2012年4月22日日曜日

白鷺は舞い残った

 元の職場の退職者会で国宝姫路城の大修理見学と酒蔵見学をしてきた。
 週間天気予報では間違いなく雨模様、という事で お城見学も、短時間の設定にし、酒蔵でゆっくりと昼食を、とプランを練っていたが、当日は汗ばむほどの天気となった。
 天守閣は解体修理の為の大屋根にすっぽり覆われ、「白鷺城」といわれた優美な姿は見られない。そこで姫路市は、大屋根の隣に天守閣全体の屋根瓦の葺き替えから白壁の塗り替え工事までを見られるエレベーター付きの施設を作った。名付けて「天空の白鷺」。
なかなかのアイデアとネーミングだと思う。


 ガイドさんを頼んで見学したが、興味深い話も聞けた。太平洋戦争時、姫路は軍事基地(城内に陸軍の部隊も)や、軍需産業の拠点でもあり、B-29の大空襲に見舞われたが、お城は奇跡的に焼失を免れた。
 今回の参加者の一人が「京都と同じ様に米軍が意図的に空襲目標にしなかったのでは」と聞いたところガイドさんは、「戦後長らくその点が論じられてきた。そこで姫路市がアメリカに調査員を派遣して当時、空襲に参加した爆撃機乗務員を探し出し、実情を聞いた」という。
 彼らは「軍の指令上、目標から外せ、という事は無かった。(お城があったと思われる辺りは)きらきらと光る湖があった」と証言したという事だった。
 当時、姫路は空襲目標であり、特に白壁が美しい、お城は空襲目標にされる事は必至であると考えられていた。そこで、軍部なのか、市当局なのかは分からないが、墨で真っ黒に染めた網を幾重にもお城に被せ、爆撃目標からそらす工夫をしたという。
 姫路の空襲は夜間に行われ、黒く染められた網のおかげでキラキラと光る内濠のみが爆撃機からは見え、湖と勘違いした、という乗務員の証言と一致する。
 空襲の翌日、一面の焼け野原の中に立つ「白鷺城」の姿に市民は涙したという事だった。

3 件のコメント:

  1. !米軍に文化財を守る意識はなかったと思います。京都の空襲が少なかった理由のひとつが原爆投下候補地だったという側面もあるそうです。姫路城の「黒い網」の効果は結果としてはあったのでしょうね。偶然に近い確率で。
     米陸軍長官の「京都除外の思い」は戦後の情報操作の中で誇張され美化された気味がありますが、これも結果としては「文化が平和を守った」ということでよいのでしょうね。

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  2. 4月の日曜日「薬師寺」で毎年、「西岡常一の遺徳を偲ぶ会」が有り法要と講演会が有るのですが昨日は映画「鬼に訊け。西岡常一の遺言」と解体修理中の東搭の見学が有りました。姫路城と同じすっぽりと大屋根に覆われた中に入り一番てっぺんの水煙を間近に見られ、雨に煙る平城京跡、奈良盆地が見られました。親父さんの写真で見ると同じ工法と思われます。こちらはエレベーターも無く非公開ですが、薬師寺の事ですから宣伝に有効に使われるでしょう。

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  3. 非公開でしたか、実は秋のハイキングと酒蔵見学の第1候補に挙げていたのですが、残念。

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