先日、文楽11月公演「伊賀越道中双六」を観に行った。それから二日ほどは頭の中で「べ~ん、べ~ん、べん」と太棹三味線の音が鳴り響いていた。ものを言おうとすると、「文語調」のフレーズが頭に浮かぶ。義太夫症候群とでもいおうか、そんな症状がしばらく続いた。云うのも、平成4年以来21年ぶりの「通し狂言」で朝10時半から第1部が始まり途中25分の休憩が2回、10分の休憩が3回入るが、午後8時半過ぎまで約10時間の長丁場である。全編、聴きどころ、観どころが沢山あって、飽きないのである。よって暫くは、かかる症状が出たという次第である。
義姉の影響と、橋下市長の文楽攻撃に反発してファンになって1年ちょっとになるが、今回初めて生の「住大夫」さんを聴いた。云わずと知れた人間国宝さんである。御歳89歳、脳梗塞を乗り越え、第1部最後の「沼津の段」-千本松原の段-を語った。「伊賀越道中双六」は、日本三大敵討ちのひとつ〝荒木又右エ門鍵屋の辻の決闘〟を題材にしたもので、その中でも屈指の名場面と云われるのが「沼津の段」である。
歌舞伎でも幾多の名優が「平作」という老人を演じている。浮世の義理で親子と名乗れぬ二人が、平助の、いまわの際に、子故の闇も二道に、分けて命を塵芥、須弥大海にも勝ったる、真の親に初めて逢ひ、名乗りもならぬ浮世の義理、孝行の仕納め、と敵(かたき)の居所を告げて、親父様~平三郎でござります。幼い時別れた平三郎、段々の不幸の罪、ご赦されて下さりませ~、(床本集から)と声を引き絞り、最後の別れを果たす。
平作(の人形)を操う桐竹勘十郎も良かった。老人の滑稽味と子を想う父親の気持ちを見事に演じて、テレビで見た故勘三郎の平作を思い出させるものがあった。橋下市長の文楽攻撃以来、その逆効果もあっての文楽人気、という側面もあるかもしれないが、上方が生み、育てた文化を守っていこうという気概のようなものを、お二人をはじめ文楽劇場全体から感じられた。
それからこれは私の勉強足らず故の事だろうが、ひとつ気になることがある。文楽には心中事件など町人社会に起きた出来事を題材にした「世話物」と今回の敵討ちなど武士社会に起きた事件などを題材にした「時代物」があるが、いずれもよく人が殺されたり、子供が犠牲になったりする。今回のように、敵討ちの助太刀という目的のために、妻を離別し、果ては幼いわが子を手にかけてしまう。何故そこまで、と思っていたが今回「通し狂言」で観て、前後の繋がりから何とか、無理やり納得させることは出来た、がそれにしてもである。目的のためには全てを犠牲にするという行為を市民は「義理のためとは云いながら」と云いつつ受け入れ、敵討ちの為に子殺しをした侍を「あっ晴れ」と称賛したのだろうか。
昨今の育児放棄や、虐待の果ての子殺しと変わりはないように思う。もうそろそろ、そういう事に「うん、うん」と頷ける歳には、なっていると思うのだが、得心がいっている訳ではない。
ひげ親父さんの提起された、世間の正義と親子の情、あるいは子供(人間)の命の重さを近世以前の人々はどのように考え感じていたのだろかというのは、想像できないところがあります。
返信削除近代でも、子供が5人生まれたなら2人ぐらいは死んだり、母親が早逝するのも珍しくありませんでしたから、そういうことが実感として想像できない我々が歴史の時間から言えば例外なのでしょう。
命が軽いという問題は、つい60数年前までこの国の青年たちはそうであったわけで、強権的な国家主義・警察国家と不離一体の洗脳教育の恐ろしさを思います。
横に広げて考えてみますと、シリアをはじめ世界中では明日の命を信じられないような戦争状態や、飢餓・餓死問題がいっぱいあります。
この国のテレビは国家秘密法のインタビューに「判らない」「関心がない」という画面を放送しています。悲しい気持ちが湧いてきます。
ひげ親父さんの記事に噛みあっておりませんが、触発されて思うところをコメントしました。