2016年10月17日月曜日

フォークの神様?


 今年のノーベル文学賞にアメリカのシンガーソングライターの「ボブ・ディラン」が選ばれた。授賞理由は「米国の偉大な歌の伝統で、新しい詩的な表現を想像してきた」という事である。ここで云う「偉大な歌の伝統」が何であるかはよくわからない。また、ノーベル文学賞の対象が小説(家)だけなのかという論争も起こっているようだ。
 ただ現時点でわかっていることは歌(手)としてではなく詩(人)としての受賞だろうという事だ。
 それとディラン自身が受賞について何らコメントを出していないし、果たして授賞式に出てくるのかさえ判らないという状況である。私は出席しないと思う。

 さて、ノーベル文学賞の受賞についてはこれ位にして、スノーさんから「汚らわしい写真よりディランの事を教えて」というリクエストがあったので私の知っていることを少し書いてみたいと思っている。
 少し前に(20141月のブログで)ピートシガーが亡くなったことについて想いを書いてみた。
 シガーは「フォーク(ソング)の神様」と呼ばれたのに対し、ディランは「フォークの貴公子」と呼ばれた時代があった。それほどカッコよかった。
 しかし、1965年のニューポートフォークフェスティバルでそれまでのアコースティックギターとハーモニカのスタイルを捨て、エレキギターをかき鳴らして歌った。フォークロックの誕生である。
 以降、彼のスタイルは変わっていない。しかしこの変貌はフォーク(プロテストソング)からの転向と見做され、フォークファンのブーイングを浴びた。
 この種の出来事は日本でもかって岡林信康がプロテストソングに行き詰まりを感じ長い隠遁生活を経て歌謡曲・演歌に目覚め現在に至っている。
 アメリカでも日本でも「フォークはプロテストフォークであるべき」という信奉者は存在し、この種の転向を認めようとしないのである。
 ディランはその後「私はフォークの神様ではない」と答えて、シガーとは違う道を歩んでいる。
 結局、どちらが正しいか、という問題ではないと思う。ディランも岡林も自らのスタイルを築き、現在も活動を続けている。それが答えのように思う。
 
 彼は多分出席しないと思う。



2016年10月2日日曜日

褒めそやし!

 

気になること。
 それは今朝の4chの番組でも話題になっていた臨時国会での安倍首相の所信表明演説のことだ。
 その演説の際、安倍首相は「現場では夜を徹して、そして今この瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務にあたっています。」と述べ、そして「彼らに対し、今この場所から、心から敬意を表そうではありませんか」と呼びかけた。これに応えて自民党議員らが起立し拍手をした。壇上の首相も自ら拍手した。
 私は国会中継を見ていた訳ではなかったがTVのニュース報道で見る限りは最初、議場前列の議員が一斉に起立し拍手した。それにつられて中段、上段の議員たちも立ち上がるという風に見えた。
 議場の議員席は前列に若手議員が座り、当選回数の多い順、つまりベテラン議員ほど上段に座るという風になっているらしい。
 画面では座ったまま拍手する議員、周りの様子を見てやおら立ち上がる議員もいた。だが私が気になるのはこの場面ではない。その数日後の予算委員会での場面である。これも「国会インターネット通信」で見ることが出来、録画もある。
 民進党細野議員が本会議での自民党議員の一斉起立と拍手の事を質問し「総理自身も拍手している姿を見て、素直に感じた事は、この国の国会ではないんじゃないかという錯覚すら覚えた」と質問というより感想を述べた。これに対し安倍首相は気色ばんで「起立は自発的なもの」、「強制ではない」など釈明した後、さらに語気を強め「許せないと思うのは、その時、どこかの国と同じではないか、とはどこの国なんですか、これは余りにも侮辱的ではないか!」と質問の本筋(質問の本意は国会内での起立、拍手を首相が促すのはどうなのか?自民党のおごりの表れではないか、まだ開会されてもいないTPP理事会で自民党の副理事が「強行採決してでも批准する」と発言したこと等を捉えて与党のおごりがあると指摘)には答えず語気強くまくし立てた場面である。
 細野議員の「この国の国会ではないんでは」という言葉の裏に中国や北朝鮮の党大会や会議で党首が拍手し、参加者全員が熱烈に拍手している場面を想起しているであろうことは間違いないだろうし、安倍首相がそれを意識して、あんな国と一緒にされるのは「侮辱」に値すると気色ばんだのだろうと思う。しかしこれはどうなんだろう。
 安倍首相は同じ場面で「スタンディングオベーションはアメリカ議会ではよくある事だ、何故そこだけを取り上げて追求されるのか分からない」と言っている。
 その国の政治や議会のあり方の違いを片方は自発的で、片方を独裁的なと一方的に決めつけるような安倍首相の見識そのものが侮辱的、侮蔑的な態度ではないだろうかと思う。
 私このやり取りを見て、かって大阪の中学校の卒業式で「君が代」を起立斉唱しなかった教員を処分した維新の首長を思い浮かべた。
 安倍首相は「自発的、強制ではない」と言いながらも野党の追及に釈明以上に気色ばむのは内心そんな気持ちがあるからだろう。
 話を戻そう。スタンディングオベーションと拍手の話であるが、もともと日本には拍手(柏手【かしわで】は別物)なんて所作は無かったと言われている。平安時代、興が乗ると「やんや、やんや」と声を上げて褒めそやしたと云う。拍手は無い。しかしそれが明治時代になり、西洋人が演劇や演奏会で演者に対して拍手するのを見て、文明開化の様式として真似るようになったという説がある。
 いずれにしても拍手やスタンディングオベーションは強制されてするものではない事を驕る自民は肝に銘ずべきだ。
 とまあ、見たこと、感じた事をあまり脈絡なく書いてしまったのでご容赦いただきたいが、私自身の気持ちとしては、細野議員にも安倍首相にも「やんや、やんや」の褒めそやしは出来ない!以上である。

 


2016年10月1日土曜日

季節は秋

 台風(大阪には大きな被害が無かったが)と猛暑の9月が過ぎていった。
 住んでいるマンションの大規模修繕工事が10月から始まるのでぼつぼつとベランダにあるプランターなどの片づけをしている。
 今日は以前の住人が置いていったコンクリートブロックと過去何回も入れ替え、残っていたプランターの土を業者に引き取ってもらった。 勿論有料で、市が仲介した民間業者だった。
 そんな作業をしていてブロックを片付け始めたら体長3cmほどのヤモリの赤ちゃんが2匹飛び出てきてプランターの陰に隠れていった。驚いてブロックをあらためて見ると写真の様な卵の殻がびっしりと着いていた。
 以前ブログにも書いたかもしれないが我が家のベランダにはヤモリが棲みついており、植木の水遣りをしていると時折、顔を見せてくれていた。
 初めて見たのが5~6年前なので同じ固体なのか、餌はどうしているのか、など不思議に思っていたが我が家のベランダで繁殖していた事がこれでわかった。繁殖期や産卵期があるのか分からないがベランダの床の塗り替えなどこれから始まるので「どうしたもんじゃろ~」と悩んでいる。
 それと去年長谷やんにいただいた藤袴が影も形もない。あれって1年草ですか?