26日、大阪天満宮の近所で学習会があり、参加をしてきた。会場には天満宮の境内を通るのが近道なので天満天神繁盛亭の前を通り、境内へ入ったところ、昨日の「天神祭り」の後片付けの最中であった。二基の御鳳輦はまだそのままだったが境内のあちらこちらで引幕を降ろしたり、結界のしめ縄や笹をまとめて積み上げる作業を係りの人が祭りの後の余韻を残したままゆったりした動作で続けていた。
その横を通り過ぎようとした時、きれいな花を見つけた。石組みの上に今解き外したように紐が付いたまま置いてあった。花と見えたのは造花の「天神花」だった。祭りの何を飾ったものかはわからないが、造花とはいえ、未だきれいな儘紅白の梅も、「天神花」の文字もなかなかの物で、思わず拾い上げ、社務所の巫女さんに「この花、もう要らないものでしたら貰って帰っていいでしょうか?」と尋ねると「よろしかったらどうぞ」ということで頂いたが剥き出しのままだったので帰りの電車の中では少し恥ずかしかった。
学習会は、関電大飯原発の運転停止訴訟の「福井地裁判決」の緊急学習会であった。訴訟を担当された吉川弁護士の話をじっくり聞くことができた。わかりやすい資料も貰ったので、じっくり読んでからいずれブログに書いてみたいと思う。
訂正
福井地裁判決の学習会は27日でした。26日は「一点共闘」のシンポジュウムでした。
2014年7月29日火曜日
2014年7月12日土曜日
大阪にこだわる、
気に入った特集がある時だけ購入する「大阪春秋」という雑誌がある。季刊誌である。平成26年夏号は「没後25年回想の藤澤桓夫」だった。藤澤については詳しいことは知らないし、作品も読んだことはない、が大阪が生んだ昭和最後の文士、という呼び方に以前から惹かれていた。
そして彼に繋がる甥の石浜恒夫にも強く惹かれるものがあった。といっても川端康成に師事した石浜恒夫の文学作品ではなく、作詞家としての石浜の作品が好きだった。
アイ・ジョージの「硝子のジョニー」フランク永井の「こいさんのラブコール」「大阪ロマン」など大阪色の強い歌詞である。詩集「道頓堀左岸」も好きで、その舞台になった道頓堀の「コンドル」(今は無いが)という喫茶店にも通った。娘の石浜紅子は去年,橋下に廃館にされた「なにわの海の時空館」の館長だった。
で、藤澤桓夫であるが、特集では木津川計さんが「大阪には文壇がなかった。大きな理由は、出版社が皆無に近かったからだ」と述べておられる。そして「唯一、大阪で文壇らしきものといえば藤澤桓夫邸に集まった作家たち、小野十三郎、長沖一、秋田實、織田作之助、今東光、司馬遼太郎、杉山平一など、文学界以外で画家の小出楢重、将棋の升田幸三、そして山口瞳、石浜恒夫ら、そうそうたるメンバーが集まった、いわばサロンのようなものが存在していた」と云う、ふた昔以上もっと前の話であるが今も出版業界は東京一極集中であることに変わりないようである。
写真の古本「大阪手帳」は、四天王寺の大古本祭りの「大阪本」コーナーで見つけ買った一冊であるが、その中の「大阪日記」という随筆で、東京の出版社に原稿を送る際、夕方までに出来上がると郵便局で速達にし、夜10時以降なら、直接、梅田駅(現大阪駅)まで持って行き、東京駅止めか新橋駅止めにする、と書いている。大阪文壇の重鎮さえもそんな不便さを覚悟して大阪に住んでいたのであろう。
今回の特集の中で藤澤の本の装丁を手掛けた美術家のことが書かれていて、この本が写真入りで紹介されていた。装丁したのは「具体美術協会」を設立した「吉原治良」の作品とある。
また、藤沢の人となりを紹介する中で、彼が南海ホークスの熱心な支持者としても有名であった事が紹介されている。阪神タイガースではなく、南海ホークスであるところがいい。私は「虎」ではなく「鷹」ファンが真の大阪人だと思っている、勿論、身売りする前の南海ホークスである。「虎」と「鷹」ファンの違いについては又いずれ、という事にして、とにかく大阪にこだわった作家であった事は間違いないと思う。あらためて彼の作品を読みたくなった。
そして彼に繋がる甥の石浜恒夫にも強く惹かれるものがあった。といっても川端康成に師事した石浜恒夫の文学作品ではなく、作詞家としての石浜の作品が好きだった。
アイ・ジョージの「硝子のジョニー」フランク永井の「こいさんのラブコール」「大阪ロマン」など大阪色の強い歌詞である。詩集「道頓堀左岸」も好きで、その舞台になった道頓堀の「コンドル」(今は無いが)という喫茶店にも通った。娘の石浜紅子は去年,橋下に廃館にされた「なにわの海の時空館」の館長だった。
で、藤澤桓夫であるが、特集では木津川計さんが「大阪には文壇がなかった。大きな理由は、出版社が皆無に近かったからだ」と述べておられる。そして「唯一、大阪で文壇らしきものといえば藤澤桓夫邸に集まった作家たち、小野十三郎、長沖一、秋田實、織田作之助、今東光、司馬遼太郎、杉山平一など、文学界以外で画家の小出楢重、将棋の升田幸三、そして山口瞳、石浜恒夫ら、そうそうたるメンバーが集まった、いわばサロンのようなものが存在していた」と云う、ふた昔以上もっと前の話であるが今も出版業界は東京一極集中であることに変わりないようである。
写真の古本「大阪手帳」は、四天王寺の大古本祭りの「大阪本」コーナーで見つけ買った一冊であるが、その中の「大阪日記」という随筆で、東京の出版社に原稿を送る際、夕方までに出来上がると郵便局で速達にし、夜10時以降なら、直接、梅田駅(現大阪駅)まで持って行き、東京駅止めか新橋駅止めにする、と書いている。大阪文壇の重鎮さえもそんな不便さを覚悟して大阪に住んでいたのであろう。
今回の特集の中で藤澤の本の装丁を手掛けた美術家のことが書かれていて、この本が写真入りで紹介されていた。装丁したのは「具体美術協会」を設立した「吉原治良」の作品とある。
また、藤沢の人となりを紹介する中で、彼が南海ホークスの熱心な支持者としても有名であった事が紹介されている。阪神タイガースではなく、南海ホークスであるところがいい。私は「虎」ではなく「鷹」ファンが真の大阪人だと思っている、勿論、身売りする前の南海ホークスである。「虎」と「鷹」ファンの違いについては又いずれ、という事にして、とにかく大阪にこだわった作家であった事は間違いないと思う。あらためて彼の作品を読みたくなった。
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