3月に亡くなった義父の遺品の整理をボチボチ始めている。とは言っても自宅の地震の後片づけもまだ完全には終わっていないので本当に目に付いたものから始めているところだ。
義父は体調を崩し始めた3~4年前までは見事なまでに身の回りの事は完ぺきに整理、整頓する人だった。
それは自分自身だけでなく孫(私の息子)の将来についても義父なりの設計図が描かれており、今でも笑い話になっているのが孫の結婚式で自分が語るお祝いのスピーチの原稿が出来上がっていたことをもってして如何に用意周到な人だったかがわかる。(私は見たことが無いのだが)ただそれを周りの者に強要することは無かった。
そんな義父の最大の遺品が昭和46年から始まる記録というか随筆のようなもの(日記ではない、日記は別に残されていた。)で昭和59年末まで続いており、1冊のファイルに400字づめ原稿用紙にびっしりと書かれたものが平均5~600枚綴じられている。そんなファイルが44冊ある。
内容は、ファンだった阪神タイガースについて、また会社での出来事、世相雑感など多趣にわたっている。中でも戦争中従軍したビルマでの出来事などは900枚に及ぶ記述があった。初孫(私の息子)誕生についてもかなりの分量の記述がある。
しかし、その量の多さ以上に、義父の達筆ゆえになかなか読み進めない。毎日読んでも何年かかるか知れない量で取りあえずは元の箱に戻した。
綺麗にファイリングされたそのハガキはキッチリした義父の性格がわかるものだと思っていた。が、そのハガキは往復はがきで戦地から文通(?)相手の義母に宛てられたもので義母もキッチリ残していたことがわかった。
ハガキの内容は、戦地の北支や南方のシンガポールやビルマの事が書かれており、夜空に輝く星の綺麗なことやスコールの事などが細かい字でびっしり書かれている。
義母からの復信ハガキが1枚も残っていないのは捕虜になった際、没収されたのかもしれないが義父の往信の内容では内地の事や、義母が宝塚ファンだったことから劇場の様子などを知らせてくれた事への感謝の言葉が書かれていた。
戦時下の郵便事情がどういうものかは知らないがラブレターのような内容の往復はがきが戦地と内地を航空便で自由に(勿論検閲のスタンプは押されてはいるが)送り交わされていたことに驚いた。
義父と義母の出会いは戦地に送られた慰問袋に入っていた新聞に「清掃に励む軍国少女」の写真を見て義父が感心し、どのように住所を調べたかは知らないがハガキを出したという事らしいが、終戦後、内地に引き上げてきた義父が何年かして結婚することになったという壮大なロマンスの内容は嫁はんもはっきりは聞いていないらしい。
南の島のロ~マンスを感じる。
許婚だったのでしょうか。何か小説の推理をするようで感動します。
返信削除記録は大事にしてください。いつか発表できるものは発表されたら如何でしょう。
お久しぶりです 初夏の風に石楠花がかすかに揺れて気持ち良さそう
返信削除大往生の義父さまの遺品、山ほど有りそう~~~ですね!!
昭和の生きざまを見るようです。在りし日の父上さまのロマンス
娘さん(奥さん)も深く知らないとの事らしいですが、ご両親の愛情を一杯受けて
父上さまの日々を見習い、きっと奥さまも真面目に職を全うして現在に至っているのですね。天国に召されて2ヶ月余り、さぞかし在りし日の父上さまの面影を思い出しながらの今日では無いかとおさしします。どうかお二人で父上さまを忍びながら
時間をかけて遺品整理を楽しみながら~~~ 行ってくださいね ♪岳美♪