今年は酷暑の影響で、毎年恒例の実家での、お盆の集まりは延期になった。今年は秋に父の33回忌の法事があるので、そこに集まれば、という事になった。
兄弟、子供、従妹らで総勢20数名が集まるわけだから世話をしてくれる高齢の兄夫婦にも配慮しなければならないと思う。で、今年は私一人で墓参りに行き、そのついでに両親や祖母、兄弟の古い写真を整理してみた。
母親の箪笥の中に残っていた古いアルバムや紙の菓子箱に無造作に入れてあった写真がかなり見つかった。そんな中の一枚がこの写真である。隣ん家のお姉ちゃんと写っているのが私。昭和25,6年ごろ、3~4歳であろうか、左手に持っているのは「ふかし芋」。何枚か同じ頃の写真があったがどの写真にも手に芋を持った私が写っている。好物という訳ではなく、お腹がすけば芋を食べていたように思う。というか、甘いものと云えばそんな物しか無かったのではないだろうか。当時、もう少し大きい子供たちは、八尾飛行場に進駐していた米兵のばら撒くチョコレートに群がったという。校長が「情けない」と泣いたという話も後になって聞いた。
戦後の物のない時代、河内の我が家の周辺は、半農半工場地帯で祖母は木津や笠置辺りまで買い出しに行った。無事ヤミ米を手に入れた帰りの列車に警官が乗り込んできて、捕まる前に泣く泣く、ヤミ米を汽車の窓から捨てた事などよく話していた。
写真に戻って、当時の子供は夏は「ランニングシャツに短パン」が正装で私のような小さい子供はパンツ姿で走り回っていたような気がする。また当時の夏は暑いには暑いが、夕立が降り、朝はそこそこ涼しかった。その証拠には、夏休みの宿題を「朝の涼しい内にやっときや!」が母親の決まり文句だった。
昭和21年生まれの私に当然戦争の記憶はなく、戦後の貧しい生活の記憶も祖母等から聞く位のものだったが、たった一つ強烈に覚えているのが姉が経験した8月15日の出来事、敗戦を知った近所のおばあさんが出刃包丁を持って「残念や~死んだる!て言うて、叫んだはった、怖かった」という話だ。今年は戦後67年、同じ年を生きてきた者にとって殊のほかつらい暑さではあるが秋には「堺」で大事なたたかいがある。まだへたばる訳にはいかないと思っている。
残暑お見舞い申し上げます。
「戦後」の記憶を言いますと、帰還兵士の集会です。
返信削除堺の大寺さん(開口神社)の境内に町内の人々が集まって、〇〇君の帰還を祝う?集会があり参加しました。
映画などで見る出征兵士を壮行する場面の裏返しですが、同じようなものでした。
それに、繁華街やお祭りには傷痍軍人がハーモニカを吹いたりして「物乞い」をしていましたね。
でも、私たちの知っている「戦後」は、貧しいけれども明るいイメージだったように思います。
それでいて、戦争の反省をすることは戦死したり負傷した肉親を否定されるような感情に支えられた保守的な思想が濃厚に残っていたと思います。
独立後初めて作られた戦争映画を父と見ました。特攻隊が突っ込んでいくときには万雷の拍手でした。
就学前の「戦後」の記憶です。
知り合いの若いお母さんに薦められ「永遠の0」を読んだ。特攻隊の本質は何だったか、を描いた本だと思うが、薦めた彼女は何度も号泣しました、と言っていたが私には胸が詰まるような部分もなかった。歳の違いなのか?よくわからない。ただ、ラストがあまりに「作り物」過ぎて長編を読んだ感慨も失われたようだった。
返信削除祖母のお供で一心寺さんにお参りに行くと、何人も傷痍軍人さんが立っていて、下げた箱にお金を入れるのが私の仕事でその度に祖母は後ろでお辞儀をしていた。
単純に言い切ってはいけませんが、日本と言う国と言うか国民と言うかは、戦争の反省・総括がきちんとできないまま朝鮮戦争特需~経済復興に進んだことが、今日までの宿題になっている原因かもしれません。
返信削除どうして、戦後ドイツが歩んだような真面目な反省ができなかったのでしょう。
戦後68年で、最も右翼的で民族主義的で軍国主義的な政府が出現していることに、メディアは警鐘を鳴らしません。怖ろしいことです。
ひげ親父さんの幼少時は、マルコメ味噌の宣伝に出てくるような可愛らしいワンパク坊主で、思わず笑わせていただきました。私も小さい時から今も一年中下着はランニングです。シマムラやその他の店に行っても、正統派のランニングが少なく困っています。
返信削除ひげ親父さんが言われているとおり、昔の夏は、今より大分気温が低かったと思います。ホタルもたくさん飛んでいました。今は、北極の氷は溶けるし、異常な高温の夏は来るし、夏季の大雨のところは昔は四国・九州と決まっていたのが、東北や北海道になるし、この異常気象も気になります。高知は1か月以上まともな雨が降らず、露地物の野菜は枯れ果てています。