2011年1月30日日曜日

   正月からの気忙しさの息抜きを口実にして道後温泉に行った。偶然目にした高速バスの料金の安さに惹かれた事も一因だが。バスは約5時間で松山市内に、荷物を持ったまま、路面電車で松山城へ、阪堺電車より小さめの電車が走る風景はいいものだ!
今更ながら京都市は何故市電の全廃を急いだのか?市電の廃止とともに京都の町並みは、その魅力を失った。
 松山城は火災後の改修で重文に格下げされたが城郭のほとんどが残り、見応えがある。写真の侍の顔は改修工事で見つかった物で思わずニヤリとさせられる。
  ホテルにチエックインした後、耐震化工事のため、近々改修されると噂の道後温泉本館へ、地元の人が利用する「神の湯」に浸かる。三千年続くといわれる道後の湯、少し熱めだがゆっくり浸かっていたいと思わせるのも名湯の証だろう。湯から出ると丁度6時の太鼓が窓を開けて打ち鳴らされた。
 あくる日は、ゆっくりとチエックアウトし、歩いて数分の「正岡子規記念博物館」へ、昨今「坂の上の雲」騒動で変に有名になり、私などは「坂の上雲ミュージアム」はパスしたが子規に罪はなく、(強引に放映しているNHKが悪い!)私は病気と壮絶な格闘をしながらも作句した子規の気持ちに触れてみたく、見学した。
  館は立派な建物で「子規との別れ-涙は無用に候」展が開催されていた。子規の句はその数の多さでも有名だが亡くなる直前の絶句「糸瓜3句」を作句する様子が記録されている。
 子規に兄事した「河東碧悟桐」が、病床の横で、激痛に苦しみながらも尚、筆をとる師の姿を克明に記している。一行書いては筆を落とし、最期の3句目を書き終えた後、十数時間後に息を引き取ったということです。
 

 「糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな」
 「痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず」
 「おとといの へちまの水も 取らざりき」
 
 読んでいて、瞼が熱くなった。すごい人です。

2011年1月22日土曜日

  月例の四天王寺街頭宣伝の帰りに以前ブログした釣鐘饅頭を買いに行き、その又ついでに四天王寺の大梵鐘の事も確かめに行った。
 写真は境内にある英霊堂で以前から気になっていた建物で全体が台形になっており、白壁は波打っている。不思議なお堂だなーと思っていたが「釣鐘饅頭」のお店のパンフレットにその由来が載っていた。
 元々は世界一の大梵鐘のための鐘釣堂で戦時中の金属供出で空き家になったお堂の周りを壁で囲い、英霊堂にしたのだそうだ。それで、この奇妙な造形の謎が解けた。
 で、その世界一の大梵鐘だがどれくらい大きかったかと云うと
高さ、7、8m 直径、4、8m 重さ、157、5㌧、明治36年大阪で、第5回勧業博覧会が開かれるのと丁度聖徳太子千三百年御遠忌にあわせ、明治33年に大梵鐘の鋳造を発願、日本一の鋳物師が3年の歳月をかけて完成させたのだそうだ。
 この発願に共鳴した人が釣鐘饅頭の創業者で、大梵鐘の完成の前に製造販売したという。因みに大阪の百貨店で売っている釣鐘饅頭や「バナナ」という和菓子ははこのお店(総本家、釣鐘屋)の物ではないそうで、釣鐘屋さんは門前のお店でしか売っていないということでした。
 さて大梵鐘ですが、その大きさに目を付けられ、金属として供出させられた訳ですが、その際の撞き納め式に招かれた阪大の教授の事前の調査によれば「当初発表の仕様より肉厚は疎らで所々鋳造の継ぎ目もあり、想ったような響きは無かったのだろう」ということで、これが「鳴らずの鐘」の真相のようでもある。いずれにせよ、浪速っ子が世界一と自慢した大梵鐘は、その生涯に
二度吠えただけで戦争の犠牲となり、饅頭にその姿を偲ばせるだけとなった。

2011年1月19日水曜日

 16日の日曜日、伏見の酒蔵開きに行きました。昨年も大変な人出でしたが今年も会場入り口は行列が出来ている。この酒蔵開きの催しは、伏見の四つの蔵が共同で開催しており、共同で仕込んだ新酒の試飲がお目当てである。
 一杯200円の試飲券を買って蔵の中に、行列してほどなく小さめの紙コップに注がれた新酒を口に含むとピチピチとした柔らかな刺激とともに鮮烈な香りが口中から鼻に抜けていく、まさに生まれたての酒という形容がピッタリの清酒である。
 蔵の中では、それぞれの蔵が出す今年の新酒の試飲もあり、半時間ほどでイイ気持になれる。蔵の外では粕汁や漬物、野菜の販売もあり、同行の諸氏も買い求めた酒かすや野菜を手ににこやかに新酒の味を楽しんでおられた。
 同行したO氏も満足の様子、(この後の満足顔の写真は本人にしか渡せません。)当日参加の御一行は30名近くになったので半分に割って私たちは去年もお邪魔した手打ちそば屋の二階を借りて蕎麦で飲み直し(程々に)、気分よく帰路につきました。
 昼間の酒は、「よくマワる」と云いますが、、、、私は帰りの京阪電車を乗り過ごしました。

2011年1月9日日曜日

 神農さんの「張り子の虎」など昔の大阪の玩具を復元させた青年がいて「まねき屋」という工房をやっている。今回、布施の戎っさんに出店をすると云うので宵戎に行ってきた。数年前に比べて品数も増えたが少し趣が変わってきており、私が期待した昔の大阪の玩具はあまりなかった。
 私の云う大阪の玩具と云うのは、大正から昭和初期に全国の玩具を絵入りで記録した「川崎巨泉」と云う人がいて(何処かで聞いたような名です!)「人魚洞文庫」として中之島の市立図書館に所蔵されています。そこには、全く知らないものから、うっすらと記憶のあるもの等、さまざまな玩具が記録されていて見ていて楽しいものばかりです。その中に「蔵入り」といって、張り子の蔵に起き上がり小法師の俵が竹の溝にそってコロコロと出たり入ったりする玩具があり、縁起物としてたくさん作られたそうです。今回の店先には干支の「起き上がり小法師」がカラフルにたくさん並んでいて兎を一つ買って「蔵入り」も復活させてね、と頼みました。
 布施は今は東大阪市となっていますが河内では「都会」でした。
「まいど1号」の町としていっとき名前が売れましたが最近はどうなんでしょうか?子供のころ父親に連れられて信貴山や生駒の聖天さんに初詣に行った帰り、布施でうどんや丼を食べさせてもらえるのが楽しみでした。
 写真の饅頭は今日買った駅前の「ももや」という和菓子屋のでっかい饅頭です。(子供のころの記憶にはありませんが)創業60年の老舗で当時からあったものだそうで、直径は約10センチ、重さを計ったら450グラムありました。でっかい和菓子と云えば堺の「大鏡」か「ととや饅頭」が有名ですが大阪には時々こういうスケールの大きい名物が出てきます。物そのものは小さいですが四天王寺さんの門前で昔から売られている「釣鐘まんじゅう」は明治から昭和の17年まで境内にあった世界一の大梵鐘を偲んでつくられた饅頭です。大梵鐘は戦時の金属供出で「米英撃滅」のための武器となったそうです。

2011年1月5日水曜日

 「紅白」で植村花菜が歌った「トイレの神様」サビの「おばぁちゃん、おばぁちゃん」のところで泣けるという人を何人も知っている。かく云う私もそうだ。正月の準備でしめ縄を飾っている時、昔は玄関だけでなく、便所にも小さなしめ縄を飾っていて、「こんなところにも神さんが来るんや」と子供心に思ったものだ。
 祖母は便所のことを「はばかり」と呼んでいたし、御不浄とも云う、きたない所にキレイな神さん、という取り合わせは何か道徳、修身的なものを感じます。
 便所つながりで、昔から便所に落ちたら(汲み取り式だったから)名前を変えるという迷信がありました。現に私の隣の家の幼馴染の子は便所に落ちて名前を変えました。で、綺麗になったかどうかは知りません。正月早々、お耳汚しで。
 そこで少し目出度い話題を、大阪ではもうすぐ「えべっさん」です。上のYEBISU缶ビールをよくご覧ください。戎さんの右の魚籠の中に鯛がもう一匹、そうです、これが数百本に1本の「ラッキーエビス!」です。ただし、この缶は限定発売のラッキーエビスで「目出度さも中ぐらい、ではありますが皆様の目のお正月になればと。いょー、チョン。」お粗末さまでした。

2011年1月1日土曜日

 明けましておめでとうございます

 2011年 元旦は厳しい寒さながらも比較的おだやかに
 明けました。本年もよろしくお願いします。

  我が家の正月、三が日は嫁はんは基本的には何もせ
 ず、(その為にお節があるんだという理由で)雑煮は私が
 作ります。去年採っておいた琉球朝顔の蔓でこしらえた
 正月用のリースに飾り付けているのは赤い鯛、以前私が
 骨董市で見つけた和菓子の木型に和紙を張り付け固め
 て剥がして作ったものです。(下の写真)
  前に並んでいるのは、「御酒口」と云うもので元々は舞
 い降りた神さんを宿らせる「依代(よりしろ)」になるという
 ものだそうだ。
  両サイドの像は嫁はんが習ってる「彫刻教室」での最新
 作、「十二神将」の二体ですが今、家の中はこれまでに作
 ったお地蔵さんや、風神・雷神や、七福神らが舞い踊って
 います。