2013年2月10日日曜日

上方文化について

歌舞伎の看板役者がまた、一人亡くなった。江戸歌舞伎を代表する「成田屋」十二代目‐市川團十郎、享年66歳は私と同い年である。父である十一代目團十郎を早くに亡くし、市川宗家の芸を父から学べず、他家から学ぶという苦労を重ねた。また、自身、白血病に侵され、壮絶な闘病生活の中から舞台に復帰し、息子である海老蔵に宗家の芸を情熱をこめて伝えた、と報道されている。先月亡くなった勘三郎といい、歌舞伎のこれからを支えていくべき人たちが、続けて去っていく事に歌舞伎の将来を心配する声もある。二人の逝去の前には、市川染五郎が舞台から転落し、大ケガをするという事故もあり、どうも歌舞伎座の建て替えがいけなかったのでは、と変なタイミングに悔しさをこじつけてしまう贔屓の声もあるようだが、ここは、海老蔵や勘三郎の子、勘九郎、七之助、そして最近、猿之助を襲名した亀治郎などの若手の奮起に期待したい。
歌舞伎や文楽という古典芸能の世界の事を考えるとき、私はいつも「上方」と「江戸」という事を考えてしまう。そもそも歌舞伎は、上方から派生したものと言われているが、その上方には「上方歌舞伎」というジャンルはあるが実態そのものは極めて希少である。そもそも、歌舞伎を常時上演する劇場(座)がない。そして「松嶋屋-片岡仁左衛門」「成駒屋-中村雁治郎」「天王寺屋-中村富十郎」など上方歌舞伎の名門と言われる役者の多くが東京に住み、関西在住の役者は殆どいないという事だ。その点、同じ上方を祖とする落語は、江戸と上方をはっきり分けた芸能文化であり続けてきた。長く低迷を続けてきた上方落語界も笑福亭松鶴(六代目)や桂米朝ら四天王と言われる人たちの努力で戦後の復活をみた。平成の時代に入って、桂三枝(現、桂文枝)らの努力で永年の夢だった上方落語の定席「天満天神繁盛亭」を立ち上げ、何とか東京落語に対抗するまでになったと言える。この辺の経過や歴史については、私の愛読誌「上方芸能」を参考にしているが上方の文化については、もっぱら図書館で愛読している復刻版「上方」に詳しい。これからも上方文化について素人研究を続けたい。

4 件のコメント:

  1.  先日の新聞に、中央区淡路町の御霊神社に文楽の常設小屋を復活する話が出ていましたね。御霊文楽座。
     ひげ親父殿の活躍の場が広がりそうですね。
     それはさておき、役者などの“華”はどうして生まれるのでしょう。私は「誉められて生まれる」のだと思います。
     で、人間すべからく「誉められて成長する」のだと思います。チョッと体罰問題をかすめてそんな思いをしたものです。

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  2. 毎日新聞の日曜版に中村芝翫さんの奥さん、雅子さんが「世話女房」という連載を書いておられます。歌舞伎界の出来事を家庭の中から見つめるという日記、エッセイのような物ですが、その中で役者の子供の育て方、育ち方のエピソードが面白く書かれています。よく云われる「蛙の子は蛙」という事もあるでしょうが、やっぱり環境が一番大きな要素だと思います。

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  3.  先のコメントで言い忘れましたが「ブログ更新ありがとうございました」。読者を代表して御礼申し上げます。
     ひげ親父さんの上方文化講座、みんな首を長くして待っています。
     これからも更新をよろしくお願いします。

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  4.  過日、近松の「心中宵庚申」の講演会があった。
     質問の時間に「姑はなんで四月の子をみごもっているお千代を追い出したのですか。」「あまりにひどいのと違いますか。」とあって、これには大学教授も「これは近松の浄瑠璃の世界なんで。」とタジタジだった。
     文学の講演会でそこまで聴衆を引き込むなんて、やっぱり近松の力はすごかった。

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