週明けに「ぎっくり腰」になり、3日間寝込んでいたが、やっとパソコンの前に座れるようになったと思ったら、風邪をひき、散々な1週間だった。
外に出かける事も出来ず、何かネタはないかと思い、例の「大阪365日事典」から、いくつか興味をひくネタを。
2月7日(1919年 大正八年)
職業紹介所 誕生
昔は労働者(当時は奉公人)を探す場合は、口入屋の世話になった。明治の末ごろには大阪市内に350軒近くもあったという。大正8年、前年に起こった「米騒動」の所為で、失業者も多く出て、大阪市が救済事業の一つとして支設の職業紹介所が誕生した。
大正10年には営利目的の紹介を規制した職業紹介法が制定され、「口入屋」は落語の中だけに残った。
2月10日(1958年 昭和33年)
浜寺公園接収解除
かって大阪の人々の夏の楽しみは色々あったが、海水浴と云えば、「浜寺」が定番、万葉の昔から海のきれいなことと浜辺の松の美しさに定評があった。よって、大阪府下で一番最初に公園に指定され、今も連綿と続く「浜寺水練学校」(通称ハマスイ)も開設され、大いに賑わったという。
ところが終戦後、進駐軍がこの地を全面接収、松林を伐採し、派手なペンキを塗った宿舎が建てられた。人々は、そんな建物を横目に見ながら、手拭いと褌とはじき豆の入った小さな袋をぶら下げ、下駄ばきで海水浴場に通った。
昭和27年、日米講和条約が結ばれ、次々と接収は解除されたが浜寺だけは一向に返還されず、戻ってきたのが昭和33年のこの日であった。しかし、返還の喜びもつかの間、36年から一帯は臨海工業地帯となって、松原も、海も遠くなってしまった。
!浜寺公園は進駐軍に接収され日本人0ff limitsでした。そして解除される3年前の昭和30年から海水浴に『行かせてもらえる』ようになりました。キャンプ(公園)の中に金網で遮断された日本人の『通してもらえる』広くない通路を『通してもらって』海岸に行きました。
返信削除浜寺海水浴場は遠くに浅瀬がありそこまで行くと楽しいのですが、途中は背丈以上の深さがあり少し危険でした。
で、私は大浜海水浴場が好きでした。
昨年8月27日のブログに「もち貝の遠い想い出」を書きましたが、誰からもコメントをいただけませんでした。
誰か、大浜や浜寺でもち貝を採った方はおられませんか。
!「口入屋」は落語の外にも残っているようです。原発は口入屋(手配師+人夫出し)によって成立っており莫大なピンハネ金が暴力団の上納金になっています。
返信削除原発利権共同体は、「原発は潜在的核兵器だ」と公言する素直な人々と、自民や民主の多くの政治家、少なくない高級官僚、倫理なき大企業、札束に頭を垂れた御用学者・マスメディア、おこぼれに群がる下請け業者と地方政治家、それに暴力団までもが加わっていたのですね。
お体、不如意の由お見舞い申し上げます。
返信削除私も一人で隠居所の裏山に入ってゴソゴソしていますが、突然動けなくなったらどうしようかと思いました。鶴亀、鶴亀!
お気遣い、感謝します。啓蟄(3月5日)まではゆっくりと過ごします。
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