2013年2月26日火曜日

お寺参りはどうでしょう

西本願寺・唐門(ひぐらしの門)
毎年恒例の元の職場の研修仲間の旅行会で今年は、湖北の長浜、高月、彦根、そしてオプションで最終日に京都に遊んだ。いつものメンバーに加え、今年は三年ぶりの方も参加してもらえた。   1日目は京都に集合し、バスで長浜へ直行。町おこしで超有名となった「黒壁スクェアー」や商店街などを散策したが、思いがけず「海洋堂ギャラリー」があって私的には大いに楽しめた。泊まりは、旅行業者さんお勧めのこじんまりとしたホテルへ。ロビーにはバードウオッチング用にスコープが置いてあり、周辺には大口径のカメラを構えたウオッチャーがたむろするとか。雪まじりの風に吹かれて波立つ湖面に水鳥が休んでいる。         2日目は「湖北・観音の里」高月に。代表的な渡岸寺(向源寺)の国宝・十一面観音を参拝する。十年ほど前に、木の本から高月に旅行し観音さんも参拝したはずなのに、浅井・信長のたたかいの際、村人が観音さんを土中に埋め、命に代えて守ったという話にあらためて聞き入る。その後、彦根に回り、国宝「彦根城」へ。女性陣が楽しみにしていた「ひこにゃん」の本日のお出ましは残念ながら終わっていたので天守閣から庭園を巡って歩いた。途中、何の木か知らないが枝先一面に白い花が咲いている。と、見てる間に強い風が吹いて花びらが散っていき、まるで散りゆく桜の様で一同「わあ~」と歓声が上がる。しかし、間近まで近寄っていくと、それは枝先、一本一本に積もった雪であった。自然の見事な演出に再度見とれた。彦根で昼食を取った後は一路、京都へ。一泊二日で帰る方を京都駅で見送り鴨川沿いのホテルに。受付の方の話によると我々以外は全員受験の方と家族だそうで何故か受付の会話も小声になるのが可笑しかった。3日目の朝、ホテルをジャンボタクシーで出発し、鴨川を渡るとすぐ、京都大学の受験場が目に入った。昨晩の受験生の多くがここで受験するのだろう。女性陣は、昨晩風呂で会った娘さんを「あの娘、合格するといいな~だって、観光ですか?と話しかけてくれたのヨ、一人で受験しに来たのよ!」と知り合いの様に話していた。   最終日のコースは、今回の旅のもう一つの目的である、大河ドラマ「八重の桜」で有名になった会津藩の拠点となった「金戒光明寺」である。秋の紅葉で超有名であるが今回の大河で更に観光客が増えたらしい。ガイドさんの説明の合間に、「ごめんなさい、一寸説明させてください」と上品なご老人が新島八重の写った集合写真の説明を始めた。聞けば、会津若松から来られた方で「ついつい、でしゃばって済みません」と言いながら、写真に写った方々の説明をされた。ガイドさんの話によると、大河ドラマ放映と同時に福島県からの観光客も増えたそうだ。我々メンバーの中には山口県からの方もいるので「長州からも来ています」と言うと「仲ようせにゃいかんですね」と挨拶されるのが可笑しかった。その後は、ジャンボタクシーでの観光の気軽さで「行きたい所へ行きますよ」という事で壬生寺と新撰組の宿泊所となった八木邸へ。ここでも、説明の導入部分は「ここのところは先週の大河に出てきた話です」とやや便乗気味の話ではあるが妙な臨場感があって面白い。ここで今回の旅行は解散の予定であったがタクシーの運転手さんが「まだ少し時間がありますから近くの西本願寺さんへ行きましょう」と言ってくれた。幾度となく、京都には来ているが本願寺(西も、東も)には一度も来た事が無かったが、その建造物のスケールは、あまりにも大きすぎて、人間の小ささを身をもって教えるかのようである。私的には、今回の旅のハイライトであった。それにしても年々、旅の内容が「観音めぐり」とか「お寺参り」になっていくのはどうした事だろうか、来年の当番に奮起を促したい!とは、身の程知らずになりそうだ。*最初の2日間の写真を誤ってメモリーカードから消去してしまった。トホホ。

2013年2月22日金曜日

可及(火球)的速やかに!





先週、世界を騒がせた「ロシアの隕石」正確には「火球」であるが毎日新聞の「余録」に面白い話が載っていた。昔、中国では「火球」や音を発して飛来する「隕石」を「天狗」と呼んでいたという。天狗の吠える声が雷に似ていることからそう呼んだという事らしい。我が国の「日本書紀」にも「大きな星が東から西に流れ、大きな音がした」という話があるという事だ。確かに今回の火球は地球に突入する際、衝撃波とともに非常に大きな爆発音を発した。遠く離れたロシアの地で起こった今回の火球騒ぎ、多数の怪我人が出た以上、よそ事、天空のロマン等とは言っていられないと思うが、日本書紀の時代に比べ、これだけ多くの人類が火球の現実の姿を見、聞けたのも「youtube」なる文明の利器のお陰である。記録された多くの映像、データーはこれからの研究に生かされるだろう。何の研究か?それは古代、恐竜が絶滅したのは小惑星(といっても直径10㎞)が地球に衝突した事が原因と言われている。恐竜の様に人類を滅亡させないためにも必要な研究になるだろう。でもその前に、愚かな政治家どもが人類を滅亡させないようにしっかり監視しよう。

2013年2月10日日曜日

上方文化について

歌舞伎の看板役者がまた、一人亡くなった。江戸歌舞伎を代表する「成田屋」十二代目‐市川團十郎、享年66歳は私と同い年である。父である十一代目團十郎を早くに亡くし、市川宗家の芸を父から学べず、他家から学ぶという苦労を重ねた。また、自身、白血病に侵され、壮絶な闘病生活の中から舞台に復帰し、息子である海老蔵に宗家の芸を情熱をこめて伝えた、と報道されている。先月亡くなった勘三郎といい、歌舞伎のこれからを支えていくべき人たちが、続けて去っていく事に歌舞伎の将来を心配する声もある。二人の逝去の前には、市川染五郎が舞台から転落し、大ケガをするという事故もあり、どうも歌舞伎座の建て替えがいけなかったのでは、と変なタイミングに悔しさをこじつけてしまう贔屓の声もあるようだが、ここは、海老蔵や勘三郎の子、勘九郎、七之助、そして最近、猿之助を襲名した亀治郎などの若手の奮起に期待したい。
歌舞伎や文楽という古典芸能の世界の事を考えるとき、私はいつも「上方」と「江戸」という事を考えてしまう。そもそも歌舞伎は、上方から派生したものと言われているが、その上方には「上方歌舞伎」というジャンルはあるが実態そのものは極めて希少である。そもそも、歌舞伎を常時上演する劇場(座)がない。そして「松嶋屋-片岡仁左衛門」「成駒屋-中村雁治郎」「天王寺屋-中村富十郎」など上方歌舞伎の名門と言われる役者の多くが東京に住み、関西在住の役者は殆どいないという事だ。その点、同じ上方を祖とする落語は、江戸と上方をはっきり分けた芸能文化であり続けてきた。長く低迷を続けてきた上方落語界も笑福亭松鶴(六代目)や桂米朝ら四天王と言われる人たちの努力で戦後の復活をみた。平成の時代に入って、桂三枝(現、桂文枝)らの努力で永年の夢だった上方落語の定席「天満天神繁盛亭」を立ち上げ、何とか東京落語に対抗するまでになったと言える。この辺の経過や歴史については、私の愛読誌「上方芸能」を参考にしているが上方の文化については、もっぱら図書館で愛読している復刻版「上方」に詳しい。これからも上方文化について素人研究を続けたい。