2012年6月30日土曜日

懐かしい風景

 先日、適当な会場探しのため、谷町6丁目あたりを歩いていると懐かしい風景に出合った。「たかつはらばし」、谷町筋と長堀通の交差点を西に進み、松屋町筋に出るすぐ手前にその橋はある。今を遡ること40数年前、高校を卒業し、しばらくして就職した役所は、元第八連隊の司令部だったという古い木造二階建ての庁舎で、今は「難波の宮」跡として有名になった東区(現中央区)の法円坂にあった。当時は、月曜から土曜日までの勤務であったが土曜日は「半ドン」で12時半までの勤務であった。勤めて間もない頃であり、高校時代の友達との付き合いがまだ続いており、土曜日になるとナンバで待ち合わせ、遊ぶのである。終業のベルが鳴るや  

 庁舎の玄関を走って出て、上町筋の大阪市バスの停留所に並ぶ。緑色の、横縞模様(当時ゼブラカラーと呼ばれていた)がスマートな市バスに乗り込み、上本町1丁目を右に曲がり、長堀通りに出る頃には、週末の弾んだ気分が徐々に出てくる。そして、その橋、「高津原橋」の下をくぐると、完全に1週間の仕事の事を忘れ、ワクワクした気分になるのであった。当時、新米の若造には責任ある仕事もなく、夏は事務所の窓を開け、風通しを良くし、

冬は、だるまストーブ(石炭燃料の)の掃除やらが当番の仕事だった。それでも、1週間の仕事が終わった!という開放感は待ち遠しいものだった。その橋の下をくぐる事がそんな気分にさせてくれる出口、入口でもあったのである。橋の由来は分からないが、もともと、長堀川(運河)を埋め立て、道路にしたものである。上町台地は谷町筋を境に西に傾斜していき、所どころで崖の様に落ち込んでいる。この辺りはなだらかな下り坂であるが、それでも橋の上までは、5~6メートルはある。橋の北側は、内本町につながり、南側は、ゆるいアップダウンをへて、空堀商店街につながる。橋に昔の面影はないが、その土台部分には古い石垣や石畳の路地が残っていた。懐かしさのあまり、今回改めて、写真を撮りに行ったが、橋の上から見る、車の流れが川の流れのように見えた。

2012年6月24日日曜日

歌いつぐ者

 久しぶりに歌(合唱)を堪能した。古い付き合いの先輩、豊田光雄さんの作品コンサートがあった。「ウタノミライ」この題名に、豊田さんの「歌」への願い、思いが込められているように思えた。
 オープニングの「みんなは夜明けをまっている」で、いきなり40数年前の自分に引き戻され、胸が熱くなった。確か1971年の元旦に生駒の山頂で、豊田さんが「新しく作った曲や、みんな覚えて歌ってや!」と指導され、年明けの空に向かって、歌った覚えがある。(当時、国公青婦協という組織で生駒山に越年登山をする取り組みがあった)。 
 そして、その年の4月の黒田革新府政誕生のたたかいの時も「おはよう大阪」と一緒に、いくつもの集会で歌った思い出の曲だ。
【この歌は、1972年日本のうたごえ祭典開幕曲となり、  「荒木栄賞」受賞曲にもなった。】
 歴史的な歌の誕生に立ち会ったような気分で少し誇らしかったのを覚えている。

数日前の電話では「いったいどの位の人が来てくれるのか分からん、」と心配声だったが、会場は満席の盛況で、2時間半のコンサートは大成功だったのではないだろうか。
 若い頃から日々の仕事(職安勤務)の後、音大に通われ積み重ねられてきた歌への愛着、思いの熱さは、そのまま今日、出演した合唱団の数、層の厚さに反映しているように思えた。
まさに、「ウタノミライ」に込めた、歌の力、つながりの深さ、そのものの様な気がした。

2012年6月13日水曜日

文楽を観に行こう!

 大阪市長の「文化攻撃」(私流の表現です)が止まらない。今度は、「文楽」への攻撃である。市長は府知事時代、文楽への助成金支出を半減させ、市長に当選するや否や、すぐさま市の助成金を4分の1減額する方針だという。何故、かくも文化を攻撃するのか、理由は簡単である。彼の文化論は「銭を稼がない文化は文化ではない」という事だと思う。
 落語や歌舞伎との違いについては、専門家が見解を述べておられるが、私流に解釈するところは、いずれも大阪庶民の生活の中から生まれ、庶民に育まれ、紆余曲折、栄枯盛衰を重ねながら今日まで来たのだと思う。
文楽は途中、松竹の手に渡り、興業結果を強いられ、残念ながら手放されてしまう。しかし、この伝統ある文化を守ろうと1963年、国と大阪府・市の助成を受けて「文楽協会」が設立され今日に至っている。
きり絵作家、加藤さんの「文楽人形遣い」
我が家の宝物です。
最近は、若い技芸員(世襲ではない、一般の家庭から)の養成、地方公演、学生のための文楽教室など努力を重ねてきて、東京国立劇場公演は毎回、満席であるとか。
 だが、肝心のホームグラウンドの大阪国立文楽劇場の定期公演は空席が目立つ、という状況にあるらしい。ここに、目を付けられた。「税金をつぎ込む価値がない!」と、矢の様な攻撃である。
 しかし、全国の反応は早かった。私の愛読する「上方芸能」が「文楽応援特集」を企画した。全国から「文楽を守れ」と132氏からのメッセージが寄せられた。
 トップを切ったのが、東日本大震災直後、日本人となられたコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーン氏だ。「日本の演劇は世界の宝です。文楽が生を受けて見事な花を咲かせた大阪で、もし死に絶えるのなら、大阪の政治家の蛮行を世界は決して許さず、また忘れる事もないでしょう」と述べられた。
 これが響いたかどうか、最近市長は、「文楽は守るが、文楽協会は守らない」と言いだしている。私には、その違いはわからないが、ただ、先ほどの応援メッセージを寄せた132氏の中にも「『文楽を守れ!』と声高に叫ぶ前に,,,大阪人諸兄には、その前に為すべき事があるのでは」「本家本元の国立文楽劇場公演に空席が目立つ、という現状を、どう打開するかが、最大かつ最優先の課題なのでは」という意見もある。確かに、その点は認めざるを得ないと思う。かって、松竹から見放され、今度は、大阪人からも見放されては、「文楽」が可哀そうである。
 そこで私は決意をして、「国立文楽劇場・友の会」の入会申し込みをした。そして、大阪での公演には何が何でも観に行こうと思いもしている。大阪の文化を貶め、大阪にカジノを持ちこもうとしている市長を、”ギャフン” と言わせるためにも。

2012年6月5日火曜日

元気で再会!Ⅱ

 「銀山温泉」に到着後、2日間お世話になった観光バスの運転手さんとガイドさんとはここでお別れ。
この温泉は川をはさんで木造三階建ての風情ある旅館をはじめ20数軒の旅館が並び、雰囲気は城崎温泉の様だが真ん中を流れる川はかなり高低差があり、川面から河鹿の鳴き声も聞こえ山間の温泉という印象が強い。
我々が泊った「いとうや」は家族で経営する小さな旅籠、という感じ。しかし出てきた夕食は山菜中心の見事な料理だった。中でも「根曲がり筍」は格別に旨かった。(一人2本しかなく残念)夕食後、川に架かる沢山の小さな橋の上で夕涼み、結構宿泊客も多い。最後の夜という事でしゃべり疲れて11時過ぎには床についた。豊かな川の流れがいつまでも聞こえた。
 翌朝、6時前に目が覚め宿の内風呂へ、昨晩は川沿いに2軒ある共同浴場に入ったが、泉質は硫黄泉で、加熱、加水せずの「源泉かけ流し」のお湯だそうだ。
朝食も手抜きなしの見事なもの、山菜のお浸しが旨い。女性たちは「体重計にのるのがコワい」と言いつつ、しっかりいただいた。8時過ぎ女将さんの運転で「大石田駅」まで送ってもらい山形新幹線で「米沢」へ。ごく普通のローカル駅に新幹線「つばさ」が入ってくる。ちょっと不思議な感じがした。
 米沢駅には予約したジャンボタクシーがお出迎え、短い時間の市内観光と「米沢牛」の昼食が待っている。
タクシーに乗り込むと昨日までの晴天がウソのように雨と風が、ツキもこれまでか?最初に立ち寄ったのは酒蔵「小嶋総本店」関西ではあまり馴染みがない「東光」が看板酒らしい。
「係が不在ですみません」と、音声ガイドによる蔵見学だったが、その代わり、利き酒はどれもたっぷり頂いた。それぞれお土産の酒も買い、蔵を出ると小雨に、やはりツイている。
さて、いよいよラストの上杉家廟所へ。雨に洗われた木立が清々しい。上杉の殿さんで有名なのはやはり「上杉鷹山」だろう。かのケネディ大統領が、日本の政治家で尊敬する人物の一番に挙げたのが「鷹山」で、質問した日本人記者が「鷹山?」と言った話は有名。また「なせば成る、為さねば成らぬ、、、」の格言も有名だ。案内してくれた年配のボランティアガイドさんは「今の日本に必要な話では」と締めくくった。
-おしまい-
仙台では牛タン、山形では米沢牛、御馳走さんでした。
前を通るとセンサーがはたらき「モ―」と啼く。

2012年6月4日月曜日

元気で再会!


津波被害にあった仙台空港の佐藤忠良の
ブロンズ像「翔韻」
  元の職場の研修仲間で作っている同窓会「けやき会」の旅行に行ってきた。昨年2月末の沖縄旅行の際、来年は東北地方と決まった。しかし、帰ってきた直後の「東日本大震災」だった。幹事で検討した結果、宮城と福島の仲間を励ましに行こう!と旅行の決行を決めた経過があった。
 天候に恵まれた26日、宮城県の「青根温泉」に全国から11名が集まった。「青根温泉」は仙台藩・伊達政宗の隠し湯として名高く、我々の宿泊した「不忘閣」は藩主専用の湯で「青根御殿」として使用されてきたそうだ。
 また、数多の文人墨客が利用し、山本周五郎が大作「樅の木は残った」を執筆した部屋があり窓からその樅の大木が今も臨める。大広間で始まった宴会では、それぞれが近況を報告したがやはり、宮城と福島の仲間の話に集中した。3・11当日、お二人はそれぞれ再任用の職場で仕事中に激しい揺れに襲われた。感覚的には5分以上揺れが続いたように感じた、と言っていた。宮城の方は住居が若林地区で、昨年のブログにも書いたが直後は連絡が取れず、心配したが幸い津波の被害も無かったという事だ。福島の方も地震の被害はあったものの、津波の被害は無かったらしい。
真ん中左手の木がモデルの樅の木
 お二人とも何とか普段の生活に戻るよう色々とご苦労されたようだが、久々の再会を喜び合った。ただ、やはり福島の方が云われた「福島第1原発事故」の影響については、記述しておく必要があると思う。
おっしゃる趣旨は、「放射能被害から県外に避難された方々と、県内に残った人々との間で、心の中にわだかまりが生じている。原発事故は福島を、人を二分してしまった」という事だ。帰る見込みのない避難生活がこの先何年続くのか、「家族の多くは働き手の男を県内に残し、妻と子供は、慣れぬ県外の生活に疲れ果てている。家族の中、親族の中にも、目に見えない形でわだかまりが生じているようだ」とおっしゃっていた。国の無策に憤っては見るものの、我々に出来ることはしれている。せめて今宵ひと時を美味しい料理と旨い東北の酒で楽しく過ごしてもらうだけである。
 翌朝、福島のS氏は元気に愛車で帰られた。

2日目の目的は蔵王の「お釜」観光である。昨日の仙台から青根温泉に至るバス旅行もそうだったが、今日の「お釜」に向かう蔵王エコーラインも、遠くに雪をいただく月山を望み、 道路の両サイドには、まだ雪の壁が所々残り、新緑と、青空と雪の白さが我々を楽しませてくれる。「お釜」に到着して、間近まで降りて観るが、風が冷たい、おもわずレストハウスに逃げ込み、温かい「玉こんにゃく」を頬張る。帰路、立ち寄ったロープウエイの駅の木立の中で「エゾ春ゼミ」が鳴いていた。
 この後、次の目的地、芭蕉の句で有名な山寺「立石寺」を目指す。車中のガイドさんが盛んに進めるので1015段の石段を登る事(のハズだった)に。
山門を潜ってすぐの茶店で、おばさんが「玉こんにゃく如何ですか、楽に登れますよ」と勧める。
汗にまみれて字(静けさや~)読めず
「なんの、世話になるか!」と杖も借りずに登り始めたが15分も登っただろうか、おじさん3人組はあえなく棄権、女性(ほぼ同年代、のハズ!)たちは元気に上まで登った由、ふがいない男どもは「登る前に飲んだ昼食の『月山ビール』が効いたな~」と、ぼやきつつ、女性優位のけやき会(メンバーは、常時女性10人、男性4人)の実勢を味わった。
この後、1泊2日組のメンバーと別れ、我々は今夜の宿の「銀山温泉」を目指す。

 

 以下、次号に。

2012年6月1日金曜日

身近な珍百景

 近所のコープの外壁のフェンスに奇妙な物があると気付いたのは周辺の樹木が何本か伐採されてからである。さらに、その正体が樹の一部である事が分かったのは、その下に切株があったからである。樹が存在していた時は何とも思わず、その存在が失せて、初めて気がつくという事、伐採されて視界が良くなったといえば、それまでだが。
 
 さて、その正体だが、切株の上のフェンスに見事に食い込んでいる樹の一部なのだが、その喰いつきぶりの見事さに驚いて、写真を撮った。
 よく、街路樹などが植えられる際、添え木というか、支柱で支えるのだが、支柱と樹木を結ぶロープやワイヤーが、そのまま放置されてしまい、樹木が成長するにつれ、樹肌に食い込み傷つけることがあるらしい。

しかし、どう見てもこの樹は、自らの意思でフェンス(金網)を自らの体内(と表現したくなるほど)に取り込み成長を続けてきたかの様だ。
 樹木の成長の摂理はよく知らないが、伐採され、この樹の歴史は終わったかのように思うが、しかしフェンスに喰いついたこの樹の分身が、かえってその存在感と歴史を主張しているように思う。