私の好きなテレビ番組に「科捜研の女」というのがある。永遠のアイドル沢口靖子が犯罪捜査に活躍するサスペンスドラマである。このドラマで活躍するのが「防犯カメラ」で,犯人の逃走経路や犯人特定のカギを握るという筋立てである。
そんなドラマがドラマの世界だけでないことを「毎日」の記事で知った。「ホシ追う無数の目」-防犯カメラ最前線という記事だ。ある民間企業の技術者だった人が「民間の技術を捜査に生かす」という求人広告がきっかけて科捜研に転職し試行錯誤しながら防犯カメラの画像分析で成果を挙げる、という内容だった。
実は私にも「防犯カメラ」について小さな経験がある。何年か前、いつも利用(月極でパスを持っていた)する駅の駐輪場、入り口付近で係員のオジサンが倒れているではないか、驚いて声をかけたが、いびきをかいて反応がない。明らかに脳梗塞か脳出血の症状だ。そのうち何人かの客も集まり、携帯電話で救急車の手配をしてもらい、私は他の係員をさがしたが事務所には誰もいない。中に入って電話で緊急連絡先に連絡しすぐ来てもらうよう依頼した。間もなく救急車が到着し、オジサンは病院に運ばれて行った。
それから2~3日していつものように駐輪場から出ようとすると、事務所の中から顔なじみのオジサンが出てきて「〇〇さん、この前は有難うございました。お蔭で△△さんも症状は軽く、また現場復帰できそうです、本当に助かりました」と礼を述べた。あの時は私も他の人も救急車が走り出したのを見て、それぞれ駅に向かったハズ、名前も告げていなかったハズ、と思いつつ「え~なんで私やとわかりました?」と聞いてみた。すると顔なじみのオジサンは、「事務所の中の防犯カメラに皆さんの様子が写っていましたので、〇〇さんやとわかったんです」と答えた。「へぇーそうなんですか、軽く済んでよかったですね」と言って帰宅し、夕食時に「こんな事があってん」と話題にして、その時はそれで終わった。その後、毎日のように駐輪場の窓口を通るたびに、事務所の中に防犯カメラがあり、ずーっと監視しているのか、と思うと自分の何気ない行動も誰かに見られているという、何か「もやもや」した気持ちがおこるのを覚えた。
「毎日」の記事は、犯人逮捕に役立っていることの半面、監視社会への懸念も提示している。ある弁護士は「犯罪者じゃないから(見られても)私には関係ない、と思考停止している」と警告を発している。私の「もやもや」した気持ちが、ここ、にあったのだと記事を読んで理解した。今も防犯カメラの設置は自治体や、街の自治会からの要望で増加しているという。「防犯カメラ」という名前からは犯罪の抑止に資するという役目があり、ここに設置してますよ、と万引き防止に役立っているうちはいいだろう。しかし「防犯」から「監視」という「眼」になった時が怖い。国民総背番号制や監視カメラの増加という制度の行きつく先は、国民の自由と、民主主義が脅かされる社会であろう。もうそろそろ、私たちも「関係ないわー」と思わずに、画一的に「防犯カメラ」という言い方はやめて、「監視カメラ」という言い方もあるという事をはっきりさせるべきではないだろうか。
少年Hのお父さんは洋服やさんでしたから神戸から帰国したアメリカ人から摩天楼の絵葉書をもらいます。Hはそれを親友のイッチャンに見せただけですが、廻りまわってお父さんは警察に捕まりスパイの疑いで酷い拷問を受けます。安倍、石破、橋下、石原氏たちが賛美する戦前の社会はそんな監視社会でした。
返信削除ひげ親父さんご指摘のとおり、現代社会も負けず劣らず、監視カメラやネットの情報集積で、国民全員が丸裸にされているのと同様にプライバシーが侵害されています。
そして、ネット同様「防犯カメラ」の有用性も否定できません。となると、本当の意味で個人情報保護のための運用基準を法律等で規制することが重要なのでしょうね。私はそう思います。