23年前の朝、地鳴りの音(確かに聞いた記憶がある)と強い揺れに起こされた。
すぐに隣の部屋で寝ていた子どもの上に覆いかぶさり揺れの収まるのを待った。
こう書けば如何にも落ち着いた行動のように聞こえるかもしれないが地震の後、何日か経った時点で思い起こした記憶の断片である。とっさの反応、行動だったに違いない。
揺れが収まり、自分の寝床を見て驚いた。足元のテレビボードの棚に並べてあったビデオテープが枕元に何本も飛び散っていた。もしそのまま寝ていたらビデオテープのケースの角で顔面に大けがを負っていただろうと思ったらゾッとした。
子どもを庇ったとっさの行動が我が身も守ったことになったのだろう。しかしこれも結果の話、住んでいた宿舎の被害は少なくなかったが家族3人は無事であったから云える話である。
震災当時、まだブログは初めていなかったが3・11後のブログで「60数年の人生の中で(こんな大地震を)二度も体験、経験するとは」と嘆いていたが昨日の長谷やんのブログ「明日は1・17」で地震国日本の現実をあらためて知らされた。
今日、久しぶりに訪れた三ノ宮の東遊園地は昨夜からの雨でぬかるみ、竹筒で作ったモニュメントのローソクはほとんどが消えていた。しかしあの日の事を忘れない人々が会場を訪れていた。
地震はその予知も含めて事前に防ぐことは出来ない。しかし、被害を少なくすること、減災、防災は可能である。その第一歩は、あの日「1・17」「3・11」を忘れないこと、そして、今年のモニュメントの一文字「伝」の意味-あの時の経験を次世代に伝えることだと思う。幸か不幸か大震災を二度も経験した我々にはその責任があると思う。
「伝」はほんとうにそのとおりだと思う。
返信削除あの日のことをそれぞれ自分の経験、言葉でよいからここにコメントを寄せてくれればいいなあと思う。
私は出勤コースの反対に乗って近鉄奈良駅で始発に座り込んだ。馬場町から職場を見ると見事に窓ガラスが割れていた。書架(ロッカー)が倒れ、机が移動しており、勤務時間中だとどれくらいの被害があったかと思わされた。1日中大掃除のような作業を興奮しながら行った。
1.17当日はそういうものだった。翌日から経験したことのない業務が津波のように襲ってきた。