自分が生きている世代に大地震(震度7以上)が4回も起きるなんて想像も出来なかった。阪神淡路大震災(1995年)では軽微ながらも家屋の被害に遭い、その後、新潟中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、そして今回の熊本地震である。いっこうに収まらない余震、と思っていたら本震だったという。その特異性が段々明らかになるにつれ、不安が募っていく。
「敗残兵の子」、戦後世代として育ち、古希を迎える段になって戦後最悪の危険な為政者と向かい合うことになってはいるがこれは所詮人間のすること、対処のしようもあるが、自分の力では如何ともし難い自然災害に只々終息してくれと祈るしかない。
ときどきみかける雑誌、「月刊大和路ならら」の2月号で東大寺二月堂の修二会の事が載っていた。その中に「忘れられない修二会の夜」という記事があった。筆者は2011年のあの揺れを東京で体験し、ようやく奈良に帰り着き二月堂の警備に向かった。(関係者のようである)-以下抜粋-
「12日はお水取り当日であったがさすがに人出も少なかった。当時の北河原別当から特別に3っのお願いというお話があった。それは被災され亡くなられた方々のご冥福をともに祈りましょう、いま、困難な状況にある方々の思いを馳せ、ともに苦しみを感じましょう、そして社会復興のため、それぞれの立場で持っている力を出しましょう」というものだった。
涙ながらに話された言葉に救われた。あの大震災では神も仏もあるものか、と多くの人が思い、行の最中の練行衆もやるせない思いを抱かれていたのではと思った。でもあのお話で、それでも人間は神仏や何かをよりどころとしながら踏ん張って行かなければならないのだと思った。ふと大阪大空襲の時も、西の空が真っ赤になるのを見ながら修二会が行われたことを思いました。
こんな時に修二会をしてるなんて、ではなく、こんな時だからこそ修二会をすべきなんだと実感したんです。」というものである。
今年も御参りには行けなかったが1200年を越え一度も途絶えることなく続く修二会、今回は間に合わなかったが来週には東大寺で写経を体験する。願文に熊本地震の犠牲者に哀悼をささげ、震災の一日も早い終息をお願いしようと思う。
阪神大震災までは「近畿には大地震はない」と思っていた。東北大震災までは「原発は絶対安全だ」と思っていた。深く勉強し研究したわけでなくそのように信じていた。人間というものは非力で愚かなものだ。
返信削除現代思想の中で一番の癌は「人間は自然を征服できている」という思想だろう。
ひげ親父さんの記事のとおり、今一番大切なものは謙虚だろう。
因みに、今回の地震も中央構造線に沿っている。だとしたら慶長の大地震という歴史に学ぶ必要がある。全国どこで地震が誘発されるかもしれない。慶長の大地震についてはyamashirodayoriに少し触れた。
東大寺二月堂の修二会「お水取り」は本来、悔過(けか)の行と聞いています。観音さんに人の罪障の消滅、日々の行いの反省をして許しを乞い観音さんの功徳をたたえる・・東大寺は千年以上前の国立ですから国家安泰も願うのでしょう。今の右翼為政者は先の戦争も、原発も消費税もTPPの大嘘も何の反省も無く民意に背いて罵詈雑言はばからず地獄に向かってへまっしぐらに突っ走っているようです。私達も金銭的なご利益ばかり願うのではなくリアルに現実を直視し観音さんに成り代わって「投票用紙」に向かうことが大事だと思っています。
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