一般的に、「何々切」というのは、元々の巻物や書簡なりの写本を観賞用に切断したものの事で、有名なのは「古今和歌集」の写本を切断(断簡という)した「高野切」で、大阪の湯木美術館にある。(wikipedia)。
「唄本切」というからには、写本という事かもしれないが、どちらが原本かは置いといて、問題はその歌詞である。こちらの「唄本切」もブログの写真と同じ体裁で、7首(番が正しいかも)の唄が書き連ねてある。最初の唄が「君が代は,,,」で始まり、流麗な文字で読みにくいが、「苔の」や、「岩」等の漢字がハッキリ読める。2番目以降も所々、「戀のみち」とか「枕の」とかの字が何とか読める。やはり隆達が書いたのは「恋唄」だったようである。
この「唄本切」の伝来は、小林一三(阪急グループの創始者で、号を-逸翁-と称した)が宝塚歌劇30周年記念の茶会を催すため、安田靭彦が持っている、高三隆達直筆の「唄本切」を茶友の雑誌編集長を介して譲って欲しいと頼み、手に入れたものとある。逸翁が何故、この「唄本切」を望んだのかは分からないが厳粛なる「君が代」の元歌が小唄だったという事がさらに一歩わかった様な気がした。
*安田靭彦(ゆきひこ)-大正から昭和の日本画家。前田青邨と並ぶ歴史画の大家。
「高野切」湯木美術館蔵 |
逸翁美術館 |
!明治憲法下で「君が代」の歌が「天皇の御治世」を歌っていたことは明らかなことであり、法制化後の歴代政府も言葉を濁しながらもこの解釈の変更は行なっていない。故にその斉唱の強制に批判的な意見があることは当然であろう。
返信削除だがしかし、古今集の「我が君は・・」が原初であり、和漢朗詠集の写本で「君が代に」「君が代の」「君が代を」等にアレンジされ、「君が代に」の詞が誕生していること、これらの詞が「貴方の長寿」を歌っていることは明らかである。
そういう中から、江戸初期に「薩摩琵琶歌の蓬莱山」も「隆達節」も誕生している。そのうち、「君が代」は蓬莱山の中では一節の中の一部に取り入れられているだけであるが、隆達節でいえば、ボストン美術館所蔵屏風では、巻頭の看板の歌となっている。隆達節とは一言で言えば小唄の基、幕末までの流行歌であった。
特に幕末に色街で大流行し、江戸薩摩屋敷の近くには品川遊郭があった。
よって、大山巌が蓬莱山から採ったという通説よりも、薩摩武士が品川や堺の遊郭で学習した隆達節こそ「君が代」のほんとうのルーツではないかという説には非常に説得力がある。
言うまでもなく、それは「貴方の長寿」を願うというお座敷小唄であった。
・・・・こういう事実がおおらかに議論されない風潮は「将軍様の国」と何等変わらないと思うのだが。
!5行目誤字訂正
返信削除(正)『等にアレンジされ、「君が代は」の詞が誕生』