昭和50年ごろ、この堺港の船着き場から臨海の埋め立て地の工場護岸にチヌ釣りに出かけたものだ。
渡船屋のオヤジは、護岸に着くと「会社の見回りの車が来たら、頭低くしてや」と言い残し港に帰っていく。こっちはお金を払って釣りに来ているのに、「まるで、闇夜の泥棒みたいや」と文句を言ったものだ。それでも、五時に仕事が終わると、潮時を選んでよく通った。 写真の右前方の埋め立て地には当時、新日鉄や日立の工場が並び、高炉の高い煙突が林立していた。夜釣りの時は、工場のパイプ群を照らす照明や、高い煙突の先の赤い警告灯の点滅が釣れない時間の慰めのようだった。ちょっと前、「工場萌え」とかで夜の臨海工場群を写真に撮るのが流行ったが、30数年前に同じ感覚を味わっていたのかもしれない。
堺で勤めた1970年から1980年の10年間は、まさに高度成長期から1980年の高度成長の終焉期の入り口に至る時期に重なる。新日鉄の高炉は無くなり、日立造船も去った。その後、期待され入ったシャープの太陽光パネル工場も本社の不況が影を落とす。大阪府は、広大な未利用地を工業生産地帯から、学術、環境産業地帯にと考えているようだ。
かってNHK大河ドラマは自治都市を目指した堺を「黄金の日々」で描いた。権力に敢然と立ち向かった堺人の気概が堺にも、大阪にも、いま必要ではないだろうか。河内人として生まれ、人生の割と重要な時期を堺で過ごした(仕事中心ではあるが)私の思いである。
!「堺の目なしどり」はあまりに有名なことで、堺市では一丁目、二丁目、三丁目などの「目」がなく、一丁、二丁、三丁と数える。
返信削除これは、町内が元々京都に似た「〇〇町〇〇筋」的な名称で呼ばれ、それぞれ自治意識の高い単位であったものだから、明治に入って「〇丁目」方式を導入しようとしたとき、「そんな形式的な細分の名称は嫌だ」と「元々の一自治単位の意識が漂う、町に通じる丁とした」と言われているものだ。
こんな歴史も知ってか知らずか、大阪都などという馬鹿げた構想を提起した御仁がおられたが、堺市が断ったのは当然すぎるほど当然である。
チヌを追いかけてうろうろしていた頃を懐かしく思い出しました。それにしても月日のたつのは早いですね。
返信削除全く同感、よく通った、「M本海洋センター(渡船)」も閉店し、通りに面したガラス戸に貼った魚拓が陽に焼け、垂れ下っているのがショックでした。大きなビルやホテルは林立しているのに、その足元は閑散とし、何回も不況にあおられた街並みでした。
返信削除!小・中学校の同級生には漁師の子もたくさんいました。
返信削除友人の親父さんは自転車で魚を売っていました。
「鰯や鰯や 手手噛む鰯や」です。
私の父は毎朝4時に出て堺魚市場に出掛けていました。
あのブリキ缶の籠の名前も忘れてしまいましたがキラキラと輝いていた当時の堺の海と魚の思い出です。