を一人で過ごすまでに回復した。
その義父の誕生日が6日であった。私は所用があって行けなかったが、娘(嫁はん)と二人、ささやかに祝ったそうだ。
体調に大きな問題はないそうだが、最近は同じことを繰り返し言ったり、冷蔵庫に何本もあるのに牛乳を買ってくると、嫁はんは愚痴っている。
先日私が昼間のお守りに行き、お昼ご飯を食べ終え、洗おうとすると義父が腕カバーをして「体を動かさんとボケる」と譲らなかった。
「ボケてない!」と言い張るより、ボケない様にという意識があるという方がいいのかも知れない。体調がいい時には、牛乳を買いに行くという行動も「まだ買い物にも行けるんだ」ということを確認しているのかもしれない。
6日で97歳、嫁はんが感想を聞くと「97歳は長生きの方かな~」と「あと3年で百歳か」であった。ビールを3口ほど飲んで、いつも通り就寝したようだ。
あまり遠くに出掛けないのでいつものベランダの姫スイレンをお目にかける。4日、近畿地方は梅雨入りしたそうです。皆さん、お体を大事に、100歳をめざそう。
2016年6月8日水曜日
2016年5月16日月曜日
廃刊ではなく終刊-美学な幕切れ
11月のブログで紹介した季刊「上方芸能」の終刊号が届いた。
昨年11月の大阪ダブル選挙の最中に、大阪の文化の護り手である「上方芸能」が終刊するとの報道があり、私はその衝撃をブログに書いた。(2015・11・21『大阪の都市格を上げるためにも』)
そのブログの記事の中で、発行人である木津川さんが述べられた終刊の理由の一つを「経費の償はざること」とされているのを読んで「何とかならぬのか」という趣旨の繰言を書いた。
というのも2012年に文化を金儲け主義の下に置く低俗な地方統治者により文楽への補助金カットという異常事態が生じた。この時「上方芸能」編集部は「文楽を守れ!」の熱血特集を組んだ。
かのドナルド・キーン氏からは「文楽が生を受けて見事な花を咲かせた大阪で、もし死に絶えるのなら、大阪の政治家の蛮行を世界は決して許さず、また忘れる事もないでしょう」とメッセージを寄せ、総勢132氏から熱いメッセージが寄せられた。この特集は確実に世論の喚起と賛同を得たし、文楽を守れ!の思いに多くの観衆を結集させたことは間違いないだろう。
その「上方芸能」が「経費の償はざること」という事態に陥っているときに我々が拱手傍観していていいのか?という思いに駆られたからである。
しかし、木津川さんは経済的理由だけにその責を求めず、「与謝野鉄幹が「明星」を100号で突如終刊したこと、そのとき鉄幹35歳、私は齢80歳になり、年をとりすぎました。時代の変化についていき難くなりました。」と述べられ、廃刊ではなく、終刊という言葉で見事な幕切れの美学を示されたのである。
「上方芸能」という雑誌は終刊となったが、上方芸能という実体はこれからも行き続けていくだろうし、そうなってほしいと切に願う。幸い木津川さんも「一人語り劇場」は続けられるとの事だし、編集部の皆さんの熱意で再刊も夢ではないと信じている。
さて、その終刊号だが、実は198号で終刊の予告がされる前に定期購読者の私は年間分をすでに振り込んでいた。編集部からは終刊するに際し、「200号以降の年間購読料をお支払いの方々には誌代を切手でお返しします」との丁寧な連絡があり、私は余剰の誌代は今後の維持基金にして下さいと返事した。そうしたら木津川さんから「このたびは、『上方芸能』の存続のためのご芳志を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。」との文書の末に「あと1号です。400字メッセージをぜひおよせください。」との直筆のメッセージが届いた。199号でも「終刊号は読者、執筆者、応援して下さった全ての皆様によるメッセージ「さようなら『上方芸能』で全誌面を構成します」とあった。
敬愛する木津川さんからの直のお頼みならばと我が身を顧みず拙文を11月のブログのコピーと共に編集部に送付した。そして先日届いた終刊号を開いて驚いた。
確かに全誌面、さようならのメッセージで埋め尽くされている。その数449人、目次にはメッセージを寄せた方々の名前が載っており、私の名前もあった。そしてそのお名前を見てさらに驚いた。そのほとんどが新聞紙上やマスコミ報道でよく見聞する方々であった。私の驚愕ぶりを実証する為にも恐れ多いが少し紹介しておく。
作家の難波利三、有栖川有栖、玉岡かおる、眉村卓、放送・落語作家の新野新、池田幾三、わかぎゑふ、織田正吉、また「霊感を科学する」を連載されてきた安斎育郎、そして芸能界から五世井上八千代、片山九郎右衛門、そして人間国宝の竹本住大夫、そしてそして、山田洋次監督(いずれも敬称略)という錚々たる方々がメッセージを寄せておられる。
そんな方々と同じ誌面に私の拙文が載っている。449人のメッセージを読む前に、正直、後悔した。いくら木津川さんの直筆の頼みとはいえ、心安い知り合い(この時点で既に舞い上がり勘違いをしていた)かのようにメッセージを送った事をである。そんな後悔の念を飲み下しながら各氏のメッセージを読み進めている内に、皆さんがいかに「上方芸能」を愛されていたか、終刊をどれほど残念がっておられるのか、という事がひしひしと伝わってきた。
メッセージ募集の際、「400字程度、別にお肩書、ご略歴、をお書き添えください」とあったので「怒れる年金生活者、永年国の機関で勤務」とした。そんな一般読者の拙文を人間国宝や山田監督と同じ誌面に載せるという木津川さんや編集部の気持ちを様々に考えたが「上方芸能」を愛してきた事、その終刊を惜しみ、怒りにも似た惜別の気持ちには何ら変わりはなく、等しく同じなのだという事に気づいた。あらためて「上方芸能」ありがとう!そしてご苦労様でした。
ー「終刊号」は私の一生の宝物になったー
昨年11月の大阪ダブル選挙の最中に、大阪の文化の護り手である「上方芸能」が終刊するとの報道があり、私はその衝撃をブログに書いた。(2015・11・21『大阪の都市格を上げるためにも』)
そのブログの記事の中で、発行人である木津川さんが述べられた終刊の理由の一つを「経費の償はざること」とされているのを読んで「何とかならぬのか」という趣旨の繰言を書いた。
というのも2012年に文化を金儲け主義の下に置く低俗な地方統治者により文楽への補助金カットという異常事態が生じた。この時「上方芸能」編集部は「文楽を守れ!」の熱血特集を組んだ。
かのドナルド・キーン氏からは「文楽が生を受けて見事な花を咲かせた大阪で、もし死に絶えるのなら、大阪の政治家の蛮行を世界は決して許さず、また忘れる事もないでしょう」とメッセージを寄せ、総勢132氏から熱いメッセージが寄せられた。この特集は確実に世論の喚起と賛同を得たし、文楽を守れ!の思いに多くの観衆を結集させたことは間違いないだろう。
その「上方芸能」が「経費の償はざること」という事態に陥っているときに我々が拱手傍観していていいのか?という思いに駆られたからである。
しかし、木津川さんは経済的理由だけにその責を求めず、「与謝野鉄幹が「明星」を100号で突如終刊したこと、そのとき鉄幹35歳、私は齢80歳になり、年をとりすぎました。時代の変化についていき難くなりました。」と述べられ、廃刊ではなく、終刊という言葉で見事な幕切れの美学を示されたのである。
「上方芸能」という雑誌は終刊となったが、上方芸能という実体はこれからも行き続けていくだろうし、そうなってほしいと切に願う。幸い木津川さんも「一人語り劇場」は続けられるとの事だし、編集部の皆さんの熱意で再刊も夢ではないと信じている。
さて、その終刊号だが、実は198号で終刊の予告がされる前に定期購読者の私は年間分をすでに振り込んでいた。編集部からは終刊するに際し、「200号以降の年間購読料をお支払いの方々には誌代を切手でお返しします」との丁寧な連絡があり、私は余剰の誌代は今後の維持基金にして下さいと返事した。そうしたら木津川さんから「このたびは、『上方芸能』の存続のためのご芳志を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。」との文書の末に「あと1号です。400字メッセージをぜひおよせください。」との直筆のメッセージが届いた。199号でも「終刊号は読者、執筆者、応援して下さった全ての皆様によるメッセージ「さようなら『上方芸能』で全誌面を構成します」とあった。
敬愛する木津川さんからの直のお頼みならばと我が身を顧みず拙文を11月のブログのコピーと共に編集部に送付した。そして先日届いた終刊号を開いて驚いた。
確かに全誌面、さようならのメッセージで埋め尽くされている。その数449人、目次にはメッセージを寄せた方々の名前が載っており、私の名前もあった。そしてそのお名前を見てさらに驚いた。そのほとんどが新聞紙上やマスコミ報道でよく見聞する方々であった。私の驚愕ぶりを実証する為にも恐れ多いが少し紹介しておく。
作家の難波利三、有栖川有栖、玉岡かおる、眉村卓、放送・落語作家の新野新、池田幾三、わかぎゑふ、織田正吉、また「霊感を科学する」を連載されてきた安斎育郎、そして芸能界から五世井上八千代、片山九郎右衛門、そして人間国宝の竹本住大夫、そしてそして、山田洋次監督(いずれも敬称略)という錚々たる方々がメッセージを寄せておられる。
そんな方々と同じ誌面に私の拙文が載っている。449人のメッセージを読む前に、正直、後悔した。いくら木津川さんの直筆の頼みとはいえ、心安い知り合い(この時点で既に舞い上がり勘違いをしていた)かのようにメッセージを送った事をである。そんな後悔の念を飲み下しながら各氏のメッセージを読み進めている内に、皆さんがいかに「上方芸能」を愛されていたか、終刊をどれほど残念がっておられるのか、という事がひしひしと伝わってきた。
メッセージ募集の際、「400字程度、別にお肩書、ご略歴、をお書き添えください」とあったので「怒れる年金生活者、永年国の機関で勤務」とした。そんな一般読者の拙文を人間国宝や山田監督と同じ誌面に載せるという木津川さんや編集部の気持ちを様々に考えたが「上方芸能」を愛してきた事、その終刊を惜しみ、怒りにも似た惜別の気持ちには何ら変わりはなく、等しく同じなのだという事に気づいた。あらためて「上方芸能」ありがとう!そしてご苦労様でした。
ー「終刊号」は私の一生の宝物になったー
| わが家の宝物 加藤義明氏のきり絵 |
2016年5月11日水曜日
旬の味・母の味
前回のブログ更新以降、囲碁大会の準備に、手も頭も取られてしまっていたがyamashirodayoriを見ていてムラムラと食欲がわいてきた。
食欲とブログ更新と何の関係が、と思われるかも知れないが、人間ひとつの事に集中していると他の事が疎かになる様である。食欲もしかり、一人分の夕食の準備はついついレトルトやコンビニ弁当に頼ってしまうことになる。
その囲碁大会も無事終わり、周囲を見渡すと新緑である。青くみずみずしい野菜が出盛っている。yamashirodayoriにコメントしたが新鮮なえんどう豆を「緑の申し子のよう」と評したのは土井勝(優しい語り口で料理番組の草分けであった)さんである。
嫁はんが花嫁修業で「土井勝料理教室」に通っていたらしい。"らしい„という言い方は決して嫁はんが作る料理が不味い、という事ではない。美味しい方だと思う。ただ独身時代-自炊が長かった私の腕もなかなかのモノだと思っているからである。その嫁はんの嫁入り道具の一つとして持ってきたのが土井さんの名著「おふくろの味」という本である。
「おふくろの味」とある様に、土井さんのお母さんが作られた家庭料理を中心に、旬の味、おそうざいの味、などの作り方がきれいな写真入りで載っていて思わず「私も作って、食べたい!」と思わせる名著である。(この「私も作って」と思わせるところが大事なところで昨今の写真だけの料理本にはないところ。)
そしてこの本の素晴らしいところは、土井さんが書く料理や食材に関するエッセイにある。これからが旬の「そら豆」の項にこんな事が書いてある。「私は八歳で小学二年生だった。~五月の瀬戸内海の潮風はひんやりして、興奮気味の少年にはそれがむしろ心地よかった。~『まさる!行っておいで』五月の半ばになると高松の叔父から手紙が来る。何日がいいよ、という電報のような文面だったらしい。~高松の家の畑のそら豆が食べ頃になる。そら豆は“三日の旬„といわれる。~この時のそら豆の味は、母からもらった休暇の三日間だけ、少年を充分に堪能させてくれたようである。」土井さんのお母さんはごく普通の家庭の主婦、お母さんであったようだが旬の味を味わさせるため、わざわざ学校を休ませ、少年を旅立させたのである。
我が子に美味しいものを食べさせたい、この想いがある限り昨今のような子どもの虐待など起こりようもないと思うのだが、、、話は少し大層になってきた。今夜は手を抜かず、莢付のそら豆を買ってきて食べようと思う。
蛇足:今テレビで流行りの「プレバト」に出演している料理の盛り付けの
先生、土井善晴さんは土井さんの二男である。
食欲とブログ更新と何の関係が、と思われるかも知れないが、人間ひとつの事に集中していると他の事が疎かになる様である。食欲もしかり、一人分の夕食の準備はついついレトルトやコンビニ弁当に頼ってしまうことになる。
その囲碁大会も無事終わり、周囲を見渡すと新緑である。青くみずみずしい野菜が出盛っている。yamashirodayoriにコメントしたが新鮮なえんどう豆を「緑の申し子のよう」と評したのは土井勝(優しい語り口で料理番組の草分けであった)さんである。
嫁はんが花嫁修業で「土井勝料理教室」に通っていたらしい。"らしい„という言い方は決して嫁はんが作る料理が不味い、という事ではない。美味しい方だと思う。ただ独身時代-自炊が長かった私の腕もなかなかのモノだと思っているからである。その嫁はんの嫁入り道具の一つとして持ってきたのが土井さんの名著「おふくろの味」という本である。
「おふくろの味」とある様に、土井さんのお母さんが作られた家庭料理を中心に、旬の味、おそうざいの味、などの作り方がきれいな写真入りで載っていて思わず「私も作って、食べたい!」と思わせる名著である。(この「私も作って」と思わせるところが大事なところで昨今の写真だけの料理本にはないところ。)
そしてこの本の素晴らしいところは、土井さんが書く料理や食材に関するエッセイにある。これからが旬の「そら豆」の項にこんな事が書いてある。「私は八歳で小学二年生だった。~五月の瀬戸内海の潮風はひんやりして、興奮気味の少年にはそれがむしろ心地よかった。~『まさる!行っておいで』五月の半ばになると高松の叔父から手紙が来る。何日がいいよ、という電報のような文面だったらしい。~高松の家の畑のそら豆が食べ頃になる。そら豆は“三日の旬„といわれる。~この時のそら豆の味は、母からもらった休暇の三日間だけ、少年を充分に堪能させてくれたようである。」土井さんのお母さんはごく普通の家庭の主婦、お母さんであったようだが旬の味を味わさせるため、わざわざ学校を休ませ、少年を旅立させたのである。
我が子に美味しいものを食べさせたい、この想いがある限り昨今のような子どもの虐待など起こりようもないと思うのだが、、、話は少し大層になってきた。今夜は手を抜かず、莢付のそら豆を買ってきて食べようと思う。
蛇足:今テレビで流行りの「プレバト」に出演している料理の盛り付けの
先生、土井善晴さんは土井さんの二男である。
2016年4月17日日曜日
願文に
自分が生きている世代に大地震(震度7以上)が4回も起きるなんて想像も出来なかった。阪神淡路大震災(1995年)では軽微ながらも家屋の被害に遭い、その後、新潟中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、そして今回の熊本地震である。いっこうに収まらない余震、と思っていたら本震だったという。その特異性が段々明らかになるにつれ、不安が募っていく。
「敗残兵の子」、戦後世代として育ち、古希を迎える段になって戦後最悪の危険な為政者と向かい合うことになってはいるがこれは所詮人間のすること、対処のしようもあるが、自分の力では如何ともし難い自然災害に只々終息してくれと祈るしかない。
ときどきみかける雑誌、「月刊大和路ならら」の2月号で東大寺二月堂の修二会の事が載っていた。その中に「忘れられない修二会の夜」という記事があった。筆者は2011年のあの揺れを東京で体験し、ようやく奈良に帰り着き二月堂の警備に向かった。(関係者のようである)-以下抜粋-
「12日はお水取り当日であったがさすがに人出も少なかった。当時の北河原別当から特別に3っのお願いというお話があった。それは被災され亡くなられた方々のご冥福をともに祈りましょう、いま、困難な状況にある方々の思いを馳せ、ともに苦しみを感じましょう、そして社会復興のため、それぞれの立場で持っている力を出しましょう」というものだった。
涙ながらに話された言葉に救われた。あの大震災では神も仏もあるものか、と多くの人が思い、行の最中の練行衆もやるせない思いを抱かれていたのではと思った。でもあのお話で、それでも人間は神仏や何かをよりどころとしながら踏ん張って行かなければならないのだと思った。ふと大阪大空襲の時も、西の空が真っ赤になるのを見ながら修二会が行われたことを思いました。
こんな時に修二会をしてるなんて、ではなく、こんな時だからこそ修二会をすべきなんだと実感したんです。」というものである。
今年も御参りには行けなかったが1200年を越え一度も途絶えることなく続く修二会、今回は間に合わなかったが来週には東大寺で写経を体験する。願文に熊本地震の犠牲者に哀悼をささげ、震災の一日も早い終息をお願いしようと思う。
「敗残兵の子」、戦後世代として育ち、古希を迎える段になって戦後最悪の危険な為政者と向かい合うことになってはいるがこれは所詮人間のすること、対処のしようもあるが、自分の力では如何ともし難い自然災害に只々終息してくれと祈るしかない。
ときどきみかける雑誌、「月刊大和路ならら」の2月号で東大寺二月堂の修二会の事が載っていた。その中に「忘れられない修二会の夜」という記事があった。筆者は2011年のあの揺れを東京で体験し、ようやく奈良に帰り着き二月堂の警備に向かった。(関係者のようである)-以下抜粋-
「12日はお水取り当日であったがさすがに人出も少なかった。当時の北河原別当から特別に3っのお願いというお話があった。それは被災され亡くなられた方々のご冥福をともに祈りましょう、いま、困難な状況にある方々の思いを馳せ、ともに苦しみを感じましょう、そして社会復興のため、それぞれの立場で持っている力を出しましょう」というものだった。
涙ながらに話された言葉に救われた。あの大震災では神も仏もあるものか、と多くの人が思い、行の最中の練行衆もやるせない思いを抱かれていたのではと思った。でもあのお話で、それでも人間は神仏や何かをよりどころとしながら踏ん張って行かなければならないのだと思った。ふと大阪大空襲の時も、西の空が真っ赤になるのを見ながら修二会が行われたことを思いました。
こんな時に修二会をしてるなんて、ではなく、こんな時だからこそ修二会をすべきなんだと実感したんです。」というものである。
今年も御参りには行けなかったが1200年を越え一度も途絶えることなく続く修二会、今回は間に合わなかったが来週には東大寺で写経を体験する。願文に熊本地震の犠牲者に哀悼をささげ、震災の一日も早い終息をお願いしようと思う。
2016年4月10日日曜日
杯に浮かぶ月
去年嫁はんが京都の「平安楽市」という手作り市に行って綺麗な青磁の杯(はい)を買ってきてくれた。
10年程前に私が京都百万遍の知恩寺の手作り市にはまり、通っていたが次第に嫁はんと従妹が取って代わり、それが最近は岡崎公園内の「平安楽市」も覗くようになった。ここは、知恩寺に比べ場所も広く歩きやすいのでお気に入りのようだ。
毎月の第2土曜日に開催されるとの事で、写真の杯の作者にも会いたくなって私一人で出かけた。暑いくらいの陽ざしの中、京阪三条から約20分ほど歩いて会場にたどり着いた。
事前にプリントアウトした出展店舗の地図を頼りに「yuragi]という店を探した。店はすぐ見つかったが人気があるようでお客が途切れない。やっとテントの中に入り作者と話をすることが出来た。嫁はんに聞いていた通り私の質問に対して熱く語り始めた。作者本人が話の途中で何回も「しゃべり過ぎ、と云われてます」と挟むとおりこちらが気兼ねするくらい、熱く説明してくれた。
私の質問はひとつ、写真では解りにくいが天井のシーリングライトがまるで月のように杯の中に映るのである。それも底ではなく浮いて映るのである。最初に見た時は衝撃であった。「意図して作ったのか、どうか」説明を受けたはずの嫁はんにしつこく訊いても「どうやったかな~」と心許ない。そこで出掛けて訊いてみた訳である。
作者曰く「最初は偶然でした」という事だが、途中から意図して作るようになったという事だ。その過程は秘密かなと思ったが、割とあっさり明かしてくれた。外も内側も削るのだそうだ。特に内側は自作した金属のカンナで削るのだそうでその角度が重要なんだそうだ。
そんな話をしている間も客が来て、ついに私の方から「また来月来るから」と店を離れた。会場の中には「段ボールで作るジオラマ」の店や、手作りのケーキやクッキーの店も並び半日ほど遊んで会場を後にした。
帰り道は堀川端に出て三条から阪急河原町まで高瀬川沿いの名残の桜を見ながら歩いた。
10年程前に私が京都百万遍の知恩寺の手作り市にはまり、通っていたが次第に嫁はんと従妹が取って代わり、それが最近は岡崎公園内の「平安楽市」も覗くようになった。ここは、知恩寺に比べ場所も広く歩きやすいのでお気に入りのようだ。
毎月の第2土曜日に開催されるとの事で、写真の杯の作者にも会いたくなって私一人で出かけた。暑いくらいの陽ざしの中、京阪三条から約20分ほど歩いて会場にたどり着いた。
事前にプリントアウトした出展店舗の地図を頼りに「yuragi]という店を探した。店はすぐ見つかったが人気があるようでお客が途切れない。やっとテントの中に入り作者と話をすることが出来た。嫁はんに聞いていた通り私の質問に対して熱く語り始めた。作者本人が話の途中で何回も「しゃべり過ぎ、と云われてます」と挟むとおりこちらが気兼ねするくらい、熱く説明してくれた。
私の質問はひとつ、写真では解りにくいが天井のシーリングライトがまるで月のように杯の中に映るのである。それも底ではなく浮いて映るのである。最初に見た時は衝撃であった。「意図して作ったのか、どうか」説明を受けたはずの嫁はんにしつこく訊いても「どうやったかな~」と心許ない。そこで出掛けて訊いてみた訳である。
作者曰く「最初は偶然でした」という事だが、途中から意図して作るようになったという事だ。その過程は秘密かなと思ったが、割とあっさり明かしてくれた。外も内側も削るのだそうだ。特に内側は自作した金属のカンナで削るのだそうでその角度が重要なんだそうだ。
そんな話をしている間も客が来て、ついに私の方から「また来月来るから」と店を離れた。会場の中には「段ボールで作るジオラマ」の店や、手作りのケーキやクッキーの店も並び半日ほど遊んで会場を後にした。
帰り道は堀川端に出て三条から阪急河原町まで高瀬川沿いの名残の桜を見ながら歩いた。
2016年4月8日金曜日
春宵二題
四月に入って生活に色々と変化が出てきた。7年間、群馬の工場に勤務していた息子が大阪に帰ってきた。転勤先は私の実家の目の前の工場になった。
1日に転勤挨拶で帰阪し、2日には早くも引っ越し先を自分で決めてきて、その報告も兼ねて実家の母の仏前にお参りしてきたという。2日は母の祥月命日で何か不思議な縁を感じた。
帰ってきたといっても離れて暮らすことに変わりはなく、これまで通りだが何となく安心した気分であることも事実である。
四月に入った先日は嫁はんの誕生日、これまでも大したお祝いはしてこなかったが義父の介助で泊まりこんでいる嫁はんの慰労と義父のご機嫌伺いを兼ねて「鯛のアラ炊き」を炊いて持っていった。嫁はんよりも義父が頭を黙々と食べ「昔、知り合いの食道楽の男が鯛の目玉の部分だけを食べ、身の方は食べなかった」と懐かしそうに語ってくれた。
帰りしな、義父の住む棟の目の前の子供用の砂場の横に立派な桜の木が満開になっているのに気づいた事を話したら「毎年きれいに咲いてくれている」と言った。義父たちがここに暮らし始めて20数年になるが私は今まで全く気付かなかった。
桜の花の見ごろの短さと、義母が亡くなってからも元気なことに安心し、超高齢の義父を一人暮らしさせてきたんだな~と思い返しながら帰宅した。
上の写真はその時の鯛の骨だが丸いコブのようなものがわかるだろうか。以前、長谷やんのブログに「鯛の鯛」の事が書かれていて、私が「観音詣りの鯛」の事をコメントしたことがあった。鳴門の鯛の中には鳴門の大渦に巻き込まれながら懸命に泳ぐあまり骨折するものがある。その骨折部位に仮骨が出来、コブのようになるという。身の引き締まった美味い鯛の証しだという話である。ウソか本当かは分からないが初めて実物を見た。
大阪天満橋の大川沿いの夜桜です
1日に転勤挨拶で帰阪し、2日には早くも引っ越し先を自分で決めてきて、その報告も兼ねて実家の母の仏前にお参りしてきたという。2日は母の祥月命日で何か不思議な縁を感じた。
帰ってきたといっても離れて暮らすことに変わりはなく、これまで通りだが何となく安心した気分であることも事実である。
四月に入った先日は嫁はんの誕生日、これまでも大したお祝いはしてこなかったが義父の介助で泊まりこんでいる嫁はんの慰労と義父のご機嫌伺いを兼ねて「鯛のアラ炊き」を炊いて持っていった。嫁はんよりも義父が頭を黙々と食べ「昔、知り合いの食道楽の男が鯛の目玉の部分だけを食べ、身の方は食べなかった」と懐かしそうに語ってくれた。
帰りしな、義父の住む棟の目の前の子供用の砂場の横に立派な桜の木が満開になっているのに気づいた事を話したら「毎年きれいに咲いてくれている」と言った。義父たちがここに暮らし始めて20数年になるが私は今まで全く気付かなかった。
桜の花の見ごろの短さと、義母が亡くなってからも元気なことに安心し、超高齢の義父を一人暮らしさせてきたんだな~と思い返しながら帰宅した。
上の写真はその時の鯛の骨だが丸いコブのようなものがわかるだろうか。以前、長谷やんのブログに「鯛の鯛」の事が書かれていて、私が「観音詣りの鯛」の事をコメントしたことがあった。鳴門の鯛の中には鳴門の大渦に巻き込まれながら懸命に泳ぐあまり骨折するものがある。その骨折部位に仮骨が出来、コブのようになるという。身の引き締まった美味い鯛の証しだという話である。ウソか本当かは分からないが初めて実物を見た。
大阪天満橋の大川沿いの夜桜です
2016年4月2日土曜日
大人の花見
桜の花を撮るのは難しい。バックに青空が入らないとソメイヨシノのような白い花びらは冷たく写ってしまう。
明日は雨空になるので少し雲は多いがいつも会いに行く箕面の萱野三平邸の桜を見に行った。シーズン以外は訪れる人も少ない「涓泉亭」(けんせんてい・三平の俳号から名付けられた施設)だが花見みの客が数組いた。花曇りだったが頬に触れるほどの間近の桜を堪能した。亭内には辞世の句「晴れゆくや日ごろ心の花曇り」の歌碑がある。
長谷やんが言うように賑やかなお江戸の花見よりも大人の風情でひっそりと楽しむ花見も、に同意しつつ、以前のブログで同じような事を書いていたなーと思い手繰ってみると、2011年4月のブログで「自粛ムードの花見・・・」と書いていた。大津波と原発事故の事も3月の5年目報道が済めば待ってましたとばかりに「花見だ、花見だ」と浮かれまくる風潮はどうなのかと、自戒を込めて一人静かに花見を楽しんだ。
付録
遠出をしなくても身近に楽しめる桜もある。
近所のマンションの駐車場の桜と箕面市民病院の下の土手沿いの桜並木。
明日は雨空になるので少し雲は多いがいつも会いに行く箕面の萱野三平邸の桜を見に行った。シーズン以外は訪れる人も少ない「涓泉亭」(けんせんてい・三平の俳号から名付けられた施設)だが花見みの客が数組いた。花曇りだったが頬に触れるほどの間近の桜を堪能した。亭内には辞世の句「晴れゆくや日ごろ心の花曇り」の歌碑がある。
長谷やんが言うように賑やかなお江戸の花見よりも大人の風情でひっそりと楽しむ花見も、に同意しつつ、以前のブログで同じような事を書いていたなーと思い手繰ってみると、2011年4月のブログで「自粛ムードの花見・・・」と書いていた。大津波と原発事故の事も3月の5年目報道が済めば待ってましたとばかりに「花見だ、花見だ」と浮かれまくる風潮はどうなのかと、自戒を込めて一人静かに花見を楽しんだ。
付録
遠出をしなくても身近に楽しめる桜もある。
近所のマンションの駐車場の桜と箕面市民病院の下の土手沿いの桜並木。
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